蝉時雨と消えた痛み
意識が浮上する感覚は、深海から急激に引き上げられるそれに似ていた。
直前まで全身を焼き尽くしていたはずの灼熱がない。鼓膜を劈くような警告音も、同僚たちの悲鳴も、全てが嘘のように消え失せている。
あるのは、肌にまとわりつくような湿気と、頭上から降り注ぐ耳鳴りのような音だけだ。
「……あ……?」
漏れ出た声は、驚くほど高く、頼りなかった。
僕は重い瞼をこじ開ける。視界に飛び込んできたのは、無機質な実験室の天井ではなく、鬱蒼と茂る緑の木漏れ日だった。
眩しさに目を細めながら、僕は自分が仰向けに倒れていることを知覚する。背中には硬い感触。木のベンチだ。
(生きてる……のか?)
あの規模の爆発事故だ。生存など絶望的だったはずだ。量子もつれを利用した転送実験の暴走。制御コンソールが火花を散らし、目の前が真っ白に染まった瞬間、僕の意識は途絶えたはずだった。
なのに、痛みがない。
それどころか、身体が妙に軽い。
僕は上半身を起こそうとして、強烈な違和感に襲われた。
視点の高さが違う。
ベンチに手をついた瞬間、視界に入った自分の手が、あまりにも小さく、滑らかだったからだ。
実験薬品で荒れ、ペンダコが染み付いた28歳の男の手ではない。
細く、白く、傷一つない――子供の手。
「なんだ、これ……」
心臓が早鐘を打ち始める。
僕は慌てて自分の身体を見下ろした。
着ているのは、記憶にあるようなないような、安っぽいプリントTシャツと半ズボン。膝には小さな擦り傷があり、絆創膏が貼られている。
足元には、履き潰したスニーカー。
(夢か? それとも走馬灯の類か?)
僕は呆然と周囲を見渡した。
そこは、見覚えのある公園だった。
けやき公園。実家から徒歩十分の場所にある、古びた公園だ。小さい頃よくここに来て遊んでいた。
錆びついたジャングルジム。ペンキの剥げたブランコ。そして、けたたましく鳴き叫ぶ蝉の声。
蝉時雨。
気温も暑いし、間違えなく今は夏だ。
...
冬じゃない。
僕はついさっき、暖房の効いたラボで、コーヒー片手に最終チェックをしていた。
だが今の自分は真夏の公園にいる。しかもこの体に強い違和感と、どっかの懐かしさを感じていた。
混乱する頭を整理しようと、僕はベンチから降りた。
地面に足がついた時の感触が、あまりにも頼りない。
間違えなくこれは僕の体ではない。なら...これは誰の体なの?
(鏡を探そうか...)
僕はそう決意し、ふらつく足取りで、公園の入り口にあるお手洗いへと向かう。あそこには、鏡があるはずだ。




