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あってはならない存在

 商店街を抜けると、住宅街特有の静けさが辺りを支配していた。

 アスファルトから立ち上る陽炎かげろうが視界を揺らしている。僕は額に滲む汗を手の甲で拭った。

 歩幅が狭い。

 いつもの感覚で歩いているつもりなのに、景色がなかなか後ろへ流れていかない。まるでサイズの合わない靴を履かされているような、もどかしい感覚だ。

 身長一五〇センチそこそこの視点から見る世界は、記憶にあるそれよりもずっと圧迫感があった。塀が高い。道路標識が見上げる位置にある。すれ違う大人が、まるで巨人のように思える。


(これが十三歳の視界か……)


 僕は自分の身体を見下ろした。

 細く頼りない腕。半ズボンから伸びる日焼けした足。

 身体そのものは悪くない。当時はサッカー部で毎日走り回っていたはずだから、体力はむしろ今の自分より上だろう。

 だが、違和感がある。

 歩くリズムが合わない。腕の振り方、膝の曲げ方、すべてが僕の知っている自分の動きとずれている。まるで初めて乗る自転車のように、身体の操縦に余計な神経を使っている気がした。

 それ以上に、精神的な疲労感が想像以上だった。

 見慣れたはずの街並みが、どこかよそよそしい。

 角のタバコ屋はまだ営業していて、ガラスケースの中には懐かしい銘柄が並んでいる。その隣の空き地は、僕の記憶ではマンションが建っていたはずだが、今は雑草が生い茂り、「売地」の看板が傾いていた。


 過去に戻ったという事実を、街の風景が残酷なまでに突きつけてくる。

 僕は無意識にポケットを探ろうとして、そこに何もないことを思い出して手を止めた。

 時刻を確認する術がない。情報の遮断された不安感が、背中を冷たい指で撫でる。


 不意に、前方から自転車のベルの音が聞こえた。

 僕は反射的に電柱の陰に身を隠した。

 通り過ぎていったのは、近所のおばさんだった。荷台にスーパーの袋を積み、必死にペダルを漕いでいる。

 心臓が早鐘を打っていた。

 知り合いに会うかもしれない。

 今の僕は「神木夏樹」そのものだ。近所の住人に見られれば、当然のように「夏樹くん」と声をかけられるだろう。

 だが、中身は違う。

 もし会話になれば、二十八歳の知識や語彙がボロを出す可能性がある。

 そこには十五年の空白がある。

 家に帰った時、両親はどう反応するだろうか。

 何時に出かけた? 夏休みの宿題は? 今日の予定は?

 そんな日常的な質問ひとつに、僕は答えられない。

 見た目は十三歳の息子そのものなのに、記憶の整合性が取れない。それはどれほど不気味なことだろうか。


(……考えすぎだ)


 頭を振って、思考を切り替える。

 今はとにかく、家の様子を確認することだ。

 状況を把握しないことには、次の行動も決められない。


 僕は慎重に歩みを進めた。

 実家まではあと少し。

 角を二つ曲がれば、見慣れた二階建ての家が見えてくるはずだ。


 曲がり角の手前で立ち止まり、呼吸を整える。

 塀越しにそっと顔を出した。

 三十メートルほど先に、その家はあった。

 神木家。

 築十五年(当時)の、モダンな外観の住宅。

 ガレージには父の愛車であるダンが停まっている。休日のようだ。

 二階の自分の部屋の窓を見る。カーテンは開いているが、人の気配はない。

 一階のリビング。レースのカーテン越しに、微かに人影が動くのが見えた。


(母さんだ)


 シルエットだけで分かった。

 台所に立って夕食の準備をしているのだろう。換気扇から、煮物の甘辛い匂いが漂ってくるような気さえした。

 胸が締め付けられるような郷愁。シルバーのセ

 二〇二六年の母は、もう少し背が小さくなり、白髪も増えていた。だが、そこにある影は、記憶の中の若々しい母そのものだった。


 僕は電柱の陰から動けずにいた。

 ただいま、と言って玄関を開ける。

 それがどれほど困難なことか、ここに来て初めて理解した。

 僕は「神木夏樹」であって、同時に「神木夏樹」ではない。

 十五年後の未来から意識だけが戻ってきた、連続性を欠いた存在だ。

 その僕が、何事もなかったかのように家族の団欒だんらんに加わることができるだろうか。


 その時、玄関のドアが開く音がした。


 反射的に電柱の陰に身を縮めた。

 誰かが出てくる。

 父さんか。それとも母さんか。

 息を殺して待つ。


 出てきたのは、ジャージ姿の少年だった。

 エナメルバッグを肩にかけ、気だるげに靴のかかとを直している。


 最初の一秒。

 僕の脳は、それを「知り合いの子」として処理しようとした。


 二秒目。

 黒髪。少し日焼けした肌。僕と同じくらいの身長。どこかで見たような顔だな、と思った。


 三秒目。

 見たことがある、のではない。

 あれは——


 時間が止まった気がした。


 あれは、僕だ。


 視界が狭まる。

 心臓が胸郭を突き破りそうなほど激しく鳴っている。

 呼吸を忘れた。あるいは、呼吸の仕方を忘れた。

 目の前にいるのは、間違いなく十三歳の神木夏樹だ。

 僕が毎朝鏡で見ていた顔。黒目がちの瞳、少し尖った顎、右の眉の端にある小さなほくろ。

 なぜだ。

 なぜあそこに僕がいる。


 少年が玄関の方を振り返り、何か短い言葉を投げた。


「——いってきまーす」


 その声が、遠い水底から響くように聞こえた。

 無邪気な、十三歳の少年の声。

 僕の声だ。僕自身が発したことのある、あの頃の声だ。


 少年は軽い足取りで門を出て、反対方向へ歩いていく。駅の方だ。

 その背中を見つめながら、僕は壁に背中を預けるようにしてずり落ちた。

 膝が笑っている。立っていられない。


 理解が追いつかない。

 僕は十五年前の自分の身体に意識が戻ったのだと思っていた。

 タイムリープ。そういう現象なのだと。

 それなら、あの少年は何だ。

 僕の意識がここにあるのなら、あそこにいる「神木夏樹」の中身は誰なのだ。


 答えは、残酷なまでに明白だった。


 あれは、この時代の神木夏樹だ。

 十三歳の、正真正銘の本物の夏樹。

 僕の意識が「戻った」のではない。

 僕は、この世界に「新たに出現した」のだ。


 量子物理学者として、その意味を瞬時に理解した。

 同一人物が同一時空に二人存在する。

 それはパラドックスだ。あってはならない現象だ。

 質量保存の法則。因果律。すべてがこの状況を否定している。


 それなのに、あの少年は確かにそこにいた。

 僕と同じ顔で、僕と同じ声で、「いってきます」と言って出かけていった。

 あいつにとって、今日は何でもない夏休みの一日だ。

 あいつは僕の存在など知らない。知るはずがない。

 そして僕はこの世界にとってはあってはならない存在だ。


 その認識が、冷たい刃のように胸を貫いた。


 ここは僕の過去であっても僕の過去ではない。

 僕という存在が二人いる、ねじれた世界なのだ。


 蝉の声が、一層激しくなった気がした。

 あるいは、それは僕の耳鳴りだったのかもしれない。

 僕は震える膝を両手で押さえ、アスファルトに視線を落とした。


 帰る場所など、どこにもないのかもしれない。


 あの家に、僕の居場所はない。

 あの食卓に、僕の席はない。

 あの家族の中に、僕は存在しない。


 夕暮れの影が、ゆっくりと足元に這い寄ってくる。

 僕はそれを見つめたまま、動くことができなかった。

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