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死体はつらいよ ④

「これがソバ……たまに見るけどこんなに本格的なのは初めて食べるわ」


 来栖宮はそう呟いて、おれの手元に目を向けた。おれの出方を伺っているらしい。

 薬味をすべて汁に入れて軽く混ぜる。あとはもう好きに蕎麦を啜ればいい。

 おれがずるずると蕎麦を手繰り始めると、来栖宮はおれのした通りの手順で蕎麦を喰う準備を整えた。しかしどうやらおれがするように蕎麦をすすることは気が咎めるらしく、彼女は音も立てずに蕎麦を口に運ぶ。


「……素朴な味ね」

「不味そうに喰うんじゃねえよ」

「なによ。あなたみたいに音を立てて下品に食べろってわけ?」

「蕎麦ってのは喉で喰うんだよ。てめぇみてえにもごもご口に含むもんじゃねえ」

「人の食べ方に文句をつけないでちょうだい」

「けっ……勝手にしやがれ」


 やはりこの女とは反りが合わねえ。さっさと飯を食ってこの女と決着をつけよう。

 そんなことを考えつつも、蕎麦が旨いことに変わりはない。構わずにずるずると蕎麦を啜っていると、対面から控えめなずずっ……ずずっ……という音が聞こえてくる。

 ちらりと視線をよこしてみると、来栖宮が蕎麦を啜ろうと努力しているところだった。ときどきせき込んだり、ワサビに悶絶したりしている。せわしない奴だ。


「……なによ。じろじろ見ないで」

「見てねえやい」

「……」

「……」


 そして二人の人間がずるずると蕎麦を啜る音だけが響く。

 これは……これはどういう状況だ?

 なぜだか急に頭が冷えて、おれは改めてこの状況を分析しようという気持ちになった。

 冷静に考えたら果し合いのわけがねえじゃねえか。立て続けに起きていた怪現象のせいでおれはどうかしちまっていたらしい。

 では、果し合いではないとしたら、なぜおれはこの女と向かい合って蕎麦をすすっているんだ?

 氷の姫君がどういうわけでおれと渋谷で待ち合わせることになる?

 あのとき、おれは一体なにを言ってこの女を渋谷に誘いだしたんだ?


「……」


 今更聞けねえ……

 気持ち悪さは拭えないが、『あの時なんて言ったんだっけ』などと聞けるわけもない。おれは黙々と蕎麦に向き合った。



 その後は蕎麦湯を呑むかの呑まないかでかなり揉めたが、勘定はおれが持つことにして店を出ることにした。初めて訪れた蕎麦屋だったが、中々の仕事だった。また来ることもあるだろう。


「便所寄ってくらあ。外で待ってろぃ」

「最低」


 そう吐き捨てると来栖宮は店の表へ消えた。口の悪い女だ。

 店のトイレで用を足しながら、おれはこの後の展開を考えていた。

 奇妙な事態になっちまった。これが果し合いでないとしたら、この後どうするのかをおれは全く考えていない。このまま帰るか? しかしどうもそういう雰囲気でもねえような気がする……

 悩んでいても小便が切れればもう便所をでなくちゃなんねえ。あまり来栖宮を外で待たせるわけにもいくまい。

 どうしたらいいものかと考えながら店を出れば、来栖宮がいない。


「あの野郎。先に帰りやがったな?」


 なんて女だ。だが、これでこの後のことを悩まずに済む。おれもさっさと帰って風呂掃除でもしよう。おふくろが働きに出て忙しいから、家事はおれと順風で分担しているのだ。

 ポケットに手を突っ込んでガランゴロンと歩き出すと、蕎麦屋の横の誰も寄り付かないような汚くて狭い路地に人が群がっているのがちらりと視界に映った。

 いかがわしい取引でもしているのかと目を向けてみると、そこにいたのは来栖宮だった。派手な格好の男に迫られている。


「いるじゃねえか」


 帰るところだったぜ。こんなわずかな時間で男を寄せ付けちまうなんて蛍光灯みてえな女だなと思って近付いていくと、来栖宮がおれに気付いて首をわずかにおれに向けた。

『氷の姫君』の顔だった。


「おい。そんなとこで待ってろなんて言ってねえぜ」


 ずんずんと近付いて行くと、来栖宮と話していた男もおれに気が付いたようだ。鼻と耳に輪っかを通して牛みてえな男だった。髪の毛の色が部分部分で違っていてそれはそれで孔雀みてえに綺麗だ。

 蛾だか牛だか孔雀だかわかんねえな……などと考えているおれを見て、男共は直前まで顔に浮かべていたいやらしい笑みを消して露骨に嫌そうな顔をした。


「なんだよ、男いんのかよ。萎えたわ」


 そんなことを口にして、男が来栖宮から離れていく。

 やはりナンパが目的のようだった。来栖宮に声を掛けるとは恐れを知らない奴だ。己に対する自信だけは見上げたものである。

 男とすれ違うと、きつい香水の匂いがした。

 さておき、そんなことはどうでもいい。この後どうするかが大事だ。来栖宮がどうしたいかを聞いてみるか――


「やっぱガイジンってビッチなんだな」


 と、男がそんなことを言った。


「清楚そうな服着てんじゃねえよ」


 この上なく直接的な侮蔑を受けてもなお、来栖宮は冷たい表情を保ったまま、その場を動こうとしなかった。

 男は路地の出口へ進んでいく。


「……おい。なんか言い返せよ」

「関わるだけ無駄よ。行きましょう」


 なんでもないような余裕を見せて、来栖宮はそう言った。


「……」



 右拳は正確に顔面の中心を捉え、鼻軟骨がひしゃげる感触と共に生暖かい血が拳に付着した。


「ちょ、ちょっと! なにしてんのよ!」

「すっこんでろぃ! おれの喧嘩だ!」


 油の浮いた水たまりに頭から突っ込んだ男を引き上げて殴ろうとしていると来栖宮がおれの左腕を抱え込んだ。


「みっともないわよ喧嘩なんて! やめてちょうだい!」

「みっともねえのはてめぇだ! 言われっぱなしで突っ立てんじゃねえ!」


 来栖宮を睨むと、彼女は余計に強く睨み返してきた。


「ばかね! 女が男に手出してどうなるか予想できないの?」

「馬鹿もてめぇだ! 今はおれがいんでぃ! 邪魔すんじゃねえ!」


 来栖宮を振りほどこうとするが、やけに力ずくでしがみついてくるから上手くいかない。


「てやんでぃ! 顔面の『凸』を全部『凹』にしてやる!」


 もう来栖宮ごと引きずってでも喧嘩を続けてやろうと思って路地の出口の方に向き直ってみると、ぶっ倒れていた男の姿がなかった。


「野郎! どこ行きやがった!」

「とっくに逃げたわよ!」

「逃がさねえ!」


 追いかけてもう二、三発殴ってやらねえと気が済まねえ。

 おれの腕を抱えたままの来栖宮を引きずろうとしたその瞬間、来栖宮の抑えが急にゆるくなっておれはつんのめった。

 ついに来栖宮もやる気になったかと振り返れば、来栖宮が目を丸くしておれのことを見ている。

 よく見れば、彼女はおれの左腕を抱えたままだ。

 腕と言っても肘から先だけだが……


「……」

「……」

「…………」

「…………」


 来栖宮はおれと『おれの腕』を交互に見比べて、自分の頬をつねって、それからもう一度おれと腕を見比べて、それから満を持して悲鳴を上げた。



「騒ぐんじゃねえ! 人が集まってきちまうだろうが!」

「い、いやあああッ! 来ないで! 来ないでよ!」


 パニックを起こす来栖宮の口を押えると、おれは彼女が大事そうに抱えている肘から先の腕を、自分の上腕の断面にくっつけた。それだけで左腕は元通りだ。何遍やっても不思議だな。

 もごもご……! とおれに口を押えられたまま抵抗する来栖宮をどうしようかと思っていると路地の上の狭い空からポツポツと雨が降って来た。これ以上空は雲の重みに耐えられないようで、雨粒は大きさを増し、雨の勢いは猛然と強くなる。


「本降りだな。おれぁ傘持って来てねえんだ。今日は帰るぜ」


 丁度いい口実ができたので来栖宮の口から手を離すと、おれはさっさと路地の出口に足を向けた。


「ぷはっ……! げほげほ……待って……待ちなさい!」


 背後から来栖宮の切迫した声がして、おれは振り返った。


「なんでぃ……濡れちまうから早く帰りやがれ」

「このまま帰すわけないでしょう!?」


 そう怒鳴ると、来栖宮は眉間に皺寄せたままおれに告げた。


「家が近いの。ちょっと寄って行きなさい」


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