風邪に揺れる心
季節の変わり目、遼が美咲を起こしに部屋に入ると、美咲は朝から「ちょっと寒いかも」とつぶやき、高熱を出してしまった。
「大丈夫か、美咲」
慌てて駆け寄った遼は、妹の額に冷たいタオルをあてる。
火照った頬に汗が滲み、苦しげな呼吸が聞こえてくる。
「兄さん……ごめん、迷惑かけちゃって」
「馬鹿言うな。俺は兄だぞ」
優しく微笑みながら毛布をかけ直し、水を差し出す。
美咲の瞳は不安と安堵が入り混じり、そのまま兄の手を握って離さなかった。
(……兄さんと二人きり。こんな時でも、少し嬉しい)
熱に浮かされた頭の中で、そんな想いがふと芽生えていた。
---- 看病の時間
遼は氷枕を取り替え、体温計を確認し、薬を準備した。
その一つひとつの動作に、美咲は心地よい安心を覚える。
「兄さんがいてくれるから……大丈夫」
弱々しく笑うその表情に、遼の胸はぎゅっと締め付けられた。
---- 不意の来訪
その時、玄関のチャイムが鳴った。
遼が出てみると、そこには彩花と陽菜が立っていた。
「美咲ちゃんが風邪だって聞いて……」
二人は心配そうに袋を差し出した。中にはスポーツドリンクやフルーツが詰められていた。
「ありがとう。助かるよ」
遼は感謝を込めて受け取り、二人を部屋へ案内する。
「美咲、大丈夫?」
彩花が優しく声をかけると、美咲はかすかに頷いた。
「無理しないでね」
陽菜も椅子に腰かけ、氷水を取り替えてくれる。
二人の優しさは本物だった。
だが美咲の心には、別の感情が芽生えていた。
(せっかく兄さんと二人きりでいられたのに……)
熱のせいで言葉には出さなかったが、胸の奥では小さな苛立ちが渦巻いていた。
布団の中で唇を噛みしめ、視線を逸らす美咲。
遼はその様子に気づかぬまま、三人に気を配りながら看病を続けていた。
夕方、窓の外は少しずつ暮色に染まっていた。
熱で横たわる美咲の部屋には、兄と二人の友人の声が響いていた。
「彩花、助かるよ。氷水を交換してくれて」
「いえ、遼さんこそ……タオルの巻き方、すごく上手ですね」
「陽菜、ありがとな。果物まで持ってきてくれて」
「そ、そんな……私、何もできなくて……」
「いや、十分だよ。こうして来てくれるだけでも心強い」
遼が微笑むたびに、彩花と陽菜の顔は明るくなっていく。
二人が嬉しそうに並んでいる姿は、まるで看病を共にする仲間のようだった。
---- 美咲の胸に芽生える影
布団にくるまったまま、美咲はその光景を見つめていた。
(兄さん……私といる時より、楽しそうに見える)
二人が持ってきた果物を一緒に切る兄。
氷を取り替えるときに軽く笑い合う兄。
その何気ないやりとりすべてが、美咲の胸をざわつかせた。
(私が一番近くにいるはずなのに……どうして)
熱のせいで涙ぐみそうになるのを、必死で堪えた。
お粥を遼が運んできた。
「少しでも食べた方がいい」
スプーンを手にした遼が、美咲の口元に差し出す。
「ありがとう、兄さん……」
ほんの少しでも二人だけの時間になると思った。
けれどすぐに彩花と陽菜が傍に寄り、心配そうに覗き込む。
「美咲ちゃん、ゆっくりね」
「無理しないで」
その優しささえ、美咲には苦しく感じられた。
(私だけの兄さんじゃなくなっちゃう……)
---- 帰り際
彩花と陽菜は「今日はお邪魔しました」と立ち上がった。
玄関まで送る遼の姿を、布団の中から美咲は見つめる。
二人が「またね」と笑顔で去っていくのを目にした瞬間、心の奥に渦巻いていた感情が形を持った。
兄に背を向け、布団を頭までかぶった美咲は、呼びかける声に返事をしなかった。
「……美咲?」
遼は首を傾げたが、彼女の胸の奥で芽生えた感情にはまだ完全には気づけなかった。
---- 登校の朝
翌朝。熱は下がり、美咲はまだ少し体がだるいながらも学校へ向かった。
校門をくぐると、秋風が吹き抜ける。
(昨日……兄さんと、彩花ちゃんと陽菜ちゃん……)
思い出すだけで胸が重くなり、自然と足取りも重くなる。
---- 登校中
彩花が駆け寄ってきた。
「美咲ちゃん! もう大丈夫なの? 昨日すごく辛そうだったから……」
心配そうな瞳。
本当なら「ありがとう」と笑いたかった。
でも、美咲の口から出たのは、少し冷たい声だった。
「……もう平気。別に大したことなかったし」
彩花は一瞬だけ驚き、けれどすぐに笑顔を作った。
「よかった。本当に安心したよ」
その優しさが逆に胸を締めつけ、美咲は視線を逸らした。
---- 休み時間
今度は陽菜が美咲に話しかけに来た。
「美咲ちゃん、昨日は無理させちゃってごめんね。私たちまで押しかけちゃって……」
真剣な声音に、美咲の胸は揺れた。
だが言葉はやっぱり尖ってしまう。
「……別に。来たくて来ただけでしょ」
陽菜の表情が曇る。
「そうだけど……心配だったから」
「……うん」
短い返事に、教室の空気が少しだけ重くなった。
---- 自分でも分かっている
美咲は分かっていた。
彩花も陽菜も悪くない。
二人とも本当に優しくて、自分を思ってくれている。
――でも、あの時間は兄さんと二人きりでいたかった。
その想いが心を黒く染め、素直に感謝を言えなかった。
窓の外に目をやりながら、美咲は小さく息を吐いた。
(こんなの、私らしくない……)
けれど、止めようとしても止まらない。
兄を想う気持ちが強いほど、独占したい気持ちがあふれ出してしまうのだった。