キング・クリムゾン ④
意識を取り戻したとき、おれは神田川のアスファルトの岸で仰向けになっていた。
体中から淀んだ水の饐えたような匂いがする。おれは濡れ鼠だった。
「大丈夫!?」
天使の声かと思えば、おれの横にしゃがんでいたのは棗先輩だった。切迫した表情でおれの顔を覗き込んでいる。
「だ、大丈夫でぃ……」
照れくささに顔を逸らせば、先輩がなにか丸めた雑巾のようなものを懐に抱えているのに気が付いた。もぞもぞ動いている。
「この子も大丈夫みたい……」
安堵しきった先輩の声に答えるように、濡れた毛玉のような子猫はみぃみぃ……と鳴いて見せた。
「すごかったよ荒町くん、イルカみたいに泳いでたの。すっごくかっこよかった」
「……」
先輩の言葉は飛び上がるほどうれしかったが、しかしなにより奇妙でもあった。
おれはカナヅチなのだ。
生まれてこの方泳げたことがない。おふくろの腹の中で羊水に溺れそうになっていたくらいには筋金入りのカナヅチだ。
勢いよく川に飛び込んだはいいが、飛び込んだが最後、次に浮かんでくるときはドザエモンである。イルカどころの話ではない。
しかし飛び込もうとは考えた。『あの時』と同じだ。だが、『あの時』と違い、おれは自力でこうして岸に上がっている。しかも子猫を携えて。
「……」
「荒町くん?」
飛び込もうとした瞬間に、まるで眠りに落ちるように意識を失った。瞬きほどの一瞬の眠りの後、おれはもうすでに全身余すことなくびしょ濡れだった。今朝の来栖宮との会話の場面と全く同じだ。まるだ誰かがおれの体の制御を無理やり奪い去ったかのような――
「荒町くんってば!」
「……ぬお!?」
先輩が心配そうにおれに呼びかける。
「本当に平気……?」
ほら、ハンカチ……と先輩が品のいい花柄のハンカチを差し出してくる。
「いや、手ぬぐいがありますから……それより猫に使ってやってください。生まれたてみてえに震えてら」
「もう……」
体と変わらないくらい濡れた手ぬぐいで顔を拭う俺を呆れた目で見て、それから先輩は微笑んだ。自分のハンカチで濡れた子猫を拭いている。
ちくしょう。なんでこの毛玉は助けられておいてさらに先輩の懐に抱かれてやがんだ?
「それで、その……荒町くん」
やさしく子猫の体を拭いてやりながら、先輩は上目遣いがちにおれを見た。鼻から脳味噌を吹きだすくらい可愛かった。
「大事な話って……」
「……」
すっかり忘れていた。改めて先輩の方に顔を向けると、おれの髪から水が滴って鼻先に落ちた。
「……なんでもありません」
ドブみてえな匂いでしたい話でもねえ。まだ死臭の方が気が利いてら……
もうすっかり勢いもそがれちまって、思いを伝えるどころではない。
「その……部活やめたりしないよね?」
「はい?」
突拍子もないことを言われたて、おれは阿呆のように返事した。
「大事な話って言うから……不安になっちゃって」
「死んでもやめねえですから、安心してください」
比喩でもなんでもなくそう告げると、先輩ははああと息を吐いた。緊張が解けたらしい。
「よかったぁ。やめたらどうしちゃおうかと思ったよ」
「……」
胸を撫で下ろす先輩を眺めながらなんとも言えない気持ちになる。
橙を超えて赤く染まり始めた神田川は、すでに流れているのか流れていないのかわからないいつもの様子で目の前に横たわっている。
ぼんやりと川を眺めていると、くしゅんっと猫がクシャミをした。