1話:唐突な始まり
いつからか、朝が来るのが怖かった。
目が覚めた瞬間、心臓がやけに速く打っている。
理由は分かっている。
仕事だ。
行かなきゃいけない。
でも、体が動かない。
布団の中で天井を見つめる。
見慣れているはずなのに、どこか他人事みたいだった。
スマホに手を伸ばして、やめる。
通知なんて来ていない。
それでも、誰かに何か言われる気がして怖かった。
断られるのが怖い。
機嫌を損ねるのが怖い。
何を言われるか分からないのが、怖い。
「……はぁ」
息を吐く。
――別に、失敗した人生じゃない。
大きな失敗はしていない。
取り返しがつかないこともしていない。
ただ。
「……何もなかったな」
大学も、行けるところに行った。
親が言うから、行った。
それなりに楽しかった。
……はずだ。
(何してたっけ)
今でも関わりのある友達は何人かいる。
でも、思い出そうとすると、全部ぼやける。
彼女もいた。
でも。
「忙しくなるから」
それっぽい理由で、終わらせた。
告白されたから付き合っただけの関係。
断るのも、続けるのも面倒で。
結局、楽な方を選んだ。
本当は、別に好きなやつがいた。
でも。
(まあ、いいか)
それで終わった。
何もしていない。
就職も同じだ。
一次で受かった会社に、そのまま入った。
中小企業。
でも。
「働ければいいか」
それで決めた。
実家にも、もうほとんど帰っていない。
仲が悪いわけじゃない。
ただ。
(帰る理由もないな)
それだけだ。
問題は、何もなかった。
困ることもなかった。
でも。
「……それで、よかったのか?」
答えは出ない。
昔からそうだった。
俺は、それなりにできる。
勉強も。
会話も。
仕事も。
困ることはなかった。
でも。
「普通って、なんだ?」
みんなが当たり前にやってることが、分からない。
(俺、何がしたいんだっけ)
一度も、本気で考えたことがない。
そのまま、目を閉じた。
――意識が落ちる。
目を開けると、知らない天井があった。
白くて、古びた木目。
「……は?」
体を起こす。
軽い。
嫌な予感がして、手を見る。
――小さい。
「……なんだよ、これ」
声も違う。
部屋を見回す。
見覚えがある。
というか。
「……ここ、俺の部屋か」
昔の。
「――陽太! 起きてる!?」
ドアの向こうから声が飛んできた。
その瞬間、思考が止まる。
「遅刻するよ!」
……母さんだ。
久しぶりに聞いた声。
「……ああ、はいはい」
適当に返事をする。
顔を洗う。
ランドセルを背負う。
全部、覚えている。
「……戻ってる」
小学五年生。
驚きは、そこまでなかった。
(ああ、まあ……そういうこともあるか)
納得したわけじゃない。
ただ。
(まあ、いいか)
それで済ませた。
普通なら、もっと驚くんだと思う。
でも。
(……どうでもいいか)
外に出る。
通学路。
見覚えのある景色。
「あ、陽太おはよー」
声をかけられる。
「あー、おはよー。今日も元気だな、お前」
「普通だわ」
「普通ってなんだよ、それ。俺に教えてくれよ」
軽く笑う。
相手も笑う。
――こういうのは、得意だ。
場に合わせる。
軽く流す。
波風立てない。
全部、できる。
教室に入る。
空気が一瞬で分かる。
誰が中心で。
誰が外で。
――いつもの感じ。
席に向かおうとしたとき。
「あ、お前ちょうどいいわ」
声がかかる。
教室の中央。
数人が、一人を囲んでいる。
机の上に、プリントが置かれている。
「こいつさ、まだ出してないんだよ」
「教材費だっけ?」
「今日までのやつ」
囲まれているやつは、下を向いたまま何も言わない。
「昨日も言ってたよな?」
「今日持ってくるって」
「……」
返事がない。
「なあ、陽太どう思う?」
視線が集まる。
一瞬で考える。
ここでどうするのがいいか。
場を荒らさない。
誰も困らない。
自分も目立たない。
――それが正解だ。
「え、俺に振る? 責任重くね?」
軽く笑う。
「いやいや、お前が言えって」
「いや無理無理、俺そういうの専門外だから」
肩をすくめる。
一瞬、間ができる。
「……あれ、俺も出したっけ」
プリントを覗き込む。
「やば、ちょっと自信ないんだけど」
「え、お前もかよ」
「いや、俺も危ないかも」
笑いが広がる。
空気が少しだけ緩む。
囲まれていたやつへの視線も、少しだけ外れる。
――これでいい。
誰も困らない。
問題も、大きくならない。
(……ああ)
これ、今と同じだ。
断れない。
空気を壊せない。
(結局、ずっとこれやってんのか)
「……まあ、なんとかなるだろ」
適当に笑って、流した。
チャイムが鳴る。
何もなかったみたいに、時間が進む。
放課後。
一人で帰る。
空が、やけに青い。
笑うのは、簡単だ。
場に合うことを言うのも。
空気を壊さないのも。
全部、できる。
でも。
「……普通って、なんだよ」
分からない。
(これで、合ってるのか)
答えは出ない。
――小学5年生
俺はまだ、普通になれないまま。




