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幽霊の正体見たり枯れ女 其の壱

「こら小四郎! 何度言ったら分かるんだ! きちんと学問に励め!」


 雨森家の屋敷中に当主である雨森佐吉重信の怒鳴り声が響く。

 その怒られている小四郎は口を尖らせて「学問はあまり面白くありません」と反抗する。


「それに習ったところで何になるのですか? 私には無用にてございます」

「文武両道であるのは武士の責務だ! それにお前はその辺を遊び回っているだけではないか! 少しは武家らしくしろ!」


 小四郎が雨森家に引き取られてから十日が経つが、いつもこの調子だった。

 近所の同世代の子供――町人の子らだ――と毎日遊んでいる。まるで小さな遊び人のようだと佐吉は頭を抱えていた。


 小四郎の両親は死別している。であるならば後見人の佐吉が自ら教育を施さなければならない。それは武家の務めというよりは弟に対する兄の努めだと断じていた。


 けれども、小四郎は素直に言うことを聞かない。

 読み書きを教えようとすると「己の名だけ書ければ十分です」と突っぱね、算術を教えようとすると「計算高い男になりたくはありません」と去っていく。今日も今日とて朱子学を教えようとしたが、机につく前に屋敷の軒先に逃げてしまう。


 佐吉は側頭部を人差し指で掻きながら「少しは言うことを聞け……!」と叱る。

 堪忍袋の緒が切れる寸前だった。


「先ほども言ったが、武士たるもの文武両道でなければ――」

「分かりました。しかし二兎を追う者は一兎をも得ずと言います。ここは文武の文を勉強しましょう」


 ようやく分かってくれたかと佐吉が油断した瞬間、小四郎は目にも止まらない速さで玄関へと向かう。

 唖然とする佐吉に楽しそうな声で小四郎は言い残した。


「市井の文化を学んで参ります! お夕飯には戻りますゆえ!」


 もちろん、文武両道の文は文化ではない。

 小四郎を追って外に出るものの、姿かたちはさっぱりと消えていた。


「……また逃げられた。あれは本当に父上の息子なのか?」


 父の四郎は学問をひと通り修めたほどの学問好きである。

 その面影を小四郎には感じられなかった。


「あら。相も変わらず追いかけっこしていたのね」


 茶化す言い方をしつつ、玄関にやってきた母のやえにむっとして「母上からも言ってください」と佐吉は憤る。


「だいだい、母上は小四郎を甘やかし過ぎております」

「ふふふ。あなたが厳しい代わりに私は優しくしてあげているの。それに私まで厳しい言い方したら小四郎、出て行ってしまうわ」

「俺としてはそれでも構いません」

「本当? 不出来な弟を世に出せるの?」


 からかわれていることは佐吉も承知している。

 しかしそんな言い回しされると小四郎の面倒を看なくてはいけないと考えてしまう。

 堅物として育てられた佐吉の欠点であった。

 あるいは不出来な弟でも見捨てないという兄の美点ともとれるが。


「母上は俺と小四郎、どっちの味方なんですか?」

「もちろん、当主であるあなたに決まっているでしょ。精々頑張んなさい」


 応援しているとは言いつつ、兄弟のじゃれ合いを楽しんでいるのだろうと佐吉には分かっていた。

 というよりも、今置かれている状況がまるで意味不明だった。突然、死んだ父の隠し子が現れて、己の弟として暮らしているのが佐吉にしてみればまるで納得していないのだ。


 この現状――事件と言い換えてもいい。出口の見えない迷路を歩き続けているような、答えのない問いに向かい合っているような、途方もない徒労感に包まれている感覚だった。

 母のやえに言わせると、それが子育てというもの、らしいが佐吉にはしっくりとこなかった。まだ妻すら迎え入れていないのに、手のかかる子供を育てるというのは彼の常識から外れている気がしてならない。


「俺が子供のときはここまで手がかからなかったと思うが……」


 やえが去った後に一人呟くが、当然応じてくれる者はいなかった。



◆◇◆◇



「どうした佐吉殿。まるで奇怪な出来事に遭遇したような顔つきではないか」


 江戸城内、勘定方の仕事場。

 佐吉が休息中にそう話しかけられた。


「これは武三殿。いえ、奇怪というか奇縁というか……」


 会釈をしてそう返す佐吉の表情は暗い。

 結局、小四郎の去就を考えるあまり、仕事に身が入らなかったのは事実だ。

 これではいけないと反省したところに現れたのは林田武三明慶である。互いに姓ではなく名で呼び合う間柄から推測できるように、親しい関係だった。武三のほうが年長で、堅物ゆえに職場で好まれているとは言い難い佐吉を、気にかけてくれる者の一人だった。

 佐吉は「事情を詳しくは話せませんが」と相談をしてみた。


「手のかかる子供を預かることになりまして。いったいどうすればいいのかと頭を悩ませております」

「ほう。その歳で子供をか。何才だ?」

「九才になります。まるで言うことを聞かないのですよ」

「そのくらいの年頃ならば素直ではあるまい。気長に接するしかないだろう」


 知ったような口を利くのは武三が六才になる子供を持つ親だからだ。


「分かっておりますが、どうしても己のことと比べてしまいます。もう少し、分別があった気がして……」

「堅物なおぬしは、昔から真面目だったということか」


 かっかっかと大笑いする武三に不思議と嫌な気持ちを佐吉は抱かない。

 晴れやかな性格だからか、笑いもカラッとしている。そこが佐吉だけではなく上役に良い評価されている由縁だろう。堅物な佐吉が心を開ける快活な人間なのだ。


「そうか。佐吉殿も厄介事を抱えているのだな……」


 やや陰のある表情をした武三に何かあるなと佐吉は思い、「武三殿もお困り事がおありでしょうか?」と訊ねた。


「うーん、困り事……実は佐吉殿に頼み事があったのだ」

「いったいなんでしょうか?」


 普段、公私に渡って世話になっている武三の頼みだ。断る道理はない。

 その辺りが佐吉の武士らしいところだった。


「ありがたい。実は……家に出るのだ」

「出る? 害虫か何かですか? 冬なのに珍しいですね」

「違う。その、なんというか……」


 武三は佐吉に近づいて小さな声で囁いた。


「幽霊が出るのだ。しかも恨めしそうな顔の女だ」

「な、なんですと!?」


 ぎょっとしたあまり、大声を出してしまった佐吉に「静かに! 他の者に聞かれたくない」と武三は注意した。思わず口を押える。

 訝しがる同僚の目を気にしつつ「まことですか?」と佐吉は真偽を確かめる。

 武三は小さく頷いた。


「家人が目撃している。俺は務めがあるゆえ、早めに就寝してしまうので見ていないが」

「いつから、その、出るようになったんですか?」


 出る、という言い方が適しているのかは佐吉は判然としない。

 しかしこの世の者ではない、幽霊が現れた、とは言いたくなかった。


「睦月の終わり頃だった。我が家でちょっとしたことがあり、家人が夜遅くまで働いていたのだ」


 ちょっとしたことの内容が気になったが、訊くのはやめておこうと佐吉は思った。

 あまり言いたくないから誤魔化したのだと分かったからだ。

 黙って先を促した。


「母屋のほうを整理していた下男――二人だ――がふと廊下を見ると、前方に幽霊が立っていた。白装束で背丈のある、年齢がはっきりとしない、髪の長い女だ。つうっと滑るように歩くその様は芝居の役者のようだったらしい。そしてその幽霊は近くの部屋に入っていった。下男二人が慌てて障子を開けて中に入るが、そこには誰にもいなかった……」


 不気味で背筋の凍る話である。

 ゾッとしつつ「見間違いではないのですか?」と佐吉は問う。


「もしくはその二人の狂言とか」

「その二人以外の家人――合わせて六人も見たと言っている。一人のときもあれば二人か三人のときもある。全員が嘘をついたとは思えない。それにだ、示し合わせ嘘をつくにしてもやる理由がない。幽霊騒動を利用して物を盗むとかされていないしな」


 それならばただの愉快犯の可能性があるが、武家屋敷で行なうには大胆過ぎる。

 また家人たちが口裏を合わせたことも否定しきれない。武三は家人がやっていないと信じているみたいだが……やる理由がないのも事実だ。幽霊騒動を起こして林田家の評判を下げる意図があったとしても、噂は広まっていない以上、ありえない話だ。


 けれども、幽霊が本物であるならば話は別である。

 女の幽霊に何らかの訴えや望みがあり、それを叶えてほしいから化けて出た――それならば自然な流れである。


 しかし相談を受けた佐吉は幽霊を信じていなかった。

 子供の頃ならばまだしも、大人となっている今ならば片腹痛いとも思っていた。

 また父の四郎が亡くなってから幽霊がいないと確信できるようになっている。


「武三殿。幽霊など居るはずはありません。おそらく誰かのたくらみです」

「……俺もそう信じたいが、しかし」

「ならばこう致しましょう」


 佐吉は生来の堅物というよりも頑固な姿勢で、重々しく言った。


「俺が幽霊の正体を見破りましょう。そして犯人を捕まえてみせます」

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