父上の隠し子 其の壱
灰色に覆われたなんともすっきりとしない空模様だった。
いっそのこと、雨でも降ればもやもやした気持ちも流れる。
けれども人が天候を操れた試しはない。古今東西どころか未来永劫不可能だろう。
雨森佐吉重信は不倶戴天の仇のように――空を見上げていた。
佐吉の父、雨森四郎重利が亡くなったのは天保元年の如月のことだった。
病死である。医者が診たときは手遅れでひと月経った頃に亡くなった。
生前は質実剛健という言葉が似合う、今時珍しい頭の固い武士だった。
佐吉自身、父は堅物で真面目だという印象しかない。
武家である以上、礼儀作法は元より心身の鍛錬を重視していた四郎は佐吉に常々言い聞かせていた。武士たるもの強くあらねばならないと。
父親として、それでいて武士としての教育を四郎は自身の息子の佐吉に施していた。
熱心と言うべきか、あるいは愚直と言うべきか。
とにもかくにも佐吉が一廉の人物となれたのは四郎のおかげである。それは佐吉自身認めるところであった。
しかし、佐吉はある意味、父の四郎に乗せられたと思っている。
四郎は佐吉が犯した失敗をとやかく責めなかった。
武士にあるまじき行ない、つまりは卑怯卑劣なことをしなければ怒りはしなかった。
それ以外の失敗――勘違いや思い違いなどはどうしてそうなってしまったのかということを滔々と説き、場合によっては佐吉を褒めたりもした。よくぞその過失に気づいた、天晴れだという風に。
結果として佐吉は四郎以上の堅物となってしまった。
同輩や後進だけではなく、時には上役の失態を責めたりもした。当然、煙たがる者が大勢いたが、正論を言うものだから邪険にできない。佐吉自身、目敏い己が嫌になることもある。それでも四郎の教えに従うのは親子だからだ。それ以外に理由はない。
それに直属の上役以外の評価は高かった。
真面目にお役に励む姿は好ましく、仕事ぶりも正確だった。
歯に衣着せぬ言い方は耳障りだとしても、働きがよろしい者を貶めるのは道理に合わない。加えて佐吉は自らの失態を逐一報告していた。その辺は公平なのだった。
佐吉は四郎からお役を引き継ぎ、旗本として励んでいた――その矢先に四郎は亡くなった。まだ佐吉が二十四になったばかりだった。若輩者でしかも堅物な佐吉はまだまだ父親に教えてもらいたいと思っていた。その目論見が潰れてしまったこともあり、空の向こうに旅立った四郎のことを思い、見上げていたのだ。
「父上……何ゆえ、こんなにも早く……」
出た言葉には悲しみと怒りが入り混じっていた。
四郎は四十五歳で隠居届を出しているものの、人生を終えるにはちと早い年齢だ。
父を連れ去った天命というものが憎らしく思えるのは無理もない。
「佐吉。こんなところにいたのですか」
「母上……」
佐吉が振り返ると四十を超えた女性――佐吉の母である、やえが立っていた。
四十と言っても見た目は三十前半にしか見えない。妙に若々しく見えるのは背丈が低いからだろう。佐吉が五尺七寸ほどあるのに対し、やえは四尺六寸しかない。若いというより幼いと言うべきだろうか。喪服を折り目正しく着ているが、どうしても子供のままごとのように見えてしまう。
「香典を記帳しておくれ。私は弔問客を相手しているから」
気丈に振る舞っているものの、声に悲しみが入り混じっているのは隠せない。
四郎は真面目な男だったゆえ、妻のやえには気を遣っていた。できる限りの優しさと暖かみをもって接していたのだ。年に何回か夫婦だけで湯島天神に参拝していたことからそれが窺える。
母は父を愛していたのだなと佐吉は思い「今参りますよ」と頷いた。
一番つらい母親がしっかりと喪主を務めている。こんなところで物思いにふけっていられないと佐吉は頬を両手で叩いた。
玄関に置いた机の上の香典帳を開いて、佐吉は弔問客から渡された香典の金額を書いていく。几帳面な性格の佐吉は丁寧に数えて、次々と片付けていった。あと少しでひと段落が着く――そんな頃合いで、にわかに玄関の戸が開かれた。
「お。励んでいるじゃねえか、佐吉」
葬儀の場だというのに、明るく朗らかな声で現れたのは叔父の五郎左衛門だった。
途端に佐吉の顔は苦いものとなる。というのも、あの厳格な父の弟とは思えないほど軽薄でお調子者であるからだ。以前は親しくしていたものだが、大人になるにつれていい加減さが鼻につくようになった。今では厄介な親戚だと見なしている。
けれども、五郎左衛門は折り目正しく羽織を着ているなど、彼にしては整った装いをしている。奇妙にも普段のおちゃらけた雰囲気が見られない。しかしもっと奇妙なのは――傍らに子供を連れていることだ。歳は九才か十才。小柄だが利発そうな顔つきをしている。身体は細くて頼りなさげだ。ガキ大将というよりはその隣にいる小ずるい悪ガキという印象である。
「……これは叔父上殿。お久しゅうございます」
「そうだな。親戚の集まりにも顔を出さなくてすまねえ」
いつになく愁傷な言葉に「いえ。お気になさらずに」と思わず佐吉は言ってしまった。
本当は葬儀の刻限をだいぶ過ぎていると苦言を呈さなければならないが不真面目な――そう佐吉は叔父を断じている――五郎左衛門がまともな恰好をしていたため、つい気遣う言葉を投げてしまった。それは狡猾な叔父に対して明らかな油断に他ならなかった。
「ふふ。相変わらず固い男だねえ。若いときの兄者そっくりだ」
「……ところでそちらの子供は?」
叔父夫婦には子供がいなかったはずで、五郎左衛門の妻であるおふみはやえと一緒に葬儀の手伝いをしていた。それゆえ、幼い子供と叔父との接点が分からない。
「ああ、こいつか。そりゃあ訊くよなあ……」
「まさか、拐してきたわけではありませんよね?」
「おいおい。俺をどんな風に見てんだよ」
親戚の中に一人か二人いる悪い叔父ですとは言わずに「誰なんですか?」と再度訊ねる。きょろきょろ周りを見渡している子供の頭を撫でながら五郎左衛門は面倒そうに言う。
「お前の弟だよ」
「……はあ? 何を言っているんですか?」
「だから、こいつはお前の弟だって言ってんの。何度も言わせるなよ」
突然言われた衝撃な一言に佐吉は持っていた香典帳を閉じてしまった。
そして立ち上がって「冗談はやめてください!」と怒鳴る。
「雨森四郎重利の子は俺一人です! 戯言を言わないでください!」
「冗談でも戯言でもないんだな。こいつはれっきとした兄者の子でお前の弟だよ」
五郎左衛門が珍しく真剣な表情を浮かべたせいで、出かけた文句が止まってしまう佐吉。
そこへやえが「そんなに騒いでどうしたの?」とやってきた。
「あら。その子……」
「聞いてください、母上! 叔父上がまたよからぬことを!」
「また? 俺そんなに悪さしたか?」
とぼける五郎左衛門を睨みつけて「ふざけるのはやめてください!」と佐吉は喚く。
「まるで父上に隠し子がいるみたいに――」
「ええ。いるわよ、隠し子」
母のなんでもなさそうな言葉に佐吉の動きが止まる。
凍ってしまった息子を余所に、やえは「お久しぶりね」と周囲を興味深そうに見まわしていた子供に笑いかける。
「本当なら迎えに行くところだったけど、あの人の葬儀をしているのよ。堪忍してね」
「ええ、大丈夫ですよ、やえさん」
甲高い子供らしい声で、同じように微笑む。
様々な事柄が目まぐるしく起こり、現況に置いて行かれた佐吉は疑問が頭の中にいっぱい敷き詰められていた。
どうして母はこの見知らぬ子供を知っているのか。
何故、自分には全く知らされていなかったのか。
そもそも、この子供は何者なのか――
「そうだお前。自己紹介しろや。そうすりゃあ万事分かるだろ」
五郎左衛門に促された子供は「合点承知の助でございます!」と力強く頷いた。
そして戸惑っている佐吉に向かって笑顔で言う。
「私は小四郎と申します! 以後お見知りおきを!」
小四郎。
四郎の息子という意味……
佐吉の目の前が真っ暗になる心地がした。
父上に隠し子がいたなんて……!