生徒の夏休み日記に、たった一行だけ異様な文章があった。
終業式の日、教室の中は湿った熱気と子どもたちのざわめきで満ちていた。
「夏休みはもう明日から始まりますが、先生からの宿題です。三行でいいから日記を書きましょう。あと絵も描けたら一緒に描いてくださいね。楽しかったこと、びっくりしたこと、何でもいいです」
そう言って配ったのは手作り感溢れたプリントをホッチキスでとめただけの「夏休み日記」。我が田舎の公立小学校には最新のタブレットを渡す資金も、新品のノートを買うほどの予算は無いのだ。
私は子どもたちの何気ない言葉を読むのが好きだった。教室では見せない言葉や表現がそこにはあった。家庭での何気ないやり取りや、こんなものを見つけたよと得体の知れない虫のイラストを描く子には要注意ではあるが。
夏休みの明けた八月の終わり、職員室の隅で私はその日記をめくっていた。扇風機が首を振りひらひらと紙の端をわずかに揺らす。煩わしさもあるが一々抑える手間すら時間が勿体なく思う。
最初の数冊は、どれも似たようなものだった。
《きょうはおばあちゃんのいえにいきました。スイカをたべました。あまかったです。》
スイカが真っ二つに割れたイラストが添えてある。隆くん本人であろう人物が大きな棒を持ち、周りにはたくさんの大人が囲んでいる。絵からも楽しかった様子が伺えてとても微笑ましい。
《プールにいきました。もぐれるようになりました。》
ゴーグルをつけた水着姿の女の子が水の中でピースサインをしている。プール授業では怖くて水の中に顔をつけるので精一杯だった洋子ちゃんが自分で努力をしているなんて。きっと授業の時に周りに驚かれたいのであろう、まだ触れないでおこう。
赤ペンで丸をつけ、「よく書けました」と小さくコメントを添えていく。単調な作業だが嫌いではない。この赤ペンも今年で何本目だろうか…そんなの数える事を忘れてしまうほど消費量がとても多いのだ。太すぎず細すぎないバランスを計算されているこのペンがもはや相棒のような存在である。
ある程度目を通していた中で問題のそれは、教室の窓際の席でいつも静かに本を読んでいる沢田悠也くんのものだった。
彼の日記も、最初は普通だった。
《7月22日 あさがおにみずをあげました。むらさきの花がさきました。》
一つの朝顔だけ描かれているが周りはまだ咲いていないのか、すぼめた形のまま描かれている。
《7月24日 おとうさんとスーパーにいきました。アイスをかってもらいました。》
よく見る棒に刺さった青いアイスを描いたのだろう、ニコニコ笑顔の少年のイラストが高々とアイスを掲げている。
整った字、丁寧な文章、感情は薄いがどこにでもある三年生の夏。
そして、7月30日。
ページをめくった瞬間に私は一度読み飛ばした。目が文字を拒んだのだと思う。
もう一度、ゆっくり読む。
《7月31日 きょうは人をころしました。》
その一行だけだった。イラストも無くただ一行書かれた言葉を読んだだけで背中に冷や汗が流れるのを感じた。職員室の暑さによる汗ではない事実を受け入れられずに居た。
心臓が どくん と音を立てた。
冗談?比喩?テレビゲームの話?虫のこと?きっとそうだ。彼はまだ三年生だ。現実にそんなことがあるはずがない。
だが、その前後の日記はあまりに普通だった。
《7月29日 カレーをたべました。じゃがいもがおいしかったです。》
大きな器に盛られたカレーライスはよく見るような定番の具材で彩られている。
《7月31日 ラジオたいそうにいきました。はんこをもらいました。》
前日の文章は嘘だったように彼らしいイラストが添えられている。太陽まで描かれているということは心身に何かあった訳ではないという事だろうか?
私は職員室の時計を見た。午後四時。悠也くんの家に電話をするには遅くはない時間だった。
だが、受話器に手を伸ばしかけて止めた。なんと聞くべきなのか。
「お宅のお子さんが人を殺したと書いているのですが」
さすがにこんな質問は馬鹿げている。大人として、教師として、冷静であるべきだ。私はもう一度その一文を見つめた。
《きょうは人をころしました。》
子どもの字だが、はっきりと、迷いなく書かれている。
翌日、悠也くんは特段変わった様子もなく登校してきた。
「悠也くん、帰りに先生と少しだけお話ししてもいい?」
放課後の誰もいない教室に残した。窓の外では蝉がまだ夏は終わらない事実を告げるようにけたましく鳴いている。普段なら耳に入って来ないはずが緊張しているせいかやたらと騒々しく聞こえてくる。
「夏休みに書いてもらった日記なんだけど……この日の内容はどういう意味かな?」
日記を開いて見せると悠也くんはどれどれと覗き込んだ。そして小さく首を傾げる。
「ああ、その日ですか」
他の日に触れて欲しかったのか、予想外といった表情をしている。
「なにを殺したのかな?」
私の喉はすっかり乾いていた。夏の暑さのせいではなく緊張のせいだ。
「わすれちゃいました」
「忘れた?」
「はい」
嘘だと思った。
だが悠也くんの顔は無表情で責める隙もない。
「ゲームの話? 虫とか?」
「わかりません」
「じゃあ……」
それ以上、言葉が出なかった。
悠也くんは私をじっと見た。黒目がちの瞳がまるでこちらを観察しているようだった。
「先生はだれも殺したことないんですか?」
「ある訳がないわよ」
即答したがその瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。殺す、という言葉の意味。
子どもの自信を、夢を、可能性を。
テストの点で序列をつけ叱責で口を閉ざし、「みんなと同じに」と押し込める。私は、何人分の何かを殺してきただろう。
悠也くんはふっと視線を外した。
「その日は、もういらないなって思ったんです」
「なにを?」
「……ひみつです」
チャイムが鳴り、会話は途切れた。
結局私はそれ以上追及できなかった。校長に相談することも、保護者に連絡することもせず、「表現の自由」と自分に言い訳をした。
後日夏休みの日記は全員分、返却された。
悠也くんはいつも通り席に座り、静かにページをめくっていた。
九月のある朝、職員室である事が知らされた。
「三年一組の沢田悠也さんが昨夜、自宅で亡くなりました」
事故だという説明だけが事務的に告げられた。私は突然すぎる知らせを受けその場に立ち尽くした。
早すぎる突然の別れを生徒たちに告げると涙する者、信じられない表情をする者、理由をひたすら聞こうとする者、様々であった。私は何も言えなかった。
放課後になり悠也くんの私物をご家族へお返ししようと机を確認すると、返したはずの日記が残っていた。
なぜ、ここに?
震える手で開く。
《よく書けました。》
夏休み最終日の内容の下に書いた私の文字。そしてそのさらに下に、鉛筆で小さく書き足されている。
《先生が気づかなかったので、つぎはちゃんとやります。》
その日付は、昨日になっていた。
窓の外で、蝉が鳴いている。
夏はまだ、終わっていなかった。




