山岳逃避行
廃墟と化した太陽光発電所を背に、一行は険しい山道へと足を踏み入れた。**AGI**が推奨した避難ルートは、かつてのハイキングコースを辿るものだったが、地震による地滑りと長年の放置で、道なき道となっていた。重い空気には、遠くで続く革命党の活動を示す不気味な爆発音が、時折山肌に反響して届いていた。
**ジャビール**を乗せた即製の担架は、ソラとハルオにとって想像以上に重かった。ソラは若いが体力には限界があり、ハルオは松葉杖が使えず、負傷した脚と加齢による体力の衰えが重くのしかかる。二人の呼吸は荒く、額には脂汗がにじんでいた。担架上のジャビールは、揺れるたびにうめき声を漏らした。弾創からの出血は辛うじて止まっていたが、痛みと失血による衰弱は深刻だった。彼の顔は土気色で、時折意識が遠のくようすが見られた。
「…大丈夫…か…?」ジャビールがかすかに尋ねた。
「黙って休んでろ」ソラが歯を食いしばって答えた。彼女の**左肩**は担架の棒が食い込み、痺れるような痛みを感じていた。
「…ほんの少し…休憩を…」ハルオの声は喘ぎに近かった。彼の**右脚**(松葉杖が必要な側)は限界を超えて震えていた。
一行はわずかな木陰に担架を下ろした。ケイが水筒の最後の水をジャビールの唇に含ませ、ソラとハルオにも分け与えた。アキラはすぐに警戒態勢に入った。**尾**を低く保持し、**大きな眼球**を360度に動かして周囲を精査した。**四色型色覚**は、深まる緑の闇の中でも、岩肌の割れ目、倒木の危険な傾き、そして遠くの尾根を横切る不自然な人影(革命党の斥候か?)をかすかに捉えていた。彼の**優れた空間認識能力**は、この場所が狙撃や奇襲に脆弱であることを警告していた。
「キキッ!」高い木の上から**タマ**の警戒音が響いた。彼女は**長い尾**を巻きつけて枝にぶら下がり、**前肢**で南東の谷間を指さしていた。**優れた聴覚**が、エンジン音をかすかに捉えたのだ。アキラは即座に合図を送った——**左前肢**を挙げ、**第III指**で進むべき方向(北西)を指し、素早く二度「クッ、クッ」と鳴く。*危険。すぐに移動だ*。
休憩は数分で終わった。再び担架を担ぎ、傾斜のきつい山道を登り始める。足元は不安定な礫と崩れかけた岩だ。ソラが**右足**を滑らせ、危うく転びかけた。担架が大きく傾き、ジャビールが苦痛の声を上げる。
「ごめん…!」
「気にするな…」ジャビールは歯を食いしばった。
その時、アキラが前方に現れた。彼は**軽量な骨格**と**指行性**の足で不安定な斜面を安定して移動し、**尾**で微細なバランス調整をしながら、**右前肢**の**第III指**で安全な足場を順に示していく。彼の**空間認識能力**が、人間には見抜けないわずかな段差や、踏みしめられる岩盤を瞬時に見分けていた。グループはアキラが示す足跡を慎重に辿り、進む速度は遅いが、致命的な滑落は避けられた。
**正午過ぎ**、一行は深い渓谷に阻まれた。地震で唯一の吊り橋が落下し、対岸へ渡るには、急流の上に張り出した巨大な倒木を渡るしかなかった。倒木は苔むし、所々腐食して脆そうだ。
「…無理だ…」ハルオが絶望的に呟いた。「担架では…バランスが…」
「…回り道すれば…半日以上…ロスする…」ソラが通信機の地図を見つめ、ため息をついた。ジャビールの状態は半日の猶予もない。
アキラは倒木の根元に慎重に近づいた。**鋭い爪**で樹皮を軽く引っかき、硬さを確かめる。**吻**を近づけ、腐敗した匂いがないか嗅ぐ(**嗅覚**は鋭くないが、明らかな腐敗臭は感知できる)。彼はケイの方を見て、**右前肢**で倒木を指し、次に**自身の背中**を軽く叩く動作をした。*先に安全を確認する。お前たちは後から*。
アキラは細長い**尾**を水平に伸ばし、バランサーとして機能させながら、倒木の上を歩き始めた。**指行性**の足が、直径50cmほどの丸太の上で微細な調整を行う。**半月形手根骨**が**前肢**の動きを滑らかにし、体の重心を常に安定させた。倒木の中ほど、明らかに脆くなった部分を発見すると、彼は**左後肢**でその部分を避け、**右後肢**でより安定した位置に飛び移った。数分後、無事に対岸に到達。彼は振り返り、短く「キッ」と鳴いた。*安全。通れる*。
次はタマが動いた。彼女は木々の枝を伝い、倒木の上を軽やかに走り抜け、アキラのいる対岸へ。二人(一羽と一匹)は、倒木を渡る人間たちの安全を確保する位置に付いた。
人間たちの渡渉は命がけだった。ソラが先導し、ハルオが後ろから支える形で担架を運ぶ。ケイはジャビールの体を担架に縛り付けたロープを握り、バランスを助けた。一歩一歩が緊張の連続。倒木が重みで軋むたびに、固唾を飲んだ。中ほどでジャビールの担架が大きく傾いた時は、アキラが即座に**右前肢**を伸ばし、**第I指**と**第III指**で担架の縁を対岸から支えた。タマも警戒音を上げ、危険個所を知らせた。
ようやく全員が渡りきった時、安堵のため息が漏れた。しかし、代償もあった。渡渉中の無理な体勢で、ジャビールの傷口が再びじわりと血を滲み始めた。ソラが顔を強張らせ、応急処置を施す。
**夕暮れ**、一行はついに**AGI**が示した廃村の外れにたどり着いた。標高800メートルほどの谷あいにある、かつて十数軒が暮らした小さな集落だった。ほとんどの家屋は倒壊していたが、集落の一番奥、岩壁に寄り添うように建つ一軒の古民家が、奇跡的に半壊を免れていた。屋根は一部崩落しているが、壁は頑丈な木と石造りで残っている。
「…ここだ…」ハルオが息を切らして言った。「…何とか…シェルターにできる…」
その古民家の隣に、半ば土砂に埋もれたコンクリートの建造物があった。小さな研究所のような外観。プレートは剥がれ落ちていたが、錆びた金属の門に「**東京大学 先端視覚研究所 山中実験場**」と刻まれた文字がかすかに読めた。窓ガラスは全て割れ、内部は暗かった。
アキラが真っ先に古民家へと近づいた。**羽毛**をわずかに逆立て、警戒しながら。彼は**左前肢**でドアを押し開け(鍵は壊れていた)、**大きな眼球**を闇に慣らして内部を精査した。ほこりっぽいが、動物の気配や人間の気配はない。安全だ。彼は振り返り、短く「クッ」と鳴いた。
ソラとハルオは最後の力を振り絞り、ジャビールを古民家の中へ運び込んだ。ケイは倒れそうになりながらも、わずかに残った毛布を広げた。ジャビールは担架から降ろされると、深い、苦しそうな呼吸を始めた。ソラが通信機で**AGI**に状態を報告し、指示を仰いだ。『**創部感染リスク高。可能な限りの清潔な水による洗浄と抗生物質投与が必須。発熱時は冷却を**』。しかし、水も薬もほとんど残っていない。
「…水を…探さねば…」ソラが呟いた。喉もカラカラだった。
アキラは古民家の縁側に出た。夕闇が谷を覆い始めている。彼の**四色型色覚**が、隣の廃研究所の破れた窓から、奇妙な光景を捉えた。実験台が倒れ、複雑な装置が散乱する室内の隅に、一つだけ無傷のガラスタンクが置かれている。中には、淡いオレンジ色の培養液に浮かぶ、小さな… **網膜のような組織**が収められていた。それは**培養網膜オルガノイド**だった。タンクは独立したバッテリーで動作しているらしく、微かな光を放ち、培養液を循環させていた。タンクの横には、破損した**マイクロ電極アレイ(MEA)**の基盤と、**光学的計測ユニット**の残骸が転がっていた。
「…あれは…」ハルオも気づき、驚きの声を上げた。「…培養網膜の研究施設だ! まさか、こんな山奥に…そして、今も動いているものが…」。彼は研究者としての興味が湧いたが、今は水と食料が優先だった。
アキラはその光景を理解できなかったが、水の必要性は理解していた。彼は**右前肢**で谷底の方角を指し示し、**吻**をわずかに動かして水を飲む動作をした。*水場を探す*。タマが「キキッ!」と応答し、率先して木々の間へ飛び出していった。彼女の**優れた嗅覚**と**聴覚**が、谷底の小川の存在を捉えたのだ。
間もなく、タマが戻ってきて、アキラとケイを小川へと導いた。アキラは**左前肢**でケイの手をそっと取り(**第I指**と**第III指**で)、滑りやすい岩場を慎重に下りるのを助けた。小川の水は冷たく澄んでいた。ケイは涙を流しながら、水筒を満たした。アキラも**細長い吻**を水に浸け、喉を潤した。彼の**優れた動体視力**が、水中を素早く逃げる小魚の群れを捉えた。獲物だ。
疲労と飢餓に苛まれながらも、アキラは**右後肢**で素早く川岸に飛び乗り、**左前肢**を閃光のように水に突っ込んだ! **半月形手根骨**が可動し、**第I指**と**第III指**で逃げ遅れた一匹の小魚を掴み取った! 彼はそれをケイの前にそっと置いた。獲物を分かち合う行動——群れの本能が、ここでも働いていた。
古民家に戻り、ケイが汲んだ水でジャビールの傷口を洗い、冷たい布を額に当てた。かすかに熱があった。ソラはアキラが獲った小魚と、タマが集めてきた木の実で、わずかなスープを作った。栄養は乏しいが、皆の空腹を多少和らげた。
夜、古民家の囲炉裏(火は使えないが)のそばで、グループは寄り添った。ジャビールは浅い眠りについていた。ハルオは隣の廃研究所を眺めながら呟いた。
「…あの培養網膜…iPS細胞から分化させた本物の組織だ。あれが…『見る』ということを、デバイスの中で再現しようとしていたんだ…」。彼の目に、科学への畏敬と、それが置き去りにされた無念さが映っていた。
アキラは古民家の戸口で見張りを続けていた。**半硬直化した尾の基部**を柱に接触させ、**大きな眼球**を闇に凝らす。谷の向こうで、一瞬、不自然な光が動いた——懐中電灯か? 革命党の追跡は続いていた。しかし、今はこの傷ついた「群れ」に、わずかな休息が必要だった。タマがアキラのそばの梁に飛び移り、警戒を分担した。二人(一羽と一匹)の影が、月明かりに照らされて壁に映る。自然の中に放り出された古代の生物と現代の霊長類が、歪んだ時代の中で、同じ脅威に立ち向かうために共闘する——奇妙でありながらも確かな絆が、この廃村に静かに根を下ろし始めていた。




