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神田雷雨慕情  ~トラックに散りぬ~ ②

「ぬ?」


 目が覚めると、おれは陰気な河原で寝転がっていた。

 どうやらトラックに轢かれてお陀仏というのはおれの見ていた夢だったらしい。夢の中でも告白一つできない己には呆れるばかりだが、しかし死んでいないのならそれでよい。


「……」


 俺は体を起こして辺りを見渡した。

 晴れた日の神田川河川敷で昼寝をするのは好きだが、こんなに曇って、しかも霧に満ちた川縁で寝るだろうか? こんな場所なら悪夢を見るのも当然の話である。どうやら制服を着ているようだし、寝る前の自分のことがどうにも思い出せねえ。

 目を凝らすと、川縁には石を積んで作った小さな塔が無数に並べられていた。子供の遊んだ跡なのだろうか? 体を起こして霧の奥を見遣れば、小さな子供が無心で石を積み上げている。


「おい、もう暗くなるぞ。子供は帰る時間だ」


 そんなふうに呼びかけても、子供はいっさい俺に反応しない。ただただ黙って石を積み上げ続けている。


「ふん……勝手にしやがれ」


 さておれも帰るかと立ち上がれば、霧のかかった川の向こう岸にぼんやりとした黒い影が見える。こんな川岸にまだ人がいるのかと目を凝らすと、どうやらその影はどっかりと胡坐をかいているようだった。


「……あれはもしや――」


 ぐっと睨むと、影のシルエットがよりはっきりとした。あれは間違いない――


「親父! 親父なのか!」


 ざぶりと川に踏み込んだ俺は、影をめがけてそのまま川を突き進んだ。

 近づけば近づくほどに、おれの予想は確信へと変わっていく。

 川の向こう岸に胡坐をかいているのは、丹前姿の親父だった。


「おーい! おれだ! 万事だ!」


 奇妙なことに、おれが目覚めた場所には石が転がっているだけだったが、親父がいる側には色とりどりの花が咲いていた。しかしそんなことはどうでもよい。おれは久し振りに親父に会えたことで舞い上がっていた。


「そんなどてらじゃもう暑いだろう! 帰ろう! おふくろが衣替えをしてある!」


 ゆったりと流れる川に深々と足を取られていたのが、随分と歩きやすくなった。対岸はすぐそこだ。

 親父は間違いなく病気で死んだはずである。しかし、目の前で胡坐をかいているのもまた、間違いなく親父である。記憶を信じるのか、それとも眼前に見えるものを信じるのか、そんなこと考えるまでもあるめぇ。


「親父!」


 呼びかけても、丹前姿の親父は立ち上がろうとしなかった。どうせ虫の居所が悪いのだろう、おふくろが怒っていると言えばすぐに腰を上げるはずだ。

 ついに岸に上がったおれは、まっすぐに親父の元まで足を進めた。親父は彼岸花の満開になった少し小高いところにどっかりと座っている。引きずってでも連れて帰ろう、これでおふくろの寂しそうな顔を見ねえで済む。

 霧を掻き分けた先にいたのは、やはり親父だった。眉に皺を寄せて、がっちりと目を閉じている。おれが近付いたのに気がついたのか、親父は筋を立てるほどに力を込めて組んでいた腕をほどいた。


「おや――」


 もう一度呼びかけようとしたおれは、しかしそこで言葉を止めざるを得なかった。

 殴られた、と気が付いたのは宙を舞ってからだ。


「ッ!?」


 砲弾のような勢いで川の上空を吹き飛んでいくおれは、胡坐をかいたままに拳を突き出した親父を視界の隅で小さく捉えていた。

 なんでぇ?

 殴られる理由などなかったはずだ。おれはただ親父を連れ戻そうとしただけなのだ。

 あっという間に反対の岸まで吹き飛んだおれは、寂しさと共に一抹の懐かしさも感じていた。

 もう二度と親父には会えまい。

 そんな確信があった。

(久しぶりに雷落とされたなあ)

 氷のように冷たい拳だったが、殴られた頬は火傷するほどに熱かった。



 ピシャァァァァァァアアアアアアアアッ!!


「ぬおおッ!」


 視界が真っ白に染まり、耳をつんざくような轟音が鳴り響いた。

 飛び起きれば、辺りは煙が立つほどの豪雨だ。


「熱いッ!」


 土砂降りの中でも分かるその炎の気配に、おれは慌てて背後を振り返った。

 木が燃えている! 一抱えもある街路樹が幹の真ん中から大きく裂けて炭になりかけている。


「か、雷が落ちたのか……!」


 この木にはおれが寄りかかっていたはずだ。見た限り五体満足なようだし、相当運が良かったらしい。


「なぜこんなところで寝ていたんだ?」


 五体満足とはいえ、桶をひっくり返したようなこの雨の中で、おれはなぜ呑気に寝ていたのだろうか。


「……思い出せん」


 今朝、家を出てからのことがなぜか全く思い出せない。

 思い出せないが、体が芯まで凍え切っていることだけは確かだった。おれはくしゃみを一つしてから、傍らに転がっていた通学鞄をひっつかむと家の方向へ駆けだした。



「うわ……サイアク」


 先に家に帰っていたらしい妹が、ずぶ濡れのおれを見るなりそう言った。侮蔑しきったような目つきだった。


順風すみか、風呂は沸いてるか」


 奥歯をがたがたと震わせながらそう訊くと、順風はぶっきらぼうに


「沸かしたけど兄貴があたしの後に入るのが嫌だから、水抜いた」


 と答えた。


「……」


 そのまま居間に引っ込んだ順風になにも言い返せないまま、おれはとぼとぼと風呂場に向かうのだった。



 熱いお湯を浴びると、体を縛っていた鎖がほどけていくような開放感があった。体表から芯へとじんわりと熱が伝わっていく。


「生き返るなあ」


 しみじみと呟いて湯船のほうを見ると、本当に中身が空だった。順風のやつ、嘘でもなんでもなく本当にお湯を抜いてやがる……

 いつからあんな風になっちまったんだ?

 昔はまっすぐで素直な可愛い妹だったはずだが、今やおれの顔を見るだけで唾を吐かんばかりの嫌いよう。高校生になって髪型も派手になったし、化粧もするようになった。

 耳にピアスの穴を開けようとしたときは殴り合いの喧嘩になったもんだ。親にもらった体に穴を開けるなど言語道断だと怒鳴るおれに対し、自分の体なんだから口を出すなと順風は怒鳴り返した。半日続いた喧嘩はおふくろの鉄拳で収まったものの、順風は結局イヤリングとやらを耳にぶら下げている。あれはどうやら耳に穴を開けないモンのようだが……しゃらくせえモノのことはよくわからん。

 ともかく、順風は目に見えて反抗的になった。はっきりとした契機はわからないが、思い当たる節はある。


「親父が死んでからだな……」


 ざばざばと湯を浴びながら、おれは呟いた。

 絶対に口にはしないが、順風にもきっと思うところがあるのだろう。


「……」


 大黒柱を失った今、おふくろは家計を支えるのに忙しい。ここは兄としての力の見せ所だろう。妹が不良になってしまわぬよう、おれがしっかりと監督しておかなくてはなるめぇ。


「よし」


 体も随分温まって来た。あまり水を無駄にするのもよくないだろう。

 石鹸で頭をがしがしと洗っていると、左手に何かが引っかかった。


「む?」


 手で触れてみると、どうやら左側頭部になにかが刺さっているらしかった。つるつるしていて、少し冷たい。金属だろうか?

 曇った鏡を掌で拭いて、おれは頭の左をそこに向けた。


「……螺子?」


 驚くべきことに、おれの頭の横に黒々とした螺子が刺さっているらしかった。

 一大事である。慌てて引き抜こうとすると、脳裏で花火がさく裂したかのような衝撃がしておれはその場にひっくり返った。

 まずい! これはもしや脳にまで食い込んでいるのではなかろうか? だとすれば相当に深刻な事態だ。

 だとしても無理くりに頭から引っこ抜けば『中身』がどうなるかわかったものではない。大事なのは一つ、今五体満足で生きているということだ。

 病院だ。医者に診てもらえばいい。こうなれば手術代も大変なことになりそうだが、背は腹に替えられまい。

 おれは素早く石鹸を洗い流した。



 濡れた体を拭くのもほどほどにおれは自室に急いだ。すぐに保険証を持って病院に向かわなくちゃなんねえ。


「どこへやったんだかな……」


 普段病気なんざしねえから、保険証をどこへやったのか覚えちゃいねえ。大事な書類なんかを入れておく引き出しがあったはずだが、そこに目をやれば大きな段ボールが引き出しを塞いでいやがる。あれは本棚から溢れた本が詰め込まれている段ボールだ。

 どかさなくては引き出しが見られないから、おれは屈んで段ボールの底に両手を差し込んだ。

 顔を上げてえいやと力を込めると、段ボールが少し持ち上がったのちにドスンと床に落ちた。

 指でもすべらせたかな……と天井に向けていた顔を下に向ければ、確かにおれの右手は段ボールから離れていた。左手の方は段ボールと床の間に挟まったままだ。


「少し力の入れ方を間違えたかあ?」


 と、もう一度体を屈めようとして、気が付く。


「……ん?」


 待て、今何か不自然なことが――

 おれは今重たい段ボールを持ち上げようとして、手を滑らせた。持ち上げたときの体勢は高いから、片方の手が離れれば必然的にもう片方の手も離れるはずだ。

 しかし、宙ぶらりんの右手と違って、おれの左手は間違いなく段ボールの下敷きになっている。

 おかしい。

 そう、まるでおれの左腕の、肘から先の部分が段ボールの重みに耐えられずすっぽ抜けたかのような――


「う、うおおッ!」


 ぬ、抜けてやがるッ! 左腕の肘から先がすっぽりと抜けて段ボールの下敷きになってやがる!

 腕を持ち上げて見ても、そこには気色のわりい断面があるだけで血の一滴も流れ出しちゃいねえ。こいつぁ一体……!?

 突如として部屋を白く染めた雷光に、おれはすべてを思い出した。


「そうだ……! おれぁ、あんときトラックに轢かれて――」


 死んだはずだ。

 間違いない。今思えばあれは三途の川だ。渡った先にいたのは死んだ親父に違いねえ。おれも川を渡って『向こう側』へ行こうとしたから殴り飛ばしたのだ。

 川をぶっ飛びながら戻ったから、今のおれは確かに『こちら側』、現世にいるはずだ。


「大黒様じゃなくって、将門様の加護か……?」


 腕が外れても痛くも痒くもねえたあ気味がわりぃが……


「うるさいっ! クソ兄貴っ!」


 部屋の扉をガンガンと叩く音がする。おれの叫び声を聞いた順風だろう。

 おれは慌てて段ボールの下から腕を引っこ抜いて断面同士をくっつけるようにした。


「な、なんでもねえ!」


 順風にこれを見られたらまずい。腕の接合部を右手で押さえながら、おれは扉の方にそう叫んだ。


「……次騒いだら殺すっ!」


 そんなふうに応答して、順風の足音が遠ざかっていった。


「……」


 恐る恐る右手をどけてみると、左腕は継ぎ目もなくくっついていた。左手を開いたり閉じたりも問題なくできる。


「病院どころじゃねえな」


 こんなもん「治してくれ」と医者に頼んでも逆に向こうが卒倒しちまう。

 右掌を胸に当ててみると、本来あるはずの鼓動がない。心の臓が止まってやがる。


「やっぱり『体だけは』死んでやがる」


 さしずめ『動く死体』ってなもんだ。頭に刺さった螺子となにか関係があるのか?

 おれの体は死んでいるが、『おれ』は確かに生きている。随分と哲学的な存在になっちまったようだが、足りねえ脳味噌で考えても仕方がねえ。


「誰にも言えねえよなあ……」


 うそのように自然に動く左腕を眺めながら、おれはそう呟いた。



 寝て起きたら不安が霧散していた。

 死体だろうがなんだろうが、話せて動けりゃそれで十分じゃねえか。

 もしかして夢だったのかしらと頭を撫でて見りゃあ、そこには螺子がぶっ刺さってやがるし左腕もおもちゃみてえに外れやがる。

 だが、どっこい元気だ。気力は十分にある。

 死体ではあるのだが、腹も減れば糞も出ることが分かった。こんなもん生きてる人間と変わんねえじゃねえか。

 自分が生きてるとか死んでるとか、そんなことよりも大事なことがおれにはある。


「今日こそ棗先輩に告白してやる」


 武者震いしながら、おれは布団を畳んだ。

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