秘密は氷の城の中 ①
「着替えはガウンがあるから好きに使いなさい」
そういうわけで、おれは来栖宮邸の風呂を借りているのだった。
ここ数日は風呂で悩んでばかりだ。ゆったり入っていたいものだが、そうもいかねえらしい。
それにしても東京の一等地にこんなに大きな屋敷を建てているとは、さすがは来栖宮財閥だ。流石に宮殿のような家ではないが、風呂が二つもついている家を小さいとは誰も言うまい。
風呂も大理石だかなんだかの拵えでやたらと白い。どうにも落ち着かず、おれは軽く体を流して風呂を出た。綺麗すぎて誰も使ったことがねえようにしか見えねえ。
これまた純白のタオルで体を拭いてから、おれは当然のように純白のガウンを身に纏った。落ち着かねえ。
風呂場を出ても、おれを出迎えてくれる人間などいない。来栖宮邸は不気味なほど静かだった。これだけ広い屋敷だ。使用人の一人や二人いてもおかしくないはずだが……
薄暗く蒸し暑い屋敷で分厚いガウンを着ているのも苦しい。とはいえ濡れた服は全部洗濯機に入れちまってるから、おれはしかたなくガウンから腕を抜いて上半身をはだけた。これで大分いい。
とにかく、来栖宮が出てこないことには事が運ばない。女の風呂は長い、もうしばらくは出てこないだろう。
やたらと広い客間のやたらと高そうなソファに腰かけて、おれは来栖宮を待つことにした。
「うっかりしちまってたなあ……」
気がみじけえのは親父からもおふくろからも受け継いでいる。頭に血が上ると細けえことが気にならなくなっちまうのはおれの性分だ。
来栖宮にばれたことで面倒なことにならなきゃいいが……
「……ぬ?」
視線を落とすと、目の前のテーブルの上に紙が散らかっているのに気が付いた。
洗練された調度品の中でそこだけ散らかっているからどうしたって目につく。それに、薄暗くてよく見えねえが、こりゃ多分――
「漫画か?」
下品なことだと分かってはいるが、おれはテーブルの上に散らばっている紙を手に取った。
間違いない。漫画だ。
雨音が響く暗い部屋で、おれは目を凝らしてその漫画を読んだ。
「中々黒っぽいじゃねえか」
線がはっきりとしていて登場人物の感情が生き生きとしている。絵に自信がある人間の筆致だ。実際に上手い。
驚くべきことに、これは手書きの漫画だ。すなわち、どこか漫画雑誌から破いて来たわけではなく、どこかインターネットから印刷してきたものでもない。誰かが書いた生の原稿だ。ページの隅々にインクの汚れがある。
「来栖宮が書いたのか?」
まさか……そんな風には見えねえ。そもそも漫画なんぞ読むのかすら分からねえ。
あいにく、今おれが手にしているのは物語の一部分の原稿のようだ。前も後ろも切れているから話の大筋がわからない。ただ、察するに内容は高校を舞台にした恋愛ものだ。
それにしても絵が上手い。話が分からずとも、登場人物の一コマ一コマの表情を眺めているだけで楽しい。省略すべきところは簡素に描き、しかし決して粗末ではない。大ゴマではごまかしのない筆遣いで堂々と人物の姿を描いている。
「なにを見ているのよ!」
切羽詰まった声がして、おれは漫画を読むのを中断した。
声のした方に首を向けたとき、来栖宮はすでにおれの眼前にまで迫っていた。