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珈琲店・気功士つき

作者: 南村知
掲載日:2011/05/20

 その看板が目に入ったのは全くの偶然だった。

 スーパーで買い物を終え、駐車場の前を歩いていると、どこからともなく、ふわふわと大きなシャボン玉が漂ってきた。それは、膜が少し厚いのか、高く上がらず、私の顔の前をゆっくりと横切っていった。そして、私が、どうしてこんなところをシャボン玉が飛んでいるのかと見守っていると、低い点滴柱のようなものに下がっている木製の看板のところで、突然に、ふっとかき消えてしまったのだ。

 看板には手書きで横に二行、文字が並んでいた。上が「珈琲店」、下が「気功士つき」とあった。下の行の文字はやや小さかった。

 ここに喫茶店があったのか、と私は少し驚いた。このスーパーには時々来るが、いままで気がつかなかったのだ。店構えも地味だし、看板も小さいからだろうか。隣のパチンコ屋の建物の色とか幟などがけばけばしいので、ますます目立たなくなっているようだ。

 入ってみようかと、私はドアに近づいた。次の予定まで一時間ほど余裕があった。

 私はドアの前でもう一度看板の文字を見た。「気功士」が気になっていた。右の手首の痛みがあったからだ。

 私は美容師で、利き腕の手首の腱鞘炎はほとんど職業病だ。いつも、ハサミや櫛など握って、せわしく動かしているからだ。悪化と緩和を繰り返しながら、もう何年も付き合っているが、その腱鞘炎がここのところひどい。

あまりに痛みがきついときは、担当を代えて、洗髪やマッサージに回してもらうこともある。それも手首を使うが、ハサミを持つよりは楽なのだ。

ただ、私を指名して来るお得意さんのときは、そういうわけにはいかない。痛みと必死に闘いながら、しかもにこやかな笑顔を保たねばならない。そういうときは、顔とは反対に、気持ちはほとんど地獄だ。

それにしても、喫茶店と気功士とはどういう関係なのだろう、そう思いながら、私はドアを引いた。

低めだが明るいカウベルの鳴る音に手ごたえを感じながら一歩店内に足を踏み入れた瞬間、まず驚かされた。木の枝がぬっと、私の頭上に伸びていたのだ。

「いらっしゃい」

 と声がしたので奥のほうを見ると、カウンターの上に大きな茶色の壺が据えてあるのが目に入った。そこに大ぶりの木の枝が数本生けてあって、そのうちの最も大きな一本が入り口付近の天井にまで達しているのだ。

 枝には、びっしりというほどではないが、淡い色の花がついていた。紫を帯びている。かなり大きく、長さ五センチぐらいの、吊り鐘のような形で、花びらの先が唇状に裂けている。桐のようだが、桐の花はもっと小さいし、紫の色ももっと濃いはずだ。

 客は誰もいなかった。入って右側の壁沿いに低い四人掛けのテーブルが四つあったが、私は七、八脚あるカウンター側の椅子の一番手前に座った。

「これ、桐ですかね」

 私は、頭上にある別の枝を見上げながら、お絞りと水を持ってカウンターの中を近づいてきたマスターに訊ねた。彼は、やせ型の中背で、長いエプロンを巻いている。

 枝先には、蕾と思われる茶色の、ビー玉くらいの大きさのものが十あまり、大きな円錐の形を作ってついている。たしかに桐のようだ。

「そうです」

 静かな声とともに、マスターはお絞りと水を私の前に並べ、メニューを差し出した。

「でも、桐の花はもっと小さいでしょう。それに、色が薄すぎませんか」

 私は、メニューを開きながらそう言ったが、言ってから思い至った。

「そうか」

 私は、声に出して自問自答した。

「桐の花はだいたい高いところに咲いているから、小さく見えるんですね。普通は、こんなに近くでは見ません。本当は、こんなに大きいんですね」

「そうでしょうね。みなさん、そうおっしゃいます。本当はこんなに大きいのかと」

 メニューのコーヒーの頁を開くと、予想よりも多くの銘柄が記載してあった。

「それに、花の色もそうなんでしょうね。遠くに、固まっているように見えるから、もっと紫色が濃く見えている。本当はこんなに薄い色なんですね」

「そうかもしれません」

 メニューのコーヒーの頁の上部には、「気功士つきもあります」と、小さく添え書きがしてある。

「しかし、花の色は、野外だともう少し濃いかもしれません。この店の中で咲かせたものですから、色が薄くなってしまったということも考えられます」

「店内で?」

「そうです。切って来たときには、まだみんな蕾だったんです」

 私は、初めて入った店では、必ずその店のブレンドを頼むことにしている。

「コーヒーください」と私は言った。「ブレンドを」

 そして、思い切って付け加えた。

「気功士つきで」

 すると、マスターは、

「はい、わかりました」

 と言うと、奥のほうへ入って行ったが、まもなく、「お客さんです」という声が聞こえてきた。電話をかけているようだ。

「十五分くらいお待ちください」

 戻ってきたマスターは、私にそう言った。

「少し離れたところに住んでいるんです」

「わかりました」

 私はそう答えながら、不思議な感覚を味わっていた。まるでピザの出前を頼んで、それが来るのを待っているようだ。

 念のため、メニューの他の頁をめくってみた。どの頁にも、上の余白に、「気功士つきもあります」と小さく書いてあった。

 マスターは、コーヒーを淹れる準備を始めた。

 私はまた、桐の枝を見上げた。

 花はまだ、二分咲きか三分咲きといったところか。茶色の、蕾のようなものがたくさんある。二つ三つ、その数倍の大きさのものも見える。それは、小さなものよりも黒い。去年の実が残っているのだろう。たしかめなければならない。

「あの小さいのは、蕾ですか」

「そうです。まだこれからです」

「大きいのが二、三個ありますが、あれは去年の実なんですかね」

「そうです。莢ですね。実はもうはじけて飛んでいます」

 そういえば、大きくて黒いものは、少し口が開いているようだ。

 おや、いままで気づかなかったが、枝のところどころに、緑色の小さなものも見える。淡い緑だ。若葉が出始めているのだ。

 コーヒーのいい香りがしてきた。

「この木は、マスターが活けるんですか」

「はい」

「いつもこんなに大きな木を活けているんですか」

「いつもこれくらいです」

「どこから取ってくるんですか」

「だいたいは山からですね」

「取り換えるのは大変でしょう」

「それはまあ・・・。でも、一週間か二週間に一回ですから。三週間もそのままのこともあります」

 まだ葉が出始めたばかりだが、これが出そろったら、それはまたそれで、なかなかの見ものではないだろうか。

 カウベルが鳴った。コーヒーについている気功士にしては早すぎる。

背の高い、やせた女性が入ってきた。五十代後半くらいか。服装は若々しい。

「いらっしゃい」

 私を見て、そう言った。両手にレジ袋を提げている。この店のママが買い出しに行ってきたのだろう。

「お帰り」

 マスターがそう言った。ほら、当たった。

「どうぞ」

 とマスターが私にコーヒーを差し出したのは、そのすぐ後だった。

「あら、すてきなカップ」

 私は思わず声をあげた。

「どうして私の趣味を知っているんでしょう」

 実際、そうとしか思えないコーヒーカップだった。

 そういえば、カウンターの向こうの壁際の食器棚には、とりどりのカップが、きれいに整理されて、並んでいる。これ以外にも、あれで飲んでみたいと思うカップがいくつかある。

 私はうれしくなってしまった。

コーヒーもおいしいのでは、と左手でそっとカップを持ち上げ、口をつけた。そして、ほんの少し、口に含んだ。

「おいしい」

 と私はまた声をあげてしまった。

すばらしい。こんなことがあるのだろうか。

こんなすてきなカップで、私の好みにぴったりのコーヒーが飲めるなんて。

 ただ、その悦びは、ほんの束の間にすぎなかった。すぐに邪魔が入った。歯に沁みたのだ。昨夜からずきずきしていた親知らずが、少し収まっていたのを忘れていた。

 いったん沁みると、またずきずきしてきた。せっかくのおいしいコーヒーがだいなしだ。

 私はカップを皿に戻した。

 人間においては、少なくとも私の場合は、痛みは連動する。手首の痛みに歯の痛みが重なると、持病の胆嚢炎もうずき出す。

 カウベルが軽やかに鳴ったのは、ちょうどその時だった。

 三重苦にもかかわらず、その女の人が入ってきただけでお店の中の空気の成分が変化して柔らかになったように感じたのは、単なる気のせいだったのだろうか。

「いらっしゃい」

 お店のママやマスターよりいくらか年長と思われるその女性が私に声をかけた。ジーパンに黒のTシャツ姿だった。手には何も持っていない。私がイメージしていた気功士とはだいぶ違う。

 声はかすれている。

「気功士つきで注文されたのは、あなたなのね」

「はい」

 私は少し緊張して答えた。

「私の姉です」

 マスターがそう言った。

 顔はあまり似てはいない。

「よろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「コーヒー、飲みかけのようだけど、すぐにしたほうがいいのかしら」

「はい、お願いします」

 私は急いでそう言った。

「さてと」

 気功士は、そう言いながら、私の右隣の椅子に腰を下ろした。

「どこが、どう悪いの?」

「えーと、手首と、歯と、胆嚢炎」

 すると、気功士は笑った。

「あらあら、大変」

 ちっとも大変な声ではない。これで本当に大丈夫なのか。

「どこからいきますか」

 そう言う声も、随分のんびりしている。

「まず、これ」

 気功士ののんびりが、私にも移ったようだ。

 私は、ほとんど遊びのような感覚で、マニキュアでもしてもらう感じで、右手を彼女の前に差し出した。

 これをなんとかしてもらわなくては、仕事ができない。動かされたので、その手首はずきずき言っている。

「はいはい」

 相変わらず明るい声で対応しながら、気功士は、差し出された私の右手の手首のところを、自分の右手で軽くつかんだ。

 驚いた。

 暖かいものが、いきなり私の右手首からさっと全身に広がっていった。

「あ!」

 声を出しながら、気功士の顔を見た。表情はにこやかだが、目は鋭い。目は真剣だ。

「暖かいでしょう」

「はい」

「でも、私、体温は三十五度ちょっとしかないの」

 ということは、これはいったいなんなのか。

 考えているうちに、右手首の痛みを強く感じる辺りが、ぼっとあたたかくなる。

「もう、痛みはないでしょう」

おや、そうだ、あの痛みはなくなっている。消えてしまっている。

「はい。ないです」

いつのまに消えたのかと思っているあいだに、暖かいものはどんどん強くなってゆく。もう熱いと言ってもいいくらいだ。

「あんまり熱くなったら、言ってね」

 たしかに、すでに痛みに近い熱さだ。しかし、気持ちのいい痛みだ。苦しい痛みではない。

「大丈夫です」

「やけどをすることはないと思うけど、我慢しなくてもいいのよ」

 熱さを我慢すればあの痛みがなくなってしまうのだったら、いくらでも我慢する、そう思っていた。しかし、私の手首に感じる熱さの進行は止まりそうもない。これではやけどしそうだ。

 私は言った。

「もういいです」

「そう」

 気功士は、私の手を放した。

 気功士の手が離れると同時に、私が手首の中に感じていた熱いものはさっと引いて行った。そして、そのあと、手首の、いつもは痛みを感じているあたりに、さわやかなものが残った。

 私はまず、手首を上下に動かしてみた。まったく痛くない。

 そのあと、手首をくるくると回してみた。大丈夫だ。違和感さえない。

「どう」

「はい、痛くないです」

 不思議だ。だから、言った。

「不思議です」

「そう」

 気功士は、相変わらずにこやかだ。

「コーヒー、飲んだら」 

「そうですね。いただきます」

 今度は、右手でカップを持ち、コーヒーを飲む。先ほどよりも冷めているのに、歯はずきずきしているのに、先ほどもおいしいのはどうしてだろう。

 コーヒーをまだ少し残して、カップを皿に戻すと、気功士が言った。

「お次は?」

 どちらがいいだろう。そうだ、歯の痛みが引いたらコーヒーがもっとおいしくなるかもしれない。

「歯をやってください」

「はいはい」

 気功士は、私のほうを向くように椅子を動かすと、ジーパンのポケットから小さな袋を取り出し、その中にあったウェットティシューのようなもので自分の両の手のひらと指とを丁寧に拭いた。

「口の近くにさわるかもしれないから」

 彼女はそう説明した。使ったのは洗浄綿だったのだろう。

「さて……」

 気功士は、私の顔を見つめながら言った。

「痛いのはどの歯かな」

 彼女は、今度は、まるで歯医者のようになっている。

「右の下の親知らずです」

「右の下の親知らずね」

 気功士はゆっくりと復唱しながら、私の顔を見ていた。

「もう少し、こっちを向いてくれる」

 カウンターのほうを向いていた私も椅子を動かし、自分の身体をやや斜めに彼女のほうに向くようにした。

「それでいいわ」

 気功士はそう言うと、左手をすっと伸ばして、その手のひらをぴたりと私の右の下顎に当てた。私の右の下顎は、彼女の手のひらで柔らかく包まれたような感覚だ。

「歯は少し時間がかかるの」

 気功士はそう言った。

 彼女の手のひらが今度は全然暖かくない。

「お仕事は?」

「美容師です」

「ああ、それで」

 これは、腱鞘炎のことを言っているのだろう。

 しかし、笑顔で話をしながら、人の痛みを取るというのは、どういうことなのだろう。精神の集中などはしなくてもいいのだろうか。

 私は少し心配になってきた。

 現に今度は、歯のあたりはまったく変化がない。それどころか、少しひんやりしてきたではないか。なんだか、右の下顎の奥、歯ぐきのあたりにさわやかな風が吹いてでもいるかのようだ。

「どう、少し冷たくなってきたでしょう」

 私の心配を見透かすように、気功士の声がした。

 ああ、これでいいということなのか。

「はい」

 私はあわてて言った。

「歯の痛みやアトピーのかゆみなどはね、熱くするとますますひどくなるから、冷やさなくてはいけないの」

 患部を冷却したほうがいいケースがあるというのはたしかにそうだと思うが、しかし、手を当てて冷却すというのはどういうことだろう、私がそんなことを考えているうちに、私の右の下顎は少しずつ冷却されていっているようで、そのあたりは、すでにひんやりした感覚から冷たいという感覚に変っていた。

 その感覚に驚いているうち、私はふと、痛みのことを忘れているのに気づいた。いや、忘れているのではない、それは、痛みはもうないのだ。

 私は言った。

「もう、痛みはありません」

「そう」

 気功士は平然としている。当たり前のことなのだろうか。

 痛みが引いても、冷たさはどんどん強くなっていく。こんなに冷却していいのだろうか。もう痛みは引いたのだから、止めてもいいのではないか。

「もう少し、しておくね」

 気功士は、またしても私の心配を察したかのように声に出す。

「いまは痛みは取れたけど、歯はしばらくしたらまた痛みだす可能性が高いの。少しでも、痛まない期間を長くしたいから」

 それにしても冷たい。私の右の下顎は、もう、冷たいというより、痛いという感じだ。

 私は、自分の左手で気功士の左手をつかんだ。

「もう、やめたい?」

 気功士はそう言って、私の顔から、手を離した。

 私は、その気功士の問いに返事ができなかった。びっくりしていたのだ。私がつかんでいる気功士の左の手は、とても冷たくなっていた。それは、ほとんど氷の冷たさだった。

「ああ、驚いているのね」

 気功士は、あくまで冷静だ。

「冷やすときは、どういうわけか、自分の手も冷えてしまうの」

 私はようやく気功士の手から自分の手を離した。

 右の下顎はまだとても冷たい。しかし、もう痛いというほどではない。

 私は、その下顎のあたりが元に戻るのを待って、残りのコーヒーを飲みほした。コーヒーはすっかり冷えていたが、それでもそのおいしさは格別だった。

「さてと」

 気功士は、口ぐせとなっているらしいその言葉を発すると、私の腹部を見つめた。

「向こうを向いて」

 私はその言葉に素直に従った。

 私が背を向けると、気功士はその右の手のひらを私の右わき腹にぴたりと当てた。あたかもそれは、私の皮膚にすいついたかのような感覚だった。二枚の衣類がへだてているのに、直接私の肌に触れているという実感があった。

 やがてその感覚は、皮膚の表面からさらにその内部にまで浸透していった。つまり、内臓にその手の温もりが伝わって行ったのだ。胆嚢があると思われるあたりがぽっとあたたかくなり、痛みはただちにどこかに消え去ってしまった。

 気功士は、私の痛みが引いた後も、なおしばらく手をあてがっていた。胆嚢のあたりからは、なにかさわやかなものが身体全体に広がって行った。

 気功士が手を離したあとも、私はしばらく茫然としていた。世の中にこんなことがあるのだろうか。しかも、他の誰でもなく、この私に。

「もう二度と痛くなることはないのでしょうか」

 気を取り直して、私は訊ねてみた。

「痛みが再発するかどうかということね」

 気功士は、一呼吸おいた。

「それはね、あなたの心がけしだいなの」

「え?」

 どうしてここに精神論が出てくるのだろう。

「心がけですか」

「そう」

 気功士は落ち着き払っている。

「あなたの心がけがよければもう二度と痛むことはないけれど、心がけが悪ければ、二、三日したら、また痛みがぶり返すでしょうね」

 おそらく冗談だろうが、もしかしたら本当かもしれない。

 代金はコーヒーの分だけだった。

「気功士さんは?」

 私は訊ねてみた。

「いえ、これは気功士つきの値段ですから」

    *

 それから二週間くらい経った。手首と胆嚢は全く痛まない。ただ、親知らずは、二、三日経ってまた痛みだした。心がけがいい面と悪い面があったのだろうか。

私はある日、スーパーで買い物をしたついでに、その喫茶店に寄ってみた。

 カウベルを鳴らして店内に入り、この前座った席に

腰をおろした。

「いらっしゃい」

 とマスターがメニューを渡した。

 メニューをめくりながら、しばらくして、私はようやく気がついた。そうだ、入口の看板に、「気功士」の文字がなかった。また、メニューをめくってみても、その文字はどこにもない。

 私は、この前注文したブレンドが自分の好みによく合っていたことを思い出した。

「コーヒーください」私は言った。「ブレンドを」

 そして、付け加えてみた。

「気功士つきで」

「は?」

 マスターは、けげんそうな顔をしている。明らかにそれ以上気功士の話をしてもしかたがない表情だ。

 私はもう一度、店の中を見回した。全く同じように見える。あのとき飲んだコーヒーカップもある。しかし、たしかにどこかが違う。全体的な雰囲気といったらいいだろうか。この珈琲店はあのときの珈琲店ではない、と私は確信した。別なのだ。

 私たちの宇宙は数限りない多くの宇宙と並行的に存在しているという。あのときの珈琲店は、その並行宇宙の一つにあるものかもしれない。私はそこへ、一時的にずれ込んで、入って行ったのだろう。そこへずれ込む案内をしたのは、ふわふわと漂ってきたあのシャボン玉だったのではないか。

 私はこのごろそう思っている。

 そして、その喫茶店に行くたびに、入口のところで大きなシャボン玉に出会わないかと、ひそかに期待している。

 手首は、相変わらずおとなしい。胆嚢炎も出てこない。ただ、親知らずは、時々痛む。

                     (了)


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