「銭を回しているのは、こちらだ」と帳場を追われた女房が掛け取りの風呂敷を畳む。掛けは一文も入らず、得意先ごと出ていきます
「一文、二文、三文——」
大和屋の帳場で、旦那様は銭箱に手を入れて、わたくしの小遣いを一文ずつお数えになる。
土間には油を取りに来た川喜の女将さん、おたかさんが立っていらっしゃる。番頭の清七さんは框に膝をつけたまま目を上げない。丁稚の亀吉は柄杓を持ったきり、どこを見ればよいのか分からずにいる。
「四文、五文。……おりん、聞いているのか」
「はい。うかがってございます」
わたくしは算盤から指を離さない。二十三軒目の掛けの残りが半端で、ここで止めると初めから弾き直しでございますから。
「聞いているなら手を止めろ。人が銭をくれてやっているのだぞ」
「弾きながらでも、耳は空いてございます」
「六文、七文——おい、女将さんの前だ。少しは殊勝な顔をしたらどうだ」
「殊勝な顔は算盤に効きません」
「口の減らん女だ」
旦那様は銭を掌の上で鳴らして、それから土間のほうを向いてお笑いになった。人がいるときの旦那様は、声が二割ほど大きくなる。
「川喜さん、聞いておくんなさい。うちの女房はこれでも帳場に上げてやっているんだ。銭を回しているのは、こちらだ。お前は食わせてもらう身だ。それを忘れるな」
「さようでございますね」
(一文ずつお数えになる、そのお手間のほうがよほど高うつきますわよ。旦那様の一刻は丁稚の三日ぶん。三日ぶんのお手間をかけて八文お渡しになる勘定は、どこのお店でも合いません)
「八文だ。今月はこれで足りるだろう」
「ありがとうございます」
土間でおたかさんが咳払いをなさった。
「大和屋さん。油、五升でよろしいの」
「ああ、ただいま。亀吉、五升」
「へえ」
「女将さん、うちの油は近江屋の一番でしてね。他所より二分は上等でございますよ」
「存じておりますよ。おかみさんに毎度そう言われておりますもの」
「……いや、それは、うちの仕入れがですな」
おたかさんはわたくしの顔を見て、それから旦那様の背中を見て、口の中で何か言いかけておやめになった。
(言わなくてよろしゅうございますよ、女将さん。あなた様のお払いは来月の十日、鰤が上がる前でございましょう。言い争いに使うお息は、そのぶん値切りにお回しくださいまし)
その晩も旦那様は寄合だといってお出になった。わたくしの膳は下がりものの煮浸しが一鉢。すっかり冷えていた。
「おかみさん、あっためましょうか」
「よろしいのよ、亀吉。冷えたものは冷えたなりに数が合っております」
(三年でございます。冷えた菜っ葉を三年)
行灯を消す前に、掛けの控えをもう一度だけめくる。二十三軒。どこの家がいつ払えるか、わたくしの頭の中には節季ふたつ先まで並んでいる。並べたのは帳面ではございません。わたくしの足でございます。
* * *
節季の十日前になると、わたくしは風呂敷を提げて町を回る。
掛売というものは、盆と暮れにまとめて頂戴するもの。だから払う側は、どこから先に払うかを自分でお決めになれる。決め手は品でも値でもございません。誰が取りに来たか、でございます。
川喜の勝手口で、おたかさんは落雁を二枚出してくださった。
「おかみさん、まあお上がりなさいな」
「では、ほんの少しだけ」
(落雁が二枚。去年の暮れは三枚で、厚みも一分ございました。……女将さん、板場をおひとり減らしましたね)
「おかみさん、今度のお払いなんですけどね。半分にしていただけません」
「よろしゅうございますよ」
「あら。もう少し粘るかと思いましたのに」
「粘って取れる銭なら、とうに取っております。取れない月に粘るのは、次の月まで殺す仕事でございますから」
「……こわいことをおっしゃるのね」
「そのかわり、残りは来月の十日に。鰤の上がるころでございましょう」
おたかさんが落雁を噛む手を止めた。
「おかみさん、うちの板場をお覗きになっているの」
「まさか。落雁の厚みを見ているだけでございます」
「落雁で分かるものですか」
「大鍋の煮汁が甘くなったら、その家はお客が減っております。茶請けが薄うなったら二月以内に滞ります。玄関の履物が減ったら、まず奉公人から欠けます。三年帳場に座りますと、目のほうが勝手にそう動くようになりまして」
「……うちの人にも聞かせたいわ、それ」
湯屋の茂助さんのところは、朝いちばんに参ります。釜に火が入る前でないと、あの方は話を聞いてくださらない。
「おかみさん、今月は勘弁してくださいよ。薪が上がっちまって」
「存じております。西の山が閉まりましたから、薪は二割。ですから今月は半分でけっこうでございます」
「半分」
「そのかわり、来月は薪の値が戻ります。戻ったぶんを、そっくり頂戴いたします」
「……なんで戻ると分かるんです」
「山の口が開くのが十五日でございますから」
茂助さんは湯桶を置いて、しばらくわたくしの顔をご覧になっていた。
「大和屋さんの旦那が取りに来なさると、こうはいかない」
「と、おっしゃいますと」
「あの人は、こっちがいくら払えるかじゃなく、自分がいくら欲しいかを言いなさる」
払える月に払える額だけ頂く。これは温情ではございません。取り立てというのは、次の節季にもう一度戸を開けていただくためにするものでございますから、今月無理に絞って来月殺すのは、勘定として下手なだけでございます。旦那様はそれを、女の甘さだとおっしゃる。
その足で、隠居所の法事にも顔を出した。香典を包んで袋をお渡ししながら、わたくしの目は勝手に働いてしまう。
(袋の紙が去年より落ちましたわね。このお家、来年の春は待って差し上げないと。……履物は十四。思ったよりお人が集まっていらっしゃる。まだ息はございます)
仏様の前で人様の身代を数えている女房というのも、我ながらどうかと思う。けれど止まらない。
近江屋の庄兵衛さんのところへは、掛けを頂く前に頭を下げに行く。
「庄兵衛さん。今月の油代、十日ばかり遅れます。申し訳ございません」
「おかみさんが言いなさるなら、待ちますよ」
「助かります。……お加減はいかがです。お粥は召し上がれるようになりました」
「おかげさまで。粥に梅を一つ落とすと、あれは通るもんですな」
「では次は梅を持ってまいります。塩の強いのを」
「おかみさん。寝ついたときに見舞いをもろうたのは、あんただけだ」
「まあ。他所様は薄情でございますね」
「薄情なんじゃない。うちが仕入れ元だからだ。仕入れ元に頭を下げに来る商家の女房は、そう多くない」
(庄兵衛さんの掛値は、この見舞いの一回で三年ぶん通っております。安いものでございましょう。もっとも、そんな勘定でうかがったのではございませんけれど)
風呂敷は帰るころには重たくなっている。重たいのは銭でございます。三年、この重さで店の棚を埋めてまいりました。
* * *
その仕入先の寄合に、旦那様はわたくしを連れておいでにならなかった。
「おりん、留守を頼む」
「はい。行ってらっしゃいまし」
「言うておくが、食わせてもらう身が商談の席に出るものではない」
「さようでございますね」
「近江屋にはわたしが挨拶をしておく。掛値の話もな」
「では、庄兵衛さんの膝はお冷やしにならぬよう。あの方は座敷の下座がこたえます」
「知ったふうな口をきくな」
そう言って、旦那様は茶屋の小染さんに新しい反物を持たせてお出になった。土間で小染さんが袂を直しながら、わたくしに小さく頭を下げてゆかれた。悪気のない方でございます。悪気がないぶん、掛けの減り方が早い。
(反物一反。あれで掛け三軒分が飛びましたわね。二月のお払いは、あの反物で消えましたのよ)
同業の寄合は、うちの奥座敷でございました。襖の向こうで杯が回っている。
「うちの女房はな、帳場に座らせてやってるだけだ」
どっと笑い声が上がった。紙屋の伝右衛門さんの声が一番高い。
「大和屋さん、そりゃあいい。うちのなんぞは奥から出てきませんよ」
「出てこんほうが銭は減らん」
「番頭の代わりが只で付いてくるようなものだ。羨ましい話ですな」
「なに、飯を食わせてやってるぶん、番頭より高くつく」
また笑い声。
(伝右衛門さん。あなた様のお店、去年の暮れに手代がふたり辞めましたわね。五年でお店を畳んで、あと二年で貸家住まいでございますよ。わたくし、そういう先物は外しません)
襖の内側で膝を折ったまま、わたくしは酒の追加を三本と数えた。三本で丁稚の給金の四日ぶん。
翌朝、清七さんが帳場の前に立った。
「おかみさん。近江屋さんから使いが参りました」
「油の催促でございますか」
「いいえ。おかみさんはご息災か、と」
「……それだけ」
「それだけでございます」
「返事は」
「息災でございます、と申し上げました。使いの方は、それを聞いて帰られました」
清七さんは、ほんの少しだけ眉を動かして下がっていった。この人は三年、何も言わない。何も言わないままわたくしの弾いた算盤を見て、旦那様の勘定の穴を見て、それでも何も言わない。
* * *
翌朝、旦那様はまた銭箱の前にお座りになった。
「一文、二文——」
「旦那様」
「なんだ」
「養っていただかなくて、けっこうでございます」
指が止まった。
「なんと言った」
「わたくしは食わせていただく身なのだと、三年うかがってまいりました。おっしゃるとおりでございます。一度も違うとは申しませんでした」
「当たり前だ。違わんからな」
「はい。ですから、養っていただいている者が帳場に座って銭を回すのは、道理に合いません」
「何を言っている」
「明日から帳場には座りません、と申し上げております」
わたくしは算盤を伏せて、風呂敷をたたんだ。三年提げてきた木綿でございます。角が擦り切れて、結び目のところだけ色が薄い。
「清七さん。これを」
「おかみさん」
「二十三軒の残高と、どこの家がいつ払えるかは、ゆうべ書き出して框に置きました。読んでも当たりません。当たらないのは、書いた者が行かないからでございます」
「おい、待て。おりん。誰が座るのだ、帳場に」
「番頭さんがお座りになればよろしゅうございましょう。旦那様が三年、そうおっしゃっておいででしたから」
「掛けはどうする」
「掛け取りもいたしません。近江屋さんへのお詫びも、もう」
「詫びなど、こちらが仕入れてやっているのだぞ」
「では、そのようにお伝えくださいまし」
奥へ戻って、一番いい帯を締めた。桔梗の色で、嫁いだ年に一度だけ締めて、それきりの帯でございます。下駄も新しいほうを出した。土間で鳴らすと、いい音がする。
一歩。二歩。
「どこへ行く」
三歩目で声がかかった。計算どおりでございます。旦那様は、人の背中が三歩離れないと口をお開きにならない。
わたくしは振り返った。
そこには三年座った帳場がある。帳場格子の内側で、行灯の油煙に天井が薄黒く焼けていて、算盤の珠がひとつだけ欠けている。
いつも回っている目が、そこで止まった。
履物の数も、茶請けの厚みも、酒の三本も、何ひとつ数えられなくなった。
「……わたくしはこの帳場で一度、よう回してくれたと、言うてほしゅうございました」
旦那様は口を開けて、それから閉じた。
戸を引いて土間を出る。背中で声が聞こえた。
「帳場なんぞ番頭に座らせりゃいい。女房ひとり抜けたくらいで、商いが止まるものか」
下駄の音が、思ったよりよく鳴った。
* * *
わたくしは奥にはおりました。ただ、帳場には座らない。
銭箱の鍵も締めません。持ち出しもいたしません。掛けの控えは框に置いたまま。ただ、座らない。それだけでございます。
節季の夕、清七さんが幾日か町を回って帰ってきた。
風呂敷が軽い。
框から見ていて、すぐに分かりました。あの木綿は、銭が入ると角から先に落ちるのでございます。落ちていない。
清七さんは帳場に上がって、風呂敷をぺたりと置いた。
音がしなかった。
「番頭。どうした」
「川喜さんで、おかみさんがお見えでないならまた今度と」
「またとはなんだ。節季だぞ」
「節季でございます、と申し上げました。そうしたら、女将さんが、では次の節季にと」
「……ふざけているのか」
「隠居所も、湯屋も、同じことを」
「湯屋はなんと言った」
「釜に火が入っておりましたので、話は明日にと」
「明日、行ったのか」
「明日も釜に火が入っておりました」
「二十三軒回って、いくらだ」
「一文も」
亀吉が土間で足踏みをやめた。
節季の夕の帳場というのは、本来なら一年で一番やかましい場所でございます。銭を数える音と、書き付けの紙の音と、番頭が三度も四度も同じ数を読み上げる声とで、行灯の油が余計に減る。その晩、うちの帳場で減ったのは油だけでございました。
旦那様は框に手をついて、それから帳場の帳面をご覧になった。ご覧になっただけでございます。開きはしなかった。開いても、そこに書いてあるのは払われた銭のことで、これから払われる銭のことは一行も書いてございません。
「明日また行け」
「へえ」
「愛想が悪いのだ、お前は。笑って頼め」
「へえ」
「銭は寝ているだけだ。起こしてくればいい」
「旦那様。寝ておるのは銭ではございませんでした」
「なんだと」
清七さんは頭を下げて下がり、廊下でわたくしの前に立った。無口な人が、その晩だけ口を開いた。
「おかみさん。あれは、店に付いた掛けではございませんでした」
「……存じております」
「わしは先代のころから、この店の帳場を見ております。おかみさんが来なさる前は、暮れに三軒しか払ってくれる家がございませんでした」
「三軒でございましたか」
「三軒でございます」
そう言って、清七さんはまた黙った。三年ぶんの証人が、証言をなさった。
* * *
翌月、近江屋から使いが来た。
「今後は現金で願います、と」
亀吉が土間で棒立ちになっている。
「庄兵衛さんが、そう」
「へえ。掛値も元に戻すと」
「他には」
「それだけでございます。おかみさんによろしく、とも」
現金で、というのは商いの終わりの合図ではございません。ただ、掛けが一文も入っていない店に現金がないだけでございます。
十日で油の樽が二つ空いた。半月で乾物の棚に隙間ができた。棚は正直でございます。銭の顔をしております。
隙間というものは、埋めようとするといよいよ目立つもので、旦那様は残った品を横に広げてお並べになった。広げれば一段は埋まる。埋まったところで、次の朝にはまた隙間ができる。亀吉が毎朝それを直しておりました。
「おかみさん。あれ、いつまで並べ直すんでしょう」
「品が尽きるまででございましょうね」
「番頭。銭を回してこい」
「どこから回すのでございますか」
「掛けを取ってこいと言っているのだ」
「取りに参りました。三度」
「では四度行け」
「四度目に開く戸は、三度目に開いております」
同業の寄合には、その月から旦那様のお席がなかった。座を詰めたのだそうでございます。伝右衛門さんが一番先にお詰めになったと、亀吉が井戸端で聞いてまいりました。
「おかみさん、紙屋の旦那が、大和屋はもう掛けが利かんと言っていたそうです」
「そうでございましょうね」
噂というものは、掛けの取れない店から順に回ってまいります。旦那様が三年かけてお作りになったのは、得意先でも仕入れ先でもなく、笑ってくださる方々の座でございました。座というものは、勘定を持つお人が代わればそっくり次の方の後ろへ移ります。移った先で、また同じ高さの笑い声が上がる。
(伝右衛門さん。存じておりましたわ。あなた様は勘定を持つお人が決まっているときだけ、笑い声が高うなる)
亀吉の給金が半月遅れた。それから清七さんが暇を願い出た。
「先代からの奉公でございます。心苦しゅうございますが」
「番頭、待て。待ってくれ。給金は来月にはきっと」
「給金ではございません」
清七さんは、そこで初めて旦那様の目をご覧になった。
「旦那様。三年、この店で誰が銭を回しておいでだったか、わしは框から見ておりました」
「……番頭」
「暇を頂戴いたします」
わたくしはその晩、風呂敷をもう一枚、自分の分を買いに出た。木綿の安いのを一枚。
「おりん」
土間で旦那様が立っていらした。
「奥にいるだろう。座れ。座ってくれればいいのだ。それだけでいい」
「養っていただく身が帳場に座るのは、道理に合いません」
「そんなことを、わたしは」
「おっしゃいました。客と番頭と、同業のお歴々の前で」
「言葉の綾だ」
「銭は綾では動きませんでしょう」
わたくしは戸を引いて出た。今度は振り返らなかった。数える目は、もうすっかり戻っておりました。
* * *
裏通りの、間口一間半の店でございます。
前は下駄屋で、二年空いていた。だから安い。棚は自分で拭いた。
拭いていると、板の目に前の商いの匂いが残っているのが分かる。桐の粉と、膠と、うっすらとした油。三年、人様のお店の棚ばかり数えてまいりましたけれど、自分の手で拭く棚というものは、数えるのではなく撫でるものでございました。
初日に来てくださったのが庄兵衛さんで、油を二樽、掛けで置いていかれた。
「おかみさん。掛値は前のとおりで」
「そんな。まだ一度も払っておりませんのに」
「三年払ってもろうた。わしの帳面では、そうなっとる」
「庄兵衛さん、それは勘定が違いますよ」
「違わん。掛値というのは品に付ける値じゃない。人に付ける値だ」
その次の日に、川喜のおたかさんが暖簾をくぐられた。
「おかみさん、うちの油、こちらでいただくわ」
「ありがとうございます。……女将さん、板場をお戻しになりましたね」
「なんでお分かりになるの」
「落雁が三枚に戻っておりましたから」
「まだ出してもいないでしょうに」
「手土産の包みが、去年の暮れの厚みでございました」
「……本当に、こわい人」
清七さんはその月から、うちの帳場に座っている。無口なまま算盤を弾いて、たまに珠を一つだけ弾き直す。亀吉も来た。給金は日で払うことにした。日で払うと、あの子は毎晩それを握って寝る。
そうして、初めての節季でございます。
わたくしは自分の名の風呂敷を提げて、二十三軒を回った。二十三軒とも、戸が開いた。
「おかみさんがお見えなら、そりゃあ払いますよ」
戸を開けてくださった二十三軒のうち、七軒は縁側まで出てこられて、暖簾はいつ出すのかとお尋ねになった。三軒は油の代を先に払うとおっしゃった。一軒だけ、大和屋さんは大丈夫かねと小声でお聞きになったので、存じませんと申し上げた。存じませんというのは、この稼業でいちばん角の立たない返事でございます。
帰って締めてみると、貸し倒れが一軒もございませんでした。三年やって、初めてでございます。
「おかみさん。締まりましてございます」
「清七さん。読み上げてくださいまし」
「二十三軒、残らず」
土間に人の気配がしたのは、その締めが終わった夜でございました。
「おりん」
旦那様が立っていらした。羽織が去年のもので、袖が擦れている。
「戻ってくれ。お前がいないと掛けが取れん」
「取れませんでしょうね」
「番頭も連れて行った。得意先も、近江屋も」
「連れてはおりません。皆さま、ご自分の足で歩いていらっしゃいました」
「頼む。この通りだ」
框に手をついて、旦那様は頭を下げられた。三年で初めてご覧になる頭のてっぺんでございます。薄くなっていらした。
(一文ずつお数えになった八文が、いま、二十三軒ぶんになって帳場に載っております。合いませんでしょう、その勘定)
わたくしは算盤を伏せて、帳場から申し上げた。
「銭を回しているのは、こちらだ」
旦那様の顔が上がった。
一字も変えておりません。三年うかがった通りに申し上げただけでございます。それなのに、あの一句がどちらを指すのか、旦那様はそこで初めてお分かりになったようでございました。
戸が閉まる音がした。
「おかみさん。飯にしましょう」
清七さんが土鍋を運んでこられた。湯気が立っている。わたくしは箸を取って、まず一口いただいた。
(これですわ。温かいうちに食べる飯というものは)
明日も掛け取りでございます。風呂敷は、わたくしの名で提げてまいります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




