紫苑の放課後(番外編①)
注: 今回は番外編です。キアラン、ウルフ(14歳)グレッグ、ムーア(11〜12歳)頃のお話です。
キアラン・オ・ニールにとって一番苦手なのは騒がしいタイプの女だった。
「キアラン、ウルフから聴いてる?」
エドナ・カーヴァーが仁王立ちになって通学路に待ち構えていた。エドナは大きくて溢れそうな若草色の瞳に赤毛のショートがいかにも活発そうな印象の少女だった。キアランが最も苦手とする同級生だった。
「…。」
こいつに関ると、いつも面倒臭いことになる、と、キアランは思った。せっかくセカンダリースクールに進学して男女別になり、教室で会うことも無くなったというのに、毎日この道で会う。しかも、今日はウルフがバスケを朝練習したいから、と先に行ってしまったので、キアランにとって天敵が正面からサシで向かってきたようなものだった。
「あっ、今 面倒臭い、って思ったでしょ。」
丁寧に無視を決め込んでいたら、エドナがキアランのすぐ近くに立ち塞がり、下から見上げた。
「どけよ。」
エドナを右手で押しのけ、さくさくと歩き出すと、エドナも負けずに大股の早足でとなりを歩き始めた。それでも歩くのが早いキアランに段々と距離を空けられた時、ちょうどプロテスタント居住区に面する道に差し掛かった。息を切らしながら一息ついていると、フェンスの切れ目からフッとこの地区の制服を着た男が出てきた。
「カトリックの女か。」
そう言いエドナの腕を掴んできた。エドナが振り払おうとした時、男が急に動きを止めた。キアランがいつのまにか戻ってきていて、男のもう片方の腕を捻じ上げていた。男は苦痛に顔をしかめ、エドナを掴んだ手を離した。その隙にキアランは彼女の手を引っ張り、引き寄せて走らせた。
振り向かずに走って、男の罵声が届かなくなった場所で、息を切らせながらエドナが言った。
「ありがとう。助かったわ。」
最近この地区ではトラブルが多発していた。この先にプライマリー・スクールがあるのだが、カトリック居住区に住む子達がプロテスタント居住区に面した通学路で罵声や暴行を受けることが後を絶たなかった。プライマリー・スクールの登校時間には親が付き添っている場合も多かったが、今日は遅い時間で人もまばらだった。
「もっと早い時間に登校しろよ。ウルフは今週から早く登校してるぞ。」
キアランは顔を見ることなく無表情でまた歩き出した。彼には見えていなかったが、エドナの顔は真っ赤だった。
「別に…私がいつ登校しようと自由じゃない。」
口をとんがらせてエドナも歩き始めたが、先ほどと違って程よい距離なのに気づいた。キアランが黙って歩調を合わせているのが分かって、エドナはニヤニヤと笑顔になってしまった。
「わたし、キアランのお父さんの道場に通おうかな。」
キアランの父は昔 ボランティアで空手教室を開いていた近くに住む日本人に習い、今では地域の子供たちに護身術を教えていた。
キアランは黙ったままチラリとエドナを見たが、女子部の門の先を立ち止まらずに歩いて男子部の方へ歩いて行っしまった。
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「あいつにそんな小手先は通用しないって。」
ウルフはバスケットボールを指の先に乗せ、クルクル回しながらエドナに言った。エドナは共用バスケットボール・コートのフェンスにもたれてため息をついた。ウルフに気を使わせて、朝 早く出るようにしてもらったのに、キアランと交わした言葉は数語…。
「前から言ってるだろ。ムリにあいつのドアを叩く奴は、視界からも抹殺されるからな。」
そう言うと、タンタンと2回ドリブルをして狙いを定め、センターからシュートした。ボールは綺麗な弧を描き、ネットに吸い込まれていった。
「まぁ、俺としてはそんな無謀な試みを繰り返すお前を見てるのも、面白いけど。」
再びボールを手にしたウルフはそれをポスッとエドナにパスした。エドナは右手でヨタヨタしながら乱暴にボールをウルフに投げつけた。
「キアランに好意を抱く女の子は沢山いたけど、剣もほろろに玉砕していったからな。いや、強いなぁ、お前。」
ウルフはワハハと大声で笑った。
「もうっ!バカにしてる?」
「いや。いいんじゃない。ドアぶち壊しちゃえば。俺には出来ないからさ。期待してる。」
と、ウルフがウインクした時、キアランがフェンスの外を通りかかった。
「おい、キア 少しやろうぜ。」
ウルフが左手に持ったボールを指差すとキアランは立ち止まったが、エドナを見て動きが変わった。
「あ、今 余計なこと考えたな。」
先ず うるさい奴がいる、ということと、この二人の邪魔か…ということ。
「おれはこいつに全くオンナを感じないから、勘違いするな。たまたま、話してただけ。」
ウルフはプライマリー・スクール(小学校)で同級生だった女の子の中で、唯一エドナには気を使わない相手だった。
「…同感だ…。」
「ち、ちょっと!なんなのそれ!!」
二人は左胸を右手の拳でトントンと2回叩き、その右腕をお互いの腕にクロスさせた。これは彼らの独特なサインだった。そして、エドナがいることを忘れ、二人でバスケを始めてしまった。
「あ〜あ…。」
エドナは二人が飽きるまでそれをずっと見ていた。
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ウルフたちと別れたのはすっかり辺りが暗くなった頃だった。小さな家のドアを開けると、ゼルダが走ってきて足に抱きついた。
「おにいちゃん、おかえり。」
キアランはしゃがんでゼルダを抱き上げると、頭をクシャッとなでた。
「かあさんは?」
「今日は調子が良くなくて、おやすみしてるの。」
「とうさんは?」
「まだ かえってない。」
「…ごめんな、遅くなって。」
ゼルダはニコッと微笑むと、キアランの首にしがみついた。
「かあさんがね、温めて食べてねって。」
「そっか、じゃあ食べような。」
キアランはゼルダを降ろすとジャケットを脱いでハンガーに掛け、腕まくりをしてキッチンに向かった。キッチンにはチキンソテー、ビーンズスープ、温野菜がちゃんと用意されていた。食品を温め直してテーブルに並べると、ゼルダにお祈りをしてから先に食べるように言い、母が休む寝室に行った。
「かあさん、起きれる?」
「…キアラン、帰ったのね。私のことはいいから、早く食べて道場に行きなさい。」
薄暗いベッドルームにぼんやりしたライトが当たっていた。母の顔が余計小さく、菫色の瞳ばかりが大きく見えた。ここ最近、寝込むことが度々あった。
「…今日は行かない。」
「どうして。お父さん、悲しむわ。」
すると、玄関からドアを開閉する音がして、父が帰ってきた。父は小さい印刷会社に勤めていたが、夜は空手の道場で子供から大人までを教えていた。アシュレイ・オ・ニールはシルバーの混じる黒髪に鋭い目つき、精悍な顔立ちの厳しい男だった。
寝室に入ってくると、スーツを脱いでラフな服装に着替え、寝室の入り口付近にいるキアランをチラッと見た。
「何をしている。早く着替えろ。」
「…今日は、行かない。」
キアランは父を見ずに言った。父は有無を言わさず、キアランの腕を掴もうとしたが、キアランがそれを拒んだ。
「行かない。」
キアランは父を睨んだ。しかし、父は何事も無かったようにキアランの腕を掴み、外に連れ出した。
「あなた、やめて。嫌がってるわ。」
母が玄関口まで追いかけて来た。ゼルダは不安そうにその裏に立っていた。父は動きを止めたが、キアランの目をジッと見た。キアランは母とゼルダの心配そうな顔を見て、これ以上ゴネるのは得策ではないと判断した。父の手を振りほどき、乱れた制服のワイシャツの襟を直した。
「分かった。行くから。」
そう言うと、部屋に戻り支度をして再び玄関口まで出てきた。
「行ってくる。」
見上げるゼルダの頭に手を置き、母を見た。二人はようやくホッとした顔を見せた。
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「そうとう鍛えられてたな。あれだけカタをやらされたら、上手くならざるおえない。」
マクギネス家の書斎の大きなデスク縁に浅く腰を乗せ、書物をパラパラと捲りながらウルフが言った。
「正拳突き300回、蹴り300回。僕なら死んじゃうね。」
グレッグが女の子のような可愛らしい顔を歪めてムーアに言った。
「すごいなぁ、キアラン。俺、キアランみたく強くなりたいな。」
ムーアが書斎の床に寝っ転がりながら大きな瞳をキラキラさせてキアランを見た。キアランは無表情で課題に取り組んでいた。
玄関のチャイムが鳴り、ウルフの母が誰かを招き入れたようだった。書斎をノックして入ってきたのは栗色の腰まで長い髪の女性だった。
「こんにちは。資料、お借りしていきますね。」
彼女はウルフに声をかけ、書棚に手をかけた。キアランたちにとっても何度かここで見かけたことのある女性だった。
ウルフは読んでいた本を持ったまま、その姿を見つめていた。書籍を取り出した彼女が扉から出て行っても、ずっと同じ方向を見たまま黙っていた。
「なるほどな。意外と分かりやすい。」
キアランがグレッグとムーアには聞こえないように呟いた。ウルフは我に返って振り向いた。
「え?なにが…」
「もしかして、自覚ないのか?」
「だから、なにが?」
キアランはフッと笑って課題に目を戻した。ウルフは不思議そうにキアランを見た。
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「長かったなぁ…。」
エドナは採血後のテープを剥がしながら呟いた。彼女は甲状腺に持病を持っていて、月に一度採血の上検査をしなくてはならなかった。両親は共働きで忙しく、採血の日は学校を休んで一人で病院に来ることが常だった。朝早く来ても病院ですらプロテスタントが優遇され、カトリック系住民は後回しになる。結局 何時間も待たされて、帰る頃には昼をとうに回っていた。エドナは会計待ちの椅子に座り、何気なく廊下の先を見た。
「あっ。」
エドナは廊下を歩いてくるキアランを見つけた。向こうは全く彼女に気付かず、その前を通り過ぎようとしていた。
ワイシャツの袖をピッと引っ張られて、キアランは振り返った。
「学校サボってお見舞いかな?病気には見えませんが〜。」
エドナに突っ込まれて、キアランはため息をついた。
「…またお前か…。」
「帰るとこ?」
「いや、まだ待ってる。」
「誰を?」
エドナが聞くと、キアランは黙り込んでしまった。
「お前こそ、病気には見えない。何してんだよ、学校サボって。」
「見えないかもしれないけど、持病があるのよ。甲状腺の。」
キアランは珍しく驚いた顔をした。何かを聞こうとした時、遠くから看護婦が呼ぶ声がした。
「エリシャ・オ・ニールさんのご家族の方、いらっしゃいますか?」
それでエドナはキアランが母の付き添いに来ているのであろうことを知った。キアランは何も言わずに呼ばれた方へ歩いて行った。
エドナが…「なかよし」風…