このマグカップを、あなたに——婚約破棄されたので、自分のために器を焼くことにしました
「このマグカップ、あなたにあげます。もう二度と顔も見たくないので」
アレクシス・フォン・シュヴァルツェンベルクの蒼い瞳が、驚愕に見開かれた。
私——リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプトは、五年間毎朝使い続けてきた使い古しのマグカップを、婚約者だった男の胸に押し付けた。まだほんのりと温かい。つい先ほどまで、彼のために朝のお茶を淹れていたのだから。
「……は?」
間の抜けた声が、豪奢な公爵家の朝食の間に響く。
「待て、リーゼロッテ。私が言ったのは——」
「婚約破棄でしょう?」
私は穏やかに微笑んだ。表面上は、だが。
(ああ、やっと解放される)
内心では、五年分の疲労が一気に溶けていくような、途方もない安堵が広がっていた。
「マリアンヌ嬢とお幸せに。あの方なら、きっとアレクシス様にお似合いですわ」
「いや、その、そうではなくて——」
彼は明らかに動揺していた。当然だろう。彼が用意していた台本では、私は泣き崩れ、縋りつき、どうか考え直してほしいと懇願するはずだった。
残念ながら、私にはそんな趣味はない。
「リーゼロッテ、君は——」
「退屈で地味な女、でしたか」
私は小首を傾げた。昨夜、彼がマリアンヌ嬢に囁いていた言葉を、一字一句違わず復唱してみせる。
「『あの女は退屈だ。地味で、華がない。君のような輝きがあれば』——でしたかしら」
「聞いていたのか」
「ええ」
私は淡々と頷いた。
(聞かせるように言っていたのはあなたでしょう)
五年間、この人のために尽くしてきた。毎朝誰よりも早く起きて、お茶を淹れた。体調を気遣い、好みを覚え、心を込めて——。
そのすべてを、彼は「退屈」の一言で片付けた。
ならば、もう十分だろう。
「あのマグカップ、大切にしてくださいませ」
私は深々と一礼した。完璧な角度で、完璧な所作で。伯爵令嬢として恥じることのない、最後の挨拶。
「……それだけか」
アレクシスの声には、どこか納得のいかない響きがあった。
「それだけ、とは?」
「泣かないのか。怒らないのか。五年も婚約していて——」
「五年も我慢していましたもの」
言葉が口をついて出た。しまった、と思ったときにはもう遅い。
私は微笑んだまま、踵を返した。
「リーゼロッテ!」
呼び止める声を背に、私は振り返らなかった。
扉を閉めた瞬間、廊下で待っていたエマが飛びついてきた。
「お嬢様……!」
「泣かないで、エマ」
私は侍女の震える肩を撫でた。
「私は泣いていないでしょう?」
「だからです! お嬢様は、もっと……もっと幸せになれる方なのに……!」
(そうね)
私は心の中で頷いた。
(これからは、自分のために生きよう)
実家には、封印したままの工房がある。母から受け継いだ轆轤がある。そして私には、誰にも知られていない才能がある。
魔力を込めた器を作る、希少な血筋。
あのマグカップも、そうだった。毎朝アレクシスに淹れていたお茶が心身を癒していたのは、器に込めた私の魔力のおかげ。彼はそれを知らない。知る価値もないと、私を切り捨てた。
だから、返してあげたのだ。
空っぽの器を。
もう私の心は、あの中に入っていない。
「帰りましょう、エマ」
「はい、お嬢様」
涙を拭いながら頷く侍女の手を取り、私は公爵家の屋敷を後にした。
朝日が眩しかった。
五年ぶりに見る、自由な空の色だった。
◇
婚約破棄から三日後の夜。
アレクシス・フォン・シュヴァルツェンベルクは、天蓋付きの寝台の上で何度目かの寝返りを打った。
眠れない。
どうしても、眠れない。
「……なんだ、これは」
高級な羽毛布団を蹴り上げ、彼は苛立たしげに身を起こした。窓の外では月が煌々と輝いている。時刻は深夜の二時を回っていた。
三日前までは、こんなことはなかった。
朝起きれば、リーゼロッテが淹れたお茶が待っていた。あの使い古したマグカップで飲む一杯が、一日の始まりだった。飲み終える頃には心地よい温もりが体中に広がり、夜は深い眠りに落ちることができた。
「あの女がいなくなったくらいで……」
馬鹿げている。あんな退屈な女、いなくなって清々したはずだ。
今はマリアンヌがいる。愛らしい笑顔で「アレクシス様」と甘える、華やかな婚約者。リーゼロッテにはない輝きを持った女。
「……水でも飲むか」
サイドテーブルに置かれたグラスに手を伸ばす。マリアンヌが寝る前に用意してくれた、蜂蜜入りのミルクだ。
一口含んで、アレクシスは顔をしかめた。
ぬるい。甘すぎる。何より——味気ない。
「なぜだ」
同じ蜂蜜、同じミルクのはずだ。なのに、リーゼロッテが淹れたものとは何かが決定的に違う。
あの地味な女が淹れただけで、なぜあれほど美味かったのか。
「くだらない」
グラスをテーブルに叩きつけるように置き、アレクシスは再び寝台に倒れ込んだ。
目を閉じる。眠ろうとする。だが、まぶたの裏に浮かぶのは——。
『五年も我慢していましたもの』
あの日、リーゼロッテが最後に見せた微笑み。穏やかで、静かで、どこか——解放されたような。
「……っ」
なぜ、あんな顔をした。
なぜ、泣かなかった。
なぜ、縋ってこなかった。
五年も婚約していた女が、あっさりと去っていった。まるで重荷を下ろしたかのように、軽やかに。
「私が、重荷だと——?」
ありえない。公爵家嫡男である自分との婚約は、伯爵令嬢にとって身に余る栄誉のはずだ。リーゼロッテは喜んで尽くすべき立場だった。実際、五年間そうしてきたではないか。
なのに。
『このマグカップ、あなたにあげます』
あの言葉が、耳にこびりついて離れない。
「……眠れない」
吐き捨てるように呟いて、アレクシスは寝台から這い出した。
部屋の隅に、あのマグカップがある。リーゼロッテが押し付けてきた、使い古しの器。なぜ捨てなかったのか、自分でもわからない。
手に取る。
月明かりの下、それはひどく色褪せて見えた。取っ手は少し欠け、底には茶渋がこびりついている。五年間、毎朝使われ続けた痕跡。
「こんなもの」
握りしめた瞬間、微かな温もりを感じた気がした。
——気のせいだ。
「こんなもの、いらない」
マグカップを投げ捨てようとして——できなかった。
指が離れない。
理由はわからない。ただ、この器を手放してはいけないという、奇妙な確信だけがあった。
「……なんだ、これは」
公爵家嫡男は、使い古したマグカップを抱えたまま、眠れない夜を過ごした。
窓の外では、月だけが静かに嗤っていた。
◇
実家であるヴァイスハウプト伯爵邸に戻って、一週間が経った。
私は早朝の光が差し込む離れの工房で、五年ぶりに轆轤の前に座っていた。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
エマが心配そうに傍らに立っている。私は頷きながら、久しぶりに触れる土の感触を確かめた。
冷たくて、柔らかくて、生きている。
「ようやくよ、エマ」
「ようやく……?」
「自分のために、器を作れる」
五年間、私は自分の才能を封印してきた。公爵家の婚約者として相応しくあるために。貴族の令嬢が陶芸師の真似事などと、アレクシスの母君に言われたから。
(馬鹿馬鹿しい)
今さらながら、そう思う。
私の中には、宮廷一の陶芸師と呼ばれた祖父の血が流れている。魔力を器に込める、希少な才能。それを「真似事」と嘲笑われ、私は黙って従った。
もう、従わなくていい。
「回すわよ」
足で踏み板を踏む。轆轤がゆっくりと回り始める。
土に手を添える。
指先から、微かな光が零れた。
「まあ……!」
エマが息を呑む。私の指先から溢れる淡い銀色の光は、土の中に吸い込まれていく。これが、私の魔力。器に込めれば、飲む者の心身を癒す効果を生む。
五年間、アレクシスのためだけに使ってきた力。
「今度は、自分のために」
呟きながら、私は土を練り上げていく。
頭に浮かべるのは、理想の形。朝の光を受けて輝く、淡い青色の釉薬。少し厚めの縁は、唇に触れたとき心地よい丸み。大きすぎず小さすぎない、両手で包み込めるサイズ。
自分のためのマグカップ。
生まれて初めて作る、自分だけの器。
「綺麗……」
エマの声が遠くに聞こえる。私は没頭していた。轆轤の回転、土の手触り、流れ込む魔力。すべてが一体となって、形を成していく。
どれほどの時間が経っただろう。
「……できた」
轆轤を止め、私は息をついた。
目の前には、まだ焼き上げる前の生地が佇んでいる。素朴で、飾り気がなくて、でも——美しい。
「お嬢様、これ……」
エマが声を震わせた。
「どうしたの」
「光っています。器が、光っています……!」
見ると、確かに生地は淡い銀色の光を帯びていた。私が込めた魔力が、器の中で息づいている証拠。
「これを窯で焼いたら、きっと……」
きっと、美しい器になる。
私だけの、私のための器に。
「お嬢様」
扉の外から、父の声が聞こえた。
「入ってもいいかね」
「どうぞ、お父様」
扉が開き、父——ハインリヒ・フォン・ヴァイスハウプト伯爵が姿を現した。白髪交じりの髪、私と同じ灰青色の瞳。その手には、古びた木箱が抱えられている。
「久しぶりに工房の煙突から煙が上がっていたので、な」
父は少し照れくさそうに笑った。
「これを、渡しておこうと思って」
差し出された木箱を開けると、中には一本の轆轤棒が収められていた。使い込まれ、艶を帯びた木目。見覚えがある。
「これは……お母様の?」
「ああ」
父は頷いた。
「お前の母も、本当はそうしたかったのだ」
器を作ること。自分の才能を、封印せずに生きること。
「私がそれを許さなかった。伯爵夫人として相応しくないと、周囲の声に従って」
父の声には、深い後悔が滲んでいた。
「だからお前には、同じ思いをさせたくない。好きに生きなさい、リーゼロッテ」
「お父様……」
私は母の轆轤棒を胸に抱いた。温かかった。まるで、母がそこにいるかのように。
「ありがとうございます」
涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが解けていく感覚があった。
五年間縛られていた鎖が、ようやく外れた音がした。
「さあ」
私は立ち上がり、窯に火を入れる準備を始めた。
「焼き上がりは明後日ね、エマ」
「はい、お嬢様!」
侍女の声が弾んでいる。父は微笑んで工房を出ていった。
私は一人、窯の前に立つ。
炎が赤々と燃え上がる。
新しい朝が、始まろうとしていた。
◇
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト嬢の器をご所望?」
王宮の執務室で、エドワード・ラ・クロワ・ド・ロイヤルは眉を顰めた。
「はい、殿下」
侍従が恭しく頭を下げる。
「近頃、王都の貴婦人方の間で評判になっております。婚約破棄された伯爵令嬢が作る器には不思議な力があると。その器で飲んだお茶は格別に美味く、心が安らぐと」
「迷信だろう」
「そう仰る方もおりますが……実際に体験した者は皆、口を揃えて同じことを申します」
銀灰色の瞳が、冷ややかに書類の山を見下ろす。王弟殿下として、エドワードは多忙を極めていた。兄王の補佐、外交案件、領地経営。休む暇などない。
「興味ない」
一蹴しようとして——ふと、手が止まった。
心が安らぐ、か。
いつからだろう。夜、眠れなくなったのは。母を亡くしてからずっと、温もりというものを知らずに生きてきた。誰も近づけず、誰も信じず。氷の王弟と呼ばれることにも、もう慣れた。
「……場所は」
「は?」
「その工房の場所だ」
侍従が目を丸くする。
「殿下自ら、行かれるのですか」
「視察だ。貴族の間で流行しているなら、確認しておく必要がある」
建前としては十分だろう。エドワードは立ち上がり、外套に手を伸ばした。
(馬鹿馬鹿しい)
自分でもそう思う。器一つで心が安らぐなど、あり得ない。だが——確かめずにはいられなかった。
万に一つの可能性があるならば。
◇
王都の外れ、ヴァイスハウプト伯爵邸の離れ。
煙突から細い煙が立ち上る工房の前で、エドワードは足を止めた。
「まあ! エドワード殿下!?」
悲鳴のような声を上げたのは、そばかすの侍女だった。慌てて頭を下げながら、工房の中に向かって叫ぶ。
「お嬢様! お嬢様ー! 大変です、殿下が——」
「騒がしいぞ」
エドワードは冷たく言い放った。侍女がびくりと肩を震わせる。
「す、すみません……! あの、少々お待ちを——」
「待たなくていい」
彼は侍女を押しのけ、工房の扉を開けた。
土と火の匂いが鼻をついた。
薄暗い工房の中、一人の女が轆轤の前に座っていた。淡い亜麻色の髪を無造作にまとめ、作務衣のような地味な服を纏っている。
振り返った瞳は、灰青色。静かで、深くて——どこか冷めていた。
「王弟殿下」
女は驚いた様子もなく立ち上がり、一礼した。土で汚れた手を気にする様子もない。
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプトでございます」
(これが)
エドワードは内心で目を見張った。
噂の伯爵令嬢は、思っていたよりずっと——地味だった。華やかさの欠片もない。社交界で埋もれていたというのも頷ける。
だが。
その手だけは、違った。
土に塗れた細い指。職人の手。何かを生み出す者だけが持つ、美しい手。
「器を見せてもらいたい」
「かしこまりました」
リーゼロッテは棚から一つの器を取り出した。淡い青色の釉薬が美しいマグカップ。何の変哲もない——はずなのに、目が離せない。
「お茶をお淹れしましょうか」
「ああ」
リーゼロッテが茶を準備する間、エドワードはその動きを観察していた。無駄がない。流れるような所作。慣れた手つきで茶葉を量り、湯を注ぐ。
「どうぞ」
差し出されたマグカップを受け取る。
——温かい。
それは当然のことだ。淹れたての茶なのだから。だが、この温もりは——器自体から発せられているような。
「……」
一口、含んだ。
瞬間、エドワードの目が見開かれた。
「殿下……?」
「何だ、これは」
声が掠れた。自分でも気づかないうちに。
この味を、知っている。
幼い頃、母が淹れてくれた茶。温かくて、優しくて、世界で一番安らげた——あの味。
「何を、入れた」
「何も。普通の茶葉でございます」
「嘘だ」
「嘘ではございません」
リーゼロッテは静かに首を振った。
「器が違うだけでございます」
「器が……」
エドワードは手の中のマグカップを見下ろした。淡い青色の、素朴な器。その中で、琥珀色の茶が静かに揺れている。
(馬鹿な)
器一つで、味が変わるはずがない。だが——事実として、この茶は格別だった。心の奥底で凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていくような感覚。
「これを」
気づけば、エドワードは言っていた。
「売ってくれないか」
「申し訳ございません」
リーゼロッテは躊躇いなく首を横に振った。
「それは私のものでございます」
「金はいくらでも払う」
「お気持ちはありがたいのですが」
灰青色の瞳が、真っ直ぐにエドワードを見つめた。
「自分のために作った器は、譲れません」
その声には、微塵の迷いもなかった。
王弟の申し出を、地味な伯爵令嬢は躊躇いなく断った。
エドワードは——笑っていた。
自分でも気づかないうちに、口元が緩んでいた。
「面白い」
「……は?」
「ならば、私のために作ってくれ」
リーゼロッテが目を瞬かせる。
「私専用の器を。王家御用達の陶芸師として、君を迎えたい」
工房に、沈黙が落ちた。
淡い光が差し込む窓辺で、二人は向かい合っていた。
運命が、静かに動き始めていた。
◇
婚約破棄から一ヶ月が経った夜。
アレクシス・フォン・シュヴァルツェンベルクの顔には、深い隈が刻まれていた。
「また眠れなかったの?」
新しい婚約者マリアンヌが、不機嫌そうに眉を顰める。
「……ああ」
「もう一ヶ月よ? お医者様は何て?」
「原因不明だと」
アレクシスは疲れ切った様子で椅子に沈み込んだ。この一ヶ月、まともに眠れた夜は一度もない。体は鉛のように重く、頭は霧がかかったように働かない。
(なぜだ)
医者は何も見つけられなかった。高級な薬も、最上級の寝具も効果がない。
「お茶をお持ちしますわ」
マリアンヌが侍女を呼ぶ。程なくして運ばれてきたのは、公爵家自慢の高級茶葉で淹れた紅茶。
一口飲んで、アレクシスは顔をしかめた。
「どうしたの」
「……いや」
味がしない。正確には、味はする。だが——何かが足りない。
リーゼロッテが淹れた茶とは、決定的に違う何かが。
「ねえ」
マリアンヌの声に、苛立ちが混じり始めた。
「最近のあなた、おかしいわ。いつも上の空で、私が話しかけても聞いていないし」
「悪い」
「悪いって言うだけじゃ——」
「黙ってくれ」
吐き捨てるように言って、アレクシスは立ち上がった。マリアンヌが息を呑む。
「アレクシス様……?」
「少し、出かける」
外套を羽織り、彼は屋敷を飛び出した。
向かう先は、わかっていた。
◇
深夜のヴァイスハウプト伯爵邸。
不躾な来訪者を、リーゼロッテは無表情で迎えた。
「こんな時間に何の御用でしょうか」
「話がある」
アレクシスの声は掠れていた。月明かりの下、その顔は青白く、頬はこけている。かつての美丈夫の面影は薄れていた。
「あのマグカップを返してくれ」
「……は?」
「お前が渡したマグカップだ。あれで茶を飲みたい」
リーゼロッテは静かに首を傾げた。
(この人は、本当に何もわかっていない)
内心で呆れながら、彼女は口を開いた。
「あれはお渡ししたものです。返却の必要はございません」
「そうじゃない。あれで飲む茶が——お前が淹れた茶が——」
アレクシスは言葉を詰まらせた。何を言えばいいのかわからなかった。ただ、あの茶が欲しかった。あの安らぎが欲しかった。
「お前がいないと、眠れないんだ」
「私が?」
「ああ。だから——」
「それは私への愛ですか?」
リーゼロッテの声は、氷のように冷たかった。
「それとも、ご自分の快適さへの執着ですか?」
「……」
「お答えください、アレクシス様」
月光が二人を照らす。アレクシスは答えられなかった。
答えを、知っていたから。
「五年間、私はあなたのために尽くしました」
リーゼロッテは淡々と続けた。
「毎朝お茶を淹れました。体調を気遣いました。心を込めて、あなたの安らぎのために」
「……」
「その私を、あなたは『退屈で地味な女』と呼びました」
「あれは——」
「今さら何を仰いたいのですか」
リーゼロッテは微笑んだ。穏やかで、静かで——どこか哀れみを含んだ笑み。
「あのマグカップはお手元にあるでしょう。ご自由にお使いください」
「違う、そうじゃない——」
「でも」
彼女は静かに首を振った。
「私の心は、もうあの中に入っていません」
「……どういう意味だ」
「器は空っぽです、アレクシス様」
リーゼロッテの声には、微塵の感情もなかった。
「私があなたのために込めていた魔力は、婚約破棄の日に消えました。あの器に、もう効力はありません」
「まりょ——」
「お帰りください」
扉が閉まる。
アレクシスは、月明かりの中に取り残された。
「魔力……? リーゼロッテに……?」
何も知らなかった。五年間、すぐ傍にいながら。
あの地味な女が、どれほどの才能を持っていたか。どれほどの心を込めて、自分に尽くしていたか。
「俺は——」
愚かだった。
今さら気づいても、もう遅い。
彼女の心は、もう自分には向いていない。
◇
工房に、珍しい客が増えていた。
「また来たのか」
エマが呆れたように呟く。私は轆轤を回しながら、苦笑を漏らした。
「殿下は熱心なお客様よ」
「お客様って……毎日ですよ、毎日!」
エドワード殿下が初めて工房を訪れてから、二週間が経っていた。その間、殿下は一日も欠かさず足を運んでいる。
最初は「御用達の依頼について打ち合わせが必要だ」と言っていた。次は「釉薬の原料を手配した、確認してくれ」。その次は「窯の調子はどうだ」。
今日の理由は——。
「陶土の新しいサンプルを持ってきた」
「……ありがとうございます」
工房の入り口に立つ王弟殿下を見上げ、私は轆轤を止めた。
漆黒の髪に銀灰色の瞳。端整すぎる容貌は、相変わらず隙がない。だが——最近、その表情が少しだけ柔らかくなった気がする。
「業務上の支援だ」
殿下は素っ気なく言って、木箱を差し出した。
「王家所領の鉱山で採れる希少な陶土だ。これで器を作れば、より魔力が安定すると聞いた」
(また「業務上」か)
私は内心で苦笑した。
殿下がこうして贈り物を届けるのは、これで何度目だろう。希少な釉薬、上質な木炭、貴重な文献。そのたびに「業務上の支援」と言い訳する。
「ありがたく頂戴いたします」
木箱を受け取り、蓋を開ける。中には、確かに見たこともない色合いの陶土が収められていた。
「美しい……」
思わず声が漏れた。淡い銀色を帯びた土は、まるで月の光を含んでいるようだった。
「気に入ったか」
殿下の声が、微かに弾んでいる。
「ええ、とても」
私が顔を上げると、殿下はさっと視線を逸らした。
「……そうか」
「殿下」
「なんだ」
「お茶を召し上がりますか」
「……ああ」
殿下は工房の隅に置かれた椅子に腰を下ろした。もう定位置のようになっている。
私は棚から殿下専用の器を取り出した。先週焼き上げた、深い紺色のマグカップ。殿下の瞳の色に合わせて作ったものだ。
「……それは」
殿下が息を呑む。
「殿下のために作りました」
「私のため……」
「御用達の陶芸師として、最初の納品でございます」
茶を注いで差し出すと、殿下は両手でそれを受け取った。
大きな手が、器を包み込むように持つ。その仕草が——どこか愛おしげで、私は思わず見入ってしまう。
「殿下」
「……なんだ」
「器は、そんなに優しく持たなくても大丈夫ですよ」
殿下の耳が、微かに赤くなった。
「……壊れないか確認しているだけだ」
「そうですか」
私は微笑みを堪えた。氷の王弟と恐れられる方が、こんなに不器用だとは。
「リーゼロッテ」
「はい」
「君の器には——」
殿下が言葉を切る。銀灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「優しさが宿っている」
「……え?」
「飲めばわかる。作り手の心が、そのまま形になっている」
「殿下……」
「だから」
殿下は器を見下ろした。その横顔は、初めて見る柔らかさを帯びていた。
「毎日ここに来てしまう。君の器で茶を飲むと、母上のことを思い出す。温かくて、安らげて——」
言葉が途切れる。殿下は気まずそうに咳払いをした。
「……忘れてくれ」
「忘れません」
私は静かに首を振った。
「光栄でございます、殿下」
殿下が顔を上げる。銀灰色の瞳と、灰青色の瞳が交差する。
「私は」
殿下の声は、低く、真摯だった。
「君のことを、もっと知りたい」
工房に、静寂が落ちた。
窓から差し込む午後の光の中で、私たちは向かい合っていた。
「お嬢様ー! 殿下、お嬢様は朝が一番お美しいんですよー!」
エマの声が廊下から響き渡り、静寂は粉々に砕け散った。
「エマ!」
「うわっ、聞こえてました!?」
私は額を押さえた。殿下は——微かに笑っていた。
初めて見る、穏やかな笑顔だった。
「朝か」
「……は?」
「明日の朝、また来る」
「え——」
「朝が一番美しいなら、見ておかなければならないからな」
殿下は立ち上がり、外套を翻した。
「待って——」
「では、また明日」
扉が閉まる。
私は呆然と立ち尽くしていた。
「お嬢様!」
エマが飛び込んできた。
「殿下、笑ってましたよ! 氷の王弟が!」
「……そうね」
「どうしたんですか、そんなにぼんやりして」
私は自分の頬に手を当てた。
——熱い。
「どうしたのかしらね」
呟きながら、私は窓の外を見つめた。
殿下の馬車が、夕焼けの中に消えていく。
胸の奥で、何かが芽吹き始めていた。
◇
社交界は、一つの醜聞で沸き立っていた。
「アレクシス様が、また夜会で倒れたそうですわ」
「まあ、もう三度目でしょう?」
「原因不明の体調不良ですって。お医者様もお手上げだとか」
「それよりも——マリアンヌ嬢、最近お見かけしませんわね」
「聞きました? 公爵家との婚約、白紙になったそうですわよ」
扇子の陰で囁かれる噂話。
その中心にいるはずの人物は、今夜も欠席していた。
◇
シュヴァルツェンベルク公爵家の一室。
アレクシスは、暗い部屋の中で一人、マグカップを握りしめていた。
空っぽの器。何を淹れても、かつての安らぎは得られない。
「アレクシス様」
扉の向こうから、マリアンヌの甲高い声が響く。
「話があるのよ。開けてちょうだい」
「……帰れ」
「帰れって何よ! 私はあなたの婚約者——」
「婚約者?」
アレクシスは乾いた笑いを漏らした。
「お前が婚約者? 笑わせるな」
「……どういう意味」
「お前が淹れる茶は不味い。お前がいても眠れない。お前には——何もない」
扉の向こうで、息を呑む音がした。
「リーゼロッテには、あったのにな」
呟きは、自分自身に向けられていた。
あの地味な女には、あった。毎朝の茶に込められた温もりが。器に宿る魔力が。五年間、当たり前のように受け取っていたものが。
そのすべてを、自分は捨てた。
「あの女と私を比べないでよ!」
マリアンヌの金切り声が響く。
「あんな地味女に何ができるって言うの!?」
「王家御用達の陶芸師になったそうだ」
「……は?」
「エドワード殿下自らの指名でな。今では王都中の貴族が、彼女の器を求めて列を成している」
アレクシスは窓の外を見上げた。月明かりが、彼の憔悴した顔を照らす。
「そして俺は——宝を自ら手放した愚か者として、笑われている」
「アレクシス様……」
「お前も同じだ、マリアンヌ」
「え?」
「社交界での悪評、聞いているだろう。リーゼロッテの悪い噂を流そうとして、逆に自分の品性の無さを晒した」
「そ、それは——」
「婚約は白紙だ」
「待って——!」
「帰れ」
扉に背を向けたまま、アレクシスは吐き捨てた。
「お前の顔も、もう見たくない」
皮肉なことに——それは、かつてリーゼロッテが彼に向けた言葉と、全く同じだった。
◇
数日後。
アレクシスの醜聞は、社交界の格好の話題となっていた。
「公爵家嫡男が、伯爵令嬢の器にすがっているそうですわよ」
「あのマグカップを抱えて、毎晩泣いているとか」
「因果応報ですわね。あれだけ彼女を蔑ろにしておいて」
「しかも今、その元婚約者は王弟殿下のお気に入りでしょう?」
「宝を手放した愚か者——まさにそのとおりですわ」
嘲笑が、夜会の広間に響いていた。
その輪の中心にいたはずの男は、もう姿を見せなくなっていた。
眠れない夜だけが、彼の傍にあった。
◇
一方、ヴァイスハウプト伯爵邸の工房。
「お嬢様、アレクシス様が——」
「知っているわ」
リーゼロッテは轆轤を回しながら、静かに答えた。
「もう、関係のないことよ」
「でも……」
「エマ」
灰青色の瞳が、侍女を見上げた。
「私はもう、過去を振り返らない」
「お嬢様……」
「明日、殿下がいらっしゃるわ。お茶菓子の準備をお願いね」
「はい!」
エマの声が弾む。
リーゼロッテは微笑んで、再び轆轤に向き合った。
手の中で、新しい器が形を成していく。
誰かのためではなく、自分のために。
そして——新しい誰かのために。
◇
晩秋の朝。
王弟殿下エドワードは、今日も工房にいた。
ただし——跪いて。
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト」
銀灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見上げていた。氷の王弟と恐れられた男が、今、私の前に膝をついている。
「私と結婚してくれないか」
工房が静まり返った。
扉の向こうで、エマが息を殺しているのが気配でわかる。きっと今頃、耳を押し当てているのだろう。
「……殿下」
「待ってくれ、言わせてほしい」
エドワードは立ち上がり——しかし、その手は私の手を取ったまま離さなかった。
「最初は、君の才能に惹かれた。器に込められた魔力に、亡き母を思い出した」
「……」
「だが今は違う」
銀灰色の瞳が、熱を帯びていた。
「君が作る器を見るのが好きだ。君が轆轤を回す姿を見るのが好きだ。君が茶を淹れる手元を、気づけば目で追っている」
「殿下……」
「君がいると、心が安らぐ。それは器のせいだけじゃない。君自身が——」
言葉を切り、エドワードは深く息を吸った。
「君が、好きだ」
静寂が落ちる。
窓から差し込む朝日が、二人を包み込んでいた。
「私は」
ようやく口を開いた私の声は、少し震えていた。
「道具として見られることに、慣れていました」
「……」
「婚約者のために尽くす道具。才能を封印される道具。誰かの役に立つためだけに存在する——そういうもの」
エドワードの表情が曇る。私は首を振った。
「でも殿下は、違いました」
「リーゼロッテ」
「私の器を愛でてくださった。私の仕事を尊重してくださった。そして——私自身を、見てくださった」
声が詰まる。こんなに言葉が出てこないのは、初めてだった。
「私は——」
その時、扉が勢いよく開いた。
「お嬢様! もう焦らさないでください! 私の心臓がもちません!」
「エマ!」
「殿下も殿下です! こんな素敵なお嬢様を、五ヶ月も待たせて——」
「待て、私は毎日来ていただろう」
「毎日来ても告白しなければ意味がありません!」
「……一理あるな」
「エドワード殿下!」
私は叫んだ。二人が同時に振り向く。
「……返事を、させてください」
「おお……」
「エマ、出て行きなさい」
「えー!」
「今すぐ」
「はいはい、わかりましたよ……」
不満そうに扉が閉まる。足音が遠ざかるのを確認して——私は深呼吸をした。
「殿下」
「ああ」
「お待ちください」
私は棚に向かい、二つのマグカップを取り出した。
一つは、自分のために作った淡い青色の器。
もう一つは、殿下のために作った深い紺色の器。
「これを」
私は、自分のマグカップを殿下に差し出した。
「……これは、君が自分のために作った——」
「ええ」
私は微笑んだ。今度は、表面だけでなく心からの笑みを。
「私の器を、あなたに」
エドワードの銀灰色の瞳が、見開かれた。
「リーゼロッテ」
「毎朝一緒にお茶を飲みましょう、殿下」
「——ああ」
エドワードは器を受け取り、その温もりを確かめるように両手で包み込んだ。
「生涯」
「はい」
「君が作る器で、毎朝一緒にお茶を飲みたい。——生涯」
二つのマグカップが並ぶ。淡い青と深い紺。私と殿下の色。
「素敵な食卓になりそうですね」
「ああ」
エドワードが、初めて見せる柔らかな笑みを浮かべた。
「新しい朝が、始まる」
窓の外では、晩秋の陽光が金色に輝いていた。
私たちの手の中で、二つの器が静かに温もりを放っている。
五年間の婚約が終わり——新しい物語が、始まろうとしていた。
◇
工房の片隅に、一通の手紙が届いていた。
差出人は、オスカー・グラン。母方の祖父にして、宮廷一の陶芸師と呼ばれた男。
『リーゼロッテへ
お前の器を見た。ようやくわしを超える者が現れた。
会いに行く。お前の母が、なぜ才能を封印させられたのか——その真実を、伝える時が来た』
私は手紙を握りしめた。
母の秘密。封印された才能。まだ知らない真実。
だが——それは、また別の物語。
今はただ、この温かな朝を噛みしめていたい。
「リーゼロッテ」
エドワードの声が呼ぶ。
「お茶が冷めるぞ」
「ええ、今行きます」
私は微笑んで、二つのマグカップが並ぶ食卓に向かった。
新しい朝が、始まっていた。




