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十三歳の僕

 公衆トイレに入って、洗面台にある鏡をちらっと見ると、僕は息を呑んだ。

 それは他人の体ではなく、紛れもなく僕の体だ。

 ただし、幼い頃の。


 「噓だろ……」


 僕の顔が真っ白になって、唇が勝手にそう呟いた。

 僕の意識が、中学生の僕の肉体に転移した。

 科学者としての理性が、現状を分析しようとフル回転を始めたが、感情がそれを拒絶していた。


 正気を失った僕が真っ直ぐ個室に駆け込んでドアをロックし、荒い息を吐きながら便座の蓋の上に座った。

 心臓が早鐘を打っている。酸素が足りないような閉塞感。

 呼吸を整えようと深く息を吸い込むと、公衆トイレ特有のアンモニア臭と、どこか懐かしい消毒液の匂いが鼻腔を刺した。

 「噓だ噓だ噓だ噓だ...」

 見間違いの可能性をまだあきらめていない僕が同じ言葉をずっと繰り返していた。

 いったん落ち着いた後、恐る恐る、ふたたび洗面台の鏡に向き合う。


 ――本当だ。

 覚悟していた悪夢は、鏡の中でより鮮明に現実を突きつけてきた。

 夢ではない。この湿気も、蝉の声も、アスファルトから立ち上る熱気も、あまりにもリアルだ。

 黒髪の、あどけない少年。線の細い輪郭。日焼けした肌。黒目がちの瞳。大きな瞳には不安の色が浮かんでいる。まだ喉仏の目立たない首筋。

 汚れた鏡面が映し出すその顔は、紛れもなく十五年前の僕だった。


「……ありえない」


 声変わりする前の、少し高い声が鼓膜を揺らす。

 僕は震える指先を持ち上げ、鏡に映る少年の頬に重ねた。指紋で汚れた鏡面の向こうで、同じように指を上げる少年がいる。

 次に、自分の頬を強くつねった。痛覚は鮮明だ。

 瞼を裏返し、眼球の毛細血管を確認する。充血はない。瞳孔の反応も正常。

 右手を握り、開く。神経伝達に遅延はない。自分の意志通りに指が動く。


 ――幻覚剤の類か?

 ――いや、投与された記憶はない。実験中の事故による脳震盪、あるいは側頭葉の損傷による離人症か?

 ――しかし、この触覚のリアルさはどう説明する?

 脳が作り出した幻覚にしては、情報の解像度が高すぎる。


 二十八歳の僕は、量子物理学者としてあらゆる「非科学的」な現象を否定してきた。

 目の前の現象は、既知の物理法則では説明がつかない。だが、観測事実は絶対だ。

 鏡の中の少年は、僕の意識と完全に同期して瞬きをしている。


 僕は洗面台の縁を強く握りしめ、鏡を睨みつけた。

 論理的思考でパニックをねじ伏せる。まずは状況の整理だ。この身体の情報を集める必要がある。


 僕はズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 空っぽだ。

 いつも右ポケットに入れているはずの、あの薄く硬質な感触がない。

 スマートフォンがない。

 IDカードもない。

 財布も、車のキーも。


 代わりに出てきたのは、マジックテープ式の安っぽい小銭入れと、くしゃくしゃになったハンカチ。そして、ポケットの奥から出てきた一枚のカード。

 当時流行っていたトレーディングカードゲームのレアカードだった。端が擦り切れている。これは多分、中一の時手に入れたものだ。

 それを目にした瞬間、二十八歳の思考が停止しかけた。

 こんなものを、僕は大切に持ち歩いていたのか。

 現代社会と繋がるためのあらゆるデバイスが欠落している。その事実が、鏡の映像以上に僕を追い詰めた。この世界には、僕が依存していた情報網が存在しない。


 僕は逃げるようにトイレを出た。

 ムッとするような熱気が全身にまとわりつく。

 2026年では、ここまで湿度が高く、生温かい風を感じることはなかった。土と草いきれの混じった濃密な夏の匂い。


 公園のベンチに座る老人たち。走り回る子供たち。

 風景は一見すると平和だが、違和感は至る所にあった。


 通り過ぎる女性が、パカッと二つ折りの携帯電話を開いて耳に当てた。銀色の筐体にストラップがじゃらじゃらとぶら下がっている。

 電柱に貼られた「アナログ放送終了」のポスターが目に入る。

 ベンチの若者が白いイヤホンを耳に突っ込み、手元の四角いiPodを操作している。ワイヤレスでも、スマートフォンでもない。

 遠くに見える看板の色褪せ方も、僕の記憶にある「あの頃」と重なる。

 そして何より、蝉の鳴き声だ。

 耳を塞ぎたくなるほどの蝉時雨。これほどの音圧は、近年の都市部では聞かなくなっていた。


 僕はふらつく足取りで公園の出口に向かった。

 商店街の入り口にある時計店の前で、足が止まる。

 ショーウィンドウの中に置かれたデジタル時計。

 赤いLEDが、無機質に時を刻んでいた。


『2011. 7. 24』


 この数字が網膜に焼き付く。

 二〇一一年七月。

 間違えなく、これは僕が十三歳だった夏。


 事実として確定した瞬間だった。

 不思議と叫び出したい衝動はなかった。あまりにも現実離れした事態を前にして、感情の処理が追いつかず、逆に脳が冷えていく感覚。

 

 これは夢でも幻覚でもない。

 僕は、過去にいる。

 それも、十三歳の自分の身体に入り込んで。


 通り過ぎる自転車のブレーキ音。商店街から流れるスーパーの特売のアナウンス。

 全てが圧倒的なリアリティを持って迫ってくる。

 僕は立ち尽くしたまま、自分の小さな手のひらを見つめた。

 震えは止まっていた。

 恐怖よりも先に、解決すべき課題としての認識が芽生え始めていた。

 

 まずは拠点が必要だ。

 安全を確保し、情報を整理し、この現象の原因を探るためのベースキャンプ。

 行くべき場所は一つしかない。


 僕は顔を上げ、実家のある方向を見据えた。

 帰ろう。僕の、かつての家へ。

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