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このマグカップを、あなたに——婚約破棄されたので、自分のために器を焼くことにしました

作者: こうこ
掲載日:2026/01/22

「このマグカップ、あなたにあげます。もう二度と顔も見たくないので」


アレクシス・フォン・シュヴァルツェンベルクの蒼い瞳が、驚愕に見開かれた。


私——リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプトは、五年間毎朝使い続けてきた使い古しのマグカップを、婚約者だった男の胸に押し付けた。まだほんのりと温かい。つい先ほどまで、彼のために朝のお茶を淹れていたのだから。


「……は?」


間の抜けた声が、豪奢な公爵家の朝食の間に響く。


「待て、リーゼロッテ。私が言ったのは——」


「婚約破棄でしょう?」


私は穏やかに微笑んだ。表面上は、だが。


(ああ、やっと解放される)


内心では、五年分の疲労が一気に溶けていくような、途方もない安堵が広がっていた。


「マリアンヌ嬢とお幸せに。あの方なら、きっとアレクシス様にお似合いですわ」


「いや、その、そうではなくて——」


彼は明らかに動揺していた。当然だろう。彼が用意していた台本では、私は泣き崩れ、縋りつき、どうか考え直してほしいと懇願するはずだった。


残念ながら、私にはそんな趣味はない。


「リーゼロッテ、君は——」


「退屈で地味な女、でしたか」


私は小首を傾げた。昨夜、彼がマリアンヌ嬢に囁いていた言葉を、一字一句違わず復唱してみせる。


「『あの女は退屈だ。地味で、華がない。君のような輝きがあれば』——でしたかしら」


「聞いていたのか」


「ええ」


私は淡々と頷いた。


(聞かせるように言っていたのはあなたでしょう)


五年間、この人のために尽くしてきた。毎朝誰よりも早く起きて、お茶を淹れた。体調を気遣い、好みを覚え、心を込めて——。


そのすべてを、彼は「退屈」の一言で片付けた。


ならば、もう十分だろう。


「あのマグカップ、大切にしてくださいませ」


私は深々と一礼した。完璧な角度で、完璧な所作で。伯爵令嬢として恥じることのない、最後の挨拶。


「……それだけか」


アレクシスの声には、どこか納得のいかない響きがあった。


「それだけ、とは?」


「泣かないのか。怒らないのか。五年も婚約していて——」


「五年も我慢していましたもの」


言葉が口をついて出た。しまった、と思ったときにはもう遅い。


私は微笑んだまま、踵を返した。


「リーゼロッテ!」


呼び止める声を背に、私は振り返らなかった。


扉を閉めた瞬間、廊下で待っていたエマが飛びついてきた。


「お嬢様……!」


「泣かないで、エマ」


私は侍女の震える肩を撫でた。


「私は泣いていないでしょう?」


「だからです! お嬢様は、もっと……もっと幸せになれる方なのに……!」


(そうね)


私は心の中で頷いた。


(これからは、自分のために生きよう)


実家には、封印したままの工房がある。母から受け継いだ轆轤がある。そして私には、誰にも知られていない才能がある。


魔力を込めた器を作る、希少な血筋。


あのマグカップも、そうだった。毎朝アレクシスに淹れていたお茶が心身を癒していたのは、器に込めた私の魔力のおかげ。彼はそれを知らない。知る価値もないと、私を切り捨てた。


だから、返してあげたのだ。


空っぽの器を。


もう私の心は、あの中に入っていない。


「帰りましょう、エマ」


「はい、お嬢様」


涙を拭いながら頷く侍女の手を取り、私は公爵家の屋敷を後にした。


朝日が眩しかった。


五年ぶりに見る、自由な空の色だった。



婚約破棄から三日後の夜。


アレクシス・フォン・シュヴァルツェンベルクは、天蓋付きの寝台の上で何度目かの寝返りを打った。


眠れない。


どうしても、眠れない。


「……なんだ、これは」


高級な羽毛布団を蹴り上げ、彼は苛立たしげに身を起こした。窓の外では月が煌々と輝いている。時刻は深夜の二時を回っていた。


三日前までは、こんなことはなかった。


朝起きれば、リーゼロッテが淹れたお茶が待っていた。あの使い古したマグカップで飲む一杯が、一日の始まりだった。飲み終える頃には心地よい温もりが体中に広がり、夜は深い眠りに落ちることができた。


「あの女がいなくなったくらいで……」


馬鹿げている。あんな退屈な女、いなくなって清々したはずだ。


今はマリアンヌがいる。愛らしい笑顔で「アレクシス様」と甘える、華やかな婚約者。リーゼロッテにはない輝きを持った女。


「……水でも飲むか」


サイドテーブルに置かれたグラスに手を伸ばす。マリアンヌが寝る前に用意してくれた、蜂蜜入りのミルクだ。


一口含んで、アレクシスは顔をしかめた。


ぬるい。甘すぎる。何より——味気ない。


「なぜだ」


同じ蜂蜜、同じミルクのはずだ。なのに、リーゼロッテが淹れたものとは何かが決定的に違う。


あの地味な女が淹れただけで、なぜあれほど美味かったのか。


「くだらない」


グラスをテーブルに叩きつけるように置き、アレクシスは再び寝台に倒れ込んだ。


目を閉じる。眠ろうとする。だが、まぶたの裏に浮かぶのは——。


『五年も我慢していましたもの』


あの日、リーゼロッテが最後に見せた微笑み。穏やかで、静かで、どこか——解放されたような。


「……っ」


なぜ、あんな顔をした。


なぜ、泣かなかった。


なぜ、縋ってこなかった。


五年も婚約していた女が、あっさりと去っていった。まるで重荷を下ろしたかのように、軽やかに。


「私が、重荷だと——?」


ありえない。公爵家嫡男である自分との婚約は、伯爵令嬢にとって身に余る栄誉のはずだ。リーゼロッテは喜んで尽くすべき立場だった。実際、五年間そうしてきたではないか。


なのに。


『このマグカップ、あなたにあげます』


あの言葉が、耳にこびりついて離れない。


「……眠れない」


吐き捨てるように呟いて、アレクシスは寝台から這い出した。


部屋の隅に、あのマグカップがある。リーゼロッテが押し付けてきた、使い古しの器。なぜ捨てなかったのか、自分でもわからない。


手に取る。


月明かりの下、それはひどく色褪せて見えた。取っ手は少し欠け、底には茶渋がこびりついている。五年間、毎朝使われ続けた痕跡。


「こんなもの」


握りしめた瞬間、微かな温もりを感じた気がした。


——気のせいだ。


「こんなもの、いらない」


マグカップを投げ捨てようとして——できなかった。


指が離れない。


理由はわからない。ただ、この器を手放してはいけないという、奇妙な確信だけがあった。


「……なんだ、これは」


公爵家嫡男は、使い古したマグカップを抱えたまま、眠れない夜を過ごした。


窓の外では、月だけが静かに嗤っていた。



実家であるヴァイスハウプト伯爵邸に戻って、一週間が経った。


私は早朝の光が差し込む離れの工房で、五年ぶりに轆轤の前に座っていた。


「お嬢様、本当によろしいのですか」


エマが心配そうに傍らに立っている。私は頷きながら、久しぶりに触れる土の感触を確かめた。


冷たくて、柔らかくて、生きている。


「ようやくよ、エマ」


「ようやく……?」


「自分のために、器を作れる」


五年間、私は自分の才能を封印してきた。公爵家の婚約者として相応しくあるために。貴族の令嬢が陶芸師の真似事などと、アレクシスの母君に言われたから。


(馬鹿馬鹿しい)


今さらながら、そう思う。


私の中には、宮廷一の陶芸師と呼ばれた祖父の血が流れている。魔力を器に込める、希少な才能。それを「真似事」と嘲笑われ、私は黙って従った。


もう、従わなくていい。


「回すわよ」


足で踏み板を踏む。轆轤がゆっくりと回り始める。


土に手を添える。


指先から、微かな光が零れた。


「まあ……!」


エマが息を呑む。私の指先から溢れる淡い銀色の光は、土の中に吸い込まれていく。これが、私の魔力。器に込めれば、飲む者の心身を癒す効果を生む。


五年間、アレクシスのためだけに使ってきた力。


「今度は、自分のために」


呟きながら、私は土を練り上げていく。


頭に浮かべるのは、理想の形。朝の光を受けて輝く、淡い青色の釉薬。少し厚めの縁は、唇に触れたとき心地よい丸み。大きすぎず小さすぎない、両手で包み込めるサイズ。


自分のためのマグカップ。


生まれて初めて作る、自分だけの器。


「綺麗……」


エマの声が遠くに聞こえる。私は没頭していた。轆轤の回転、土の手触り、流れ込む魔力。すべてが一体となって、形を成していく。


どれほどの時間が経っただろう。


「……できた」


轆轤を止め、私は息をついた。


目の前には、まだ焼き上げる前の生地が佇んでいる。素朴で、飾り気がなくて、でも——美しい。


「お嬢様、これ……」


エマが声を震わせた。


「どうしたの」


「光っています。器が、光っています……!」


見ると、確かに生地は淡い銀色の光を帯びていた。私が込めた魔力が、器の中で息づいている証拠。


「これを窯で焼いたら、きっと……」


きっと、美しい器になる。


私だけの、私のための器に。


「お嬢様」


扉の外から、父の声が聞こえた。


「入ってもいいかね」


「どうぞ、お父様」


扉が開き、父——ハインリヒ・フォン・ヴァイスハウプト伯爵が姿を現した。白髪交じりの髪、私と同じ灰青色の瞳。その手には、古びた木箱が抱えられている。


「久しぶりに工房の煙突から煙が上がっていたので、な」


父は少し照れくさそうに笑った。


「これを、渡しておこうと思って」


差し出された木箱を開けると、中には一本の轆轤棒が収められていた。使い込まれ、艶を帯びた木目。見覚えがある。


「これは……お母様の?」


「ああ」


父は頷いた。


「お前の母も、本当はそうしたかったのだ」


器を作ること。自分の才能を、封印せずに生きること。


「私がそれを許さなかった。伯爵夫人として相応しくないと、周囲の声に従って」


父の声には、深い後悔が滲んでいた。


「だからお前には、同じ思いをさせたくない。好きに生きなさい、リーゼロッテ」


「お父様……」


私は母の轆轤棒を胸に抱いた。温かかった。まるで、母がそこにいるかのように。


「ありがとうございます」


涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが解けていく感覚があった。


五年間縛られていた鎖が、ようやく外れた音がした。


「さあ」


私は立ち上がり、窯に火を入れる準備を始めた。


「焼き上がりは明後日ね、エマ」


「はい、お嬢様!」


侍女の声が弾んでいる。父は微笑んで工房を出ていった。


私は一人、窯の前に立つ。


炎が赤々と燃え上がる。


新しい朝が、始まろうとしていた。



「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト嬢の器をご所望?」


王宮の執務室で、エドワード・ラ・クロワ・ド・ロイヤルは眉を顰めた。


「はい、殿下」


侍従が恭しく頭を下げる。


「近頃、王都の貴婦人方の間で評判になっております。婚約破棄された伯爵令嬢が作る器には不思議な力があると。その器で飲んだお茶は格別に美味く、心が安らぐと」


「迷信だろう」


「そう仰る方もおりますが……実際に体験した者は皆、口を揃えて同じことを申します」


銀灰色の瞳が、冷ややかに書類の山を見下ろす。王弟殿下として、エドワードは多忙を極めていた。兄王の補佐、外交案件、領地経営。休む暇などない。


「興味ない」


一蹴しようとして——ふと、手が止まった。


心が安らぐ、か。


いつからだろう。夜、眠れなくなったのは。母を亡くしてからずっと、温もりというものを知らずに生きてきた。誰も近づけず、誰も信じず。氷の王弟と呼ばれることにも、もう慣れた。


「……場所は」


「は?」


「その工房の場所だ」


侍従が目を丸くする。


「殿下自ら、行かれるのですか」


「視察だ。貴族の間で流行しているなら、確認しておく必要がある」


建前としては十分だろう。エドワードは立ち上がり、外套に手を伸ばした。


(馬鹿馬鹿しい)


自分でもそう思う。器一つで心が安らぐなど、あり得ない。だが——確かめずにはいられなかった。


万に一つの可能性があるならば。



王都の外れ、ヴァイスハウプト伯爵邸の離れ。


煙突から細い煙が立ち上る工房の前で、エドワードは足を止めた。


「まあ! エドワード殿下!?」


悲鳴のような声を上げたのは、そばかすの侍女だった。慌てて頭を下げながら、工房の中に向かって叫ぶ。


「お嬢様! お嬢様ー! 大変です、殿下が——」


「騒がしいぞ」


エドワードは冷たく言い放った。侍女がびくりと肩を震わせる。


「す、すみません……! あの、少々お待ちを——」


「待たなくていい」


彼は侍女を押しのけ、工房の扉を開けた。


土と火の匂いが鼻をついた。


薄暗い工房の中、一人の女が轆轤の前に座っていた。淡い亜麻色の髪を無造作にまとめ、作務衣のような地味な服を纏っている。


振り返った瞳は、灰青色。静かで、深くて——どこか冷めていた。


「王弟殿下」


女は驚いた様子もなく立ち上がり、一礼した。土で汚れた手を気にする様子もない。


「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプトでございます」


(これが)


エドワードは内心で目を見張った。


噂の伯爵令嬢は、思っていたよりずっと——地味だった。華やかさの欠片もない。社交界で埋もれていたというのも頷ける。


だが。


その手だけは、違った。


土に塗れた細い指。職人の手。何かを生み出す者だけが持つ、美しい手。


「器を見せてもらいたい」


「かしこまりました」


リーゼロッテは棚から一つの器を取り出した。淡い青色の釉薬が美しいマグカップ。何の変哲もない——はずなのに、目が離せない。


「お茶をお淹れしましょうか」


「ああ」


リーゼロッテが茶を準備する間、エドワードはその動きを観察していた。無駄がない。流れるような所作。慣れた手つきで茶葉を量り、湯を注ぐ。


「どうぞ」


差し出されたマグカップを受け取る。


——温かい。


それは当然のことだ。淹れたての茶なのだから。だが、この温もりは——器自体から発せられているような。


「……」


一口、含んだ。


瞬間、エドワードの目が見開かれた。


「殿下……?」


「何だ、これは」


声が掠れた。自分でも気づかないうちに。


この味を、知っている。


幼い頃、母が淹れてくれた茶。温かくて、優しくて、世界で一番安らげた——あの味。


「何を、入れた」


「何も。普通の茶葉でございます」


「嘘だ」


「嘘ではございません」


リーゼロッテは静かに首を振った。


「器が違うだけでございます」


「器が……」


エドワードは手の中のマグカップを見下ろした。淡い青色の、素朴な器。その中で、琥珀色の茶が静かに揺れている。


(馬鹿な)


器一つで、味が変わるはずがない。だが——事実として、この茶は格別だった。心の奥底で凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていくような感覚。


「これを」


気づけば、エドワードは言っていた。


「売ってくれないか」


「申し訳ございません」


リーゼロッテは躊躇いなく首を横に振った。


「それは私のものでございます」


「金はいくらでも払う」


「お気持ちはありがたいのですが」


灰青色の瞳が、真っ直ぐにエドワードを見つめた。


「自分のために作った器は、譲れません」


その声には、微塵の迷いもなかった。


王弟の申し出を、地味な伯爵令嬢は躊躇いなく断った。


エドワードは——笑っていた。


自分でも気づかないうちに、口元が緩んでいた。


「面白い」


「……は?」


「ならば、私のために作ってくれ」


リーゼロッテが目を瞬かせる。


「私専用の器を。王家御用達の陶芸師として、君を迎えたい」


工房に、沈黙が落ちた。


淡い光が差し込む窓辺で、二人は向かい合っていた。


運命が、静かに動き始めていた。



婚約破棄から一ヶ月が経った夜。


アレクシス・フォン・シュヴァルツェンベルクの顔には、深い隈が刻まれていた。


「また眠れなかったの?」


新しい婚約者マリアンヌが、不機嫌そうに眉を顰める。


「……ああ」


「もう一ヶ月よ? お医者様は何て?」


「原因不明だと」


アレクシスは疲れ切った様子で椅子に沈み込んだ。この一ヶ月、まともに眠れた夜は一度もない。体は鉛のように重く、頭は霧がかかったように働かない。


(なぜだ)


医者は何も見つけられなかった。高級な薬も、最上級の寝具も効果がない。


「お茶をお持ちしますわ」


マリアンヌが侍女を呼ぶ。程なくして運ばれてきたのは、公爵家自慢の高級茶葉で淹れた紅茶。


一口飲んで、アレクシスは顔をしかめた。


「どうしたの」


「……いや」


味がしない。正確には、味はする。だが——何かが足りない。


リーゼロッテが淹れた茶とは、決定的に違う何かが。


「ねえ」


マリアンヌの声に、苛立ちが混じり始めた。


「最近のあなた、おかしいわ。いつも上の空で、私が話しかけても聞いていないし」


「悪い」


「悪いって言うだけじゃ——」


「黙ってくれ」


吐き捨てるように言って、アレクシスは立ち上がった。マリアンヌが息を呑む。


「アレクシス様……?」


「少し、出かける」


外套を羽織り、彼は屋敷を飛び出した。


向かう先は、わかっていた。



深夜のヴァイスハウプト伯爵邸。


不躾な来訪者を、リーゼロッテは無表情で迎えた。


「こんな時間に何の御用でしょうか」


「話がある」


アレクシスの声は掠れていた。月明かりの下、その顔は青白く、頬はこけている。かつての美丈夫の面影は薄れていた。


「あのマグカップを返してくれ」


「……は?」


「お前が渡したマグカップだ。あれで茶を飲みたい」


リーゼロッテは静かに首を傾げた。


(この人は、本当に何もわかっていない)


内心で呆れながら、彼女は口を開いた。


「あれはお渡ししたものです。返却の必要はございません」


「そうじゃない。あれで飲む茶が——お前が淹れた茶が——」


アレクシスは言葉を詰まらせた。何を言えばいいのかわからなかった。ただ、あの茶が欲しかった。あの安らぎが欲しかった。


「お前がいないと、眠れないんだ」


「私が?」


「ああ。だから——」


「それは私への愛ですか?」


リーゼロッテの声は、氷のように冷たかった。


「それとも、ご自分の快適さへの執着ですか?」


「……」


「お答えください、アレクシス様」


月光が二人を照らす。アレクシスは答えられなかった。


答えを、知っていたから。


「五年間、私はあなたのために尽くしました」


リーゼロッテは淡々と続けた。


「毎朝お茶を淹れました。体調を気遣いました。心を込めて、あなたの安らぎのために」


「……」


「その私を、あなたは『退屈で地味な女』と呼びました」


「あれは——」


「今さら何を仰いたいのですか」


リーゼロッテは微笑んだ。穏やかで、静かで——どこか哀れみを含んだ笑み。


「あのマグカップはお手元にあるでしょう。ご自由にお使いください」


「違う、そうじゃない——」


「でも」


彼女は静かに首を振った。


「私の心は、もうあの中に入っていません」


「……どういう意味だ」


「器は空っぽです、アレクシス様」


リーゼロッテの声には、微塵の感情もなかった。


「私があなたのために込めていた魔力は、婚約破棄の日に消えました。あの器に、もう効力はありません」


「まりょ——」


「お帰りください」


扉が閉まる。


アレクシスは、月明かりの中に取り残された。


「魔力……? リーゼロッテに……?」


何も知らなかった。五年間、すぐ傍にいながら。


あの地味な女が、どれほどの才能を持っていたか。どれほどの心を込めて、自分に尽くしていたか。


「俺は——」


愚かだった。


今さら気づいても、もう遅い。


彼女の心は、もう自分には向いていない。



工房に、珍しい客が増えていた。


「また来たのか」


エマが呆れたように呟く。私は轆轤を回しながら、苦笑を漏らした。


「殿下は熱心なお客様よ」


「お客様って……毎日ですよ、毎日!」


エドワード殿下が初めて工房を訪れてから、二週間が経っていた。その間、殿下は一日も欠かさず足を運んでいる。


最初は「御用達の依頼について打ち合わせが必要だ」と言っていた。次は「釉薬の原料を手配した、確認してくれ」。その次は「窯の調子はどうだ」。


今日の理由は——。


「陶土の新しいサンプルを持ってきた」


「……ありがとうございます」


工房の入り口に立つ王弟殿下を見上げ、私は轆轤を止めた。


漆黒の髪に銀灰色の瞳。端整すぎる容貌は、相変わらず隙がない。だが——最近、その表情が少しだけ柔らかくなった気がする。


「業務上の支援だ」


殿下は素っ気なく言って、木箱を差し出した。


「王家所領の鉱山で採れる希少な陶土だ。これで器を作れば、より魔力が安定すると聞いた」


(また「業務上」か)


私は内心で苦笑した。


殿下がこうして贈り物を届けるのは、これで何度目だろう。希少な釉薬、上質な木炭、貴重な文献。そのたびに「業務上の支援」と言い訳する。


「ありがたく頂戴いたします」


木箱を受け取り、蓋を開ける。中には、確かに見たこともない色合いの陶土が収められていた。


「美しい……」


思わず声が漏れた。淡い銀色を帯びた土は、まるで月の光を含んでいるようだった。


「気に入ったか」


殿下の声が、微かに弾んでいる。


「ええ、とても」


私が顔を上げると、殿下はさっと視線を逸らした。


「……そうか」


「殿下」


「なんだ」


「お茶を召し上がりますか」


「……ああ」


殿下は工房の隅に置かれた椅子に腰を下ろした。もう定位置のようになっている。


私は棚から殿下専用の器を取り出した。先週焼き上げた、深い紺色のマグカップ。殿下の瞳の色に合わせて作ったものだ。


「……それは」


殿下が息を呑む。


「殿下のために作りました」


「私のため……」


「御用達の陶芸師として、最初の納品でございます」


茶を注いで差し出すと、殿下は両手でそれを受け取った。


大きな手が、器を包み込むように持つ。その仕草が——どこか愛おしげで、私は思わず見入ってしまう。


「殿下」


「……なんだ」


「器は、そんなに優しく持たなくても大丈夫ですよ」


殿下の耳が、微かに赤くなった。


「……壊れないか確認しているだけだ」


「そうですか」


私は微笑みを堪えた。氷の王弟と恐れられる方が、こんなに不器用だとは。


「リーゼロッテ」


「はい」


「君の器には——」


殿下が言葉を切る。銀灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。


「優しさが宿っている」


「……え?」


「飲めばわかる。作り手の心が、そのまま形になっている」


「殿下……」


「だから」


殿下は器を見下ろした。その横顔は、初めて見る柔らかさを帯びていた。


「毎日ここに来てしまう。君の器で茶を飲むと、母上のことを思い出す。温かくて、安らげて——」


言葉が途切れる。殿下は気まずそうに咳払いをした。


「……忘れてくれ」


「忘れません」


私は静かに首を振った。


「光栄でございます、殿下」


殿下が顔を上げる。銀灰色の瞳と、灰青色の瞳が交差する。


「私は」


殿下の声は、低く、真摯だった。


「君のことを、もっと知りたい」


工房に、静寂が落ちた。


窓から差し込む午後の光の中で、私たちは向かい合っていた。


「お嬢様ー! 殿下、お嬢様は朝が一番お美しいんですよー!」


エマの声が廊下から響き渡り、静寂は粉々に砕け散った。


「エマ!」


「うわっ、聞こえてました!?」


私は額を押さえた。殿下は——微かに笑っていた。


初めて見る、穏やかな笑顔だった。


「朝か」


「……は?」


「明日の朝、また来る」


「え——」


「朝が一番美しいなら、見ておかなければならないからな」


殿下は立ち上がり、外套を翻した。


「待って——」


「では、また明日」


扉が閉まる。


私は呆然と立ち尽くしていた。


「お嬢様!」


エマが飛び込んできた。


「殿下、笑ってましたよ! 氷の王弟が!」


「……そうね」


「どうしたんですか、そんなにぼんやりして」


私は自分の頬に手を当てた。


——熱い。


「どうしたのかしらね」


呟きながら、私は窓の外を見つめた。


殿下の馬車が、夕焼けの中に消えていく。


胸の奥で、何かが芽吹き始めていた。



社交界は、一つの醜聞で沸き立っていた。


「アレクシス様が、また夜会で倒れたそうですわ」


「まあ、もう三度目でしょう?」


「原因不明の体調不良ですって。お医者様もお手上げだとか」


「それよりも——マリアンヌ嬢、最近お見かけしませんわね」


「聞きました? 公爵家との婚約、白紙になったそうですわよ」


扇子の陰で囁かれる噂話。


その中心にいるはずの人物は、今夜も欠席していた。



シュヴァルツェンベルク公爵家の一室。


アレクシスは、暗い部屋の中で一人、マグカップを握りしめていた。


空っぽの器。何を淹れても、かつての安らぎは得られない。


「アレクシス様」


扉の向こうから、マリアンヌの甲高い声が響く。


「話があるのよ。開けてちょうだい」


「……帰れ」


「帰れって何よ! 私はあなたの婚約者——」


「婚約者?」


アレクシスは乾いた笑いを漏らした。


「お前が婚約者? 笑わせるな」


「……どういう意味」


「お前が淹れる茶は不味い。お前がいても眠れない。お前には——何もない」


扉の向こうで、息を呑む音がした。


「リーゼロッテには、あったのにな」


呟きは、自分自身に向けられていた。


あの地味な女には、あった。毎朝の茶に込められた温もりが。器に宿る魔力が。五年間、当たり前のように受け取っていたものが。


そのすべてを、自分は捨てた。


「あの女と私を比べないでよ!」


マリアンヌの金切り声が響く。


「あんな地味女に何ができるって言うの!?」


「王家御用達の陶芸師になったそうだ」


「……は?」


「エドワード殿下自らの指名でな。今では王都中の貴族が、彼女の器を求めて列を成している」


アレクシスは窓の外を見上げた。月明かりが、彼の憔悴した顔を照らす。


「そして俺は——宝を自ら手放した愚か者として、笑われている」


「アレクシス様……」


「お前も同じだ、マリアンヌ」


「え?」


「社交界での悪評、聞いているだろう。リーゼロッテの悪い噂を流そうとして、逆に自分の品性の無さを晒した」


「そ、それは——」


「婚約は白紙だ」


「待って——!」


「帰れ」


扉に背を向けたまま、アレクシスは吐き捨てた。


「お前の顔も、もう見たくない」


皮肉なことに——それは、かつてリーゼロッテが彼に向けた言葉と、全く同じだった。



数日後。


アレクシスの醜聞は、社交界の格好の話題となっていた。


「公爵家嫡男が、伯爵令嬢の器にすがっているそうですわよ」


「あのマグカップを抱えて、毎晩泣いているとか」


「因果応報ですわね。あれだけ彼女を蔑ろにしておいて」


「しかも今、その元婚約者は王弟殿下のお気に入りでしょう?」


「宝を手放した愚か者——まさにそのとおりですわ」


嘲笑が、夜会の広間に響いていた。


その輪の中心にいたはずの男は、もう姿を見せなくなっていた。


眠れない夜だけが、彼の傍にあった。



一方、ヴァイスハウプト伯爵邸の工房。


「お嬢様、アレクシス様が——」


「知っているわ」


リーゼロッテは轆轤を回しながら、静かに答えた。


「もう、関係のないことよ」


「でも……」


「エマ」


灰青色の瞳が、侍女を見上げた。


「私はもう、過去を振り返らない」


「お嬢様……」


「明日、殿下がいらっしゃるわ。お茶菓子の準備をお願いね」


「はい!」


エマの声が弾む。


リーゼロッテは微笑んで、再び轆轤に向き合った。


手の中で、新しい器が形を成していく。


誰かのためではなく、自分のために。


そして——新しい誰かのために。



晩秋の朝。


王弟殿下エドワードは、今日も工房にいた。


ただし——跪いて。


「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト」


銀灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見上げていた。氷の王弟と恐れられた男が、今、私の前に膝をついている。


「私と結婚してくれないか」


工房が静まり返った。


扉の向こうで、エマが息を殺しているのが気配でわかる。きっと今頃、耳を押し当てているのだろう。


「……殿下」


「待ってくれ、言わせてほしい」


エドワードは立ち上がり——しかし、その手は私の手を取ったまま離さなかった。


「最初は、君の才能に惹かれた。器に込められた魔力に、亡き母を思い出した」


「……」


「だが今は違う」


銀灰色の瞳が、熱を帯びていた。


「君が作る器を見るのが好きだ。君が轆轤を回す姿を見るのが好きだ。君が茶を淹れる手元を、気づけば目で追っている」


「殿下……」


「君がいると、心が安らぐ。それは器のせいだけじゃない。君自身が——」


言葉を切り、エドワードは深く息を吸った。


「君が、好きだ」


静寂が落ちる。


窓から差し込む朝日が、二人を包み込んでいた。


「私は」


ようやく口を開いた私の声は、少し震えていた。


「道具として見られることに、慣れていました」


「……」


「婚約者のために尽くす道具。才能を封印される道具。誰かの役に立つためだけに存在する——そういうもの」


エドワードの表情が曇る。私は首を振った。


「でも殿下は、違いました」


「リーゼロッテ」


「私の器を愛でてくださった。私の仕事を尊重してくださった。そして——私自身を、見てくださった」


声が詰まる。こんなに言葉が出てこないのは、初めてだった。


「私は——」


その時、扉が勢いよく開いた。


「お嬢様! もう焦らさないでください! 私の心臓がもちません!」


「エマ!」


「殿下も殿下です! こんな素敵なお嬢様を、五ヶ月も待たせて——」


「待て、私は毎日来ていただろう」


「毎日来ても告白しなければ意味がありません!」


「……一理あるな」


「エドワード殿下!」


私は叫んだ。二人が同時に振り向く。


「……返事を、させてください」


「おお……」


「エマ、出て行きなさい」


「えー!」


「今すぐ」


「はいはい、わかりましたよ……」


不満そうに扉が閉まる。足音が遠ざかるのを確認して——私は深呼吸をした。


「殿下」


「ああ」


「お待ちください」


私は棚に向かい、二つのマグカップを取り出した。


一つは、自分のために作った淡い青色の器。


もう一つは、殿下のために作った深い紺色の器。


「これを」


私は、自分のマグカップを殿下に差し出した。


「……これは、君が自分のために作った——」


「ええ」


私は微笑んだ。今度は、表面だけでなく心からの笑みを。


「私の器を、あなたに」


エドワードの銀灰色の瞳が、見開かれた。


「リーゼロッテ」


「毎朝一緒にお茶を飲みましょう、殿下」


「——ああ」


エドワードは器を受け取り、その温もりを確かめるように両手で包み込んだ。


「生涯」


「はい」


「君が作る器で、毎朝一緒にお茶を飲みたい。——生涯」


二つのマグカップが並ぶ。淡い青と深い紺。私と殿下の色。


「素敵な食卓になりそうですね」


「ああ」


エドワードが、初めて見せる柔らかな笑みを浮かべた。


「新しい朝が、始まる」


窓の外では、晩秋の陽光が金色に輝いていた。


私たちの手の中で、二つの器が静かに温もりを放っている。


五年間の婚約が終わり——新しい物語が、始まろうとしていた。



工房の片隅に、一通の手紙が届いていた。


差出人は、オスカー・グラン。母方の祖父にして、宮廷一の陶芸師と呼ばれた男。


『リーゼロッテへ


お前の器を見た。ようやくわしを超える者が現れた。


会いに行く。お前の母が、なぜ才能を封印させられたのか——その真実を、伝える時が来た』


私は手紙を握りしめた。


母の秘密。封印された才能。まだ知らない真実。


だが——それは、また別の物語。


今はただ、この温かな朝を噛みしめていたい。


「リーゼロッテ」


エドワードの声が呼ぶ。


「お茶が冷めるぞ」


「ええ、今行きます」


私は微笑んで、二つのマグカップが並ぶ食卓に向かった。


新しい朝が、始まっていた。

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