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エリンの大地に  作者: 倉崎りん
第一章 白い花
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にびいろのこころ

一幕で一番長いです…。挿絵が間に合わず、先ずは文のみを上げます。

「コミュニティーからの情報はやっぱり正確だったね。キアラン・オ・ニールは北の暫定派の中でもかなりの活動をしている。恐らく、先月ライアン担当相を狙撃したのも奴だといわれている。」


ワイシャツにネクタイ、眼鏡をかけた30代前後の青年が書類をパラパラとめくった。そこにはキアランのここ2~3か月の動向が、いくつかの写真と共に子細に書かれているようだった。


いつもと違い、スーツ姿のウルフは男が座っている大きなデスクの傍の窓枠に寄りかかり、外を見ながら大きくため息をついた。


「マクスチョフェインやオーブラディは、暫定派の中でも最も左寄りの思想だけど、彼らのもとキアラン・オ・ニールは行動派として冷徹に任務を遂行している。ナショナリスト(南北統一派)の中で、彼の名前は有名だよ。ついでに言うと、ユニオニスト(英連邦残留派)にも名が売れてきている。”黒きナイフ”としてね。」


長い沈黙が続き、ウルフはどんよりと曇った鈍色(にびいろ)の空を仰いだ。窓の外は広い庭になっており、その先に林があったが、視覚の中に何か光るものを感じ、カーテンを閉めた。そして、珍しくセットした髪をくしゃくしゃと左手で掻いた。


「ありがとうございます。」


そう言うと、デスクの男に右手を差し出した。男は少し笑顔を見せて、その手を握り返した。


「いや、君には恩があるからね。これくらいのことは大したことじゃないよ。それに、これからのぼくらの活動にも関わってくる。上手くいくといいね。」


「ええ…。」


「例の件は考えてくれたかい?」


「もう少し時間をくれますか。僕はもう退役したので…。」


「だからこそだよ。前向きに考えてくれ。きっと、彼にもいいきっかけになると思う。」


「…はい…。」


ウルフは扉の方に向かったが、振り返って男に言った。


「あの、もう少しデスクを後方に動かしたほうがいいですよ。北北西の方向に住居が見える。その位置は狙撃されやすい。祖国とはいえ、ここはあなたにとって危険な国だ。」


男は肩をすくめた。扉の前で待機していたスーツの男たちがその話を聞き、窓からの景色を確認してデスクを動かし始めた。扉が開けられ、ウルフはその部屋から出て行った。


先ほどの建物を出て、しばらく考え事をしながら歩いていた。すると、その地域のカトリック居住区に差し掛かった。この地区は昔からベルファストのカトリック居住区の中でも最も貧しく、最も荒廃している地域だった。家々は小さく、粗末で、壁には様々ないたずら描きが無数にあった。そこかしこにはゴミが散乱し、公共サービスも行き届いていないことがまざまざと分かる。そこを過ぎると、刑務所のようにそびえたつ壁があり、その上の飛来物を防ぐ鉄槍は鈍く光っていた。さらに壁を過ぎると、プロテスタント居住区に入った。先ほどとは打って変わってその豊かさがわかる住居の(たたず)まいがフェンス越しに見えて、ウルフは暗澹(あんたん)たる思いになった。


さらに歩いているとオフィス街にたどり着いた。数ブロック行ったところで、あるビルから腰まで長いストレートに栗色の髪の女性が出てきて、ウルフはドキッと立ち止まった。その女性が近づいてベルではないことが分かると、深く深呼吸した。そうだ、髪は切っていたな、と独り言ちた。そして、ふっと自分の唇に手を当てた。


「俺…あの頃と変わってないのかな…。」


幼稚で未熟な心をベルに見透かされた気がした。そして、更にこんな深刻な状況の中で、彼女のことを思い出してしまう自分に呆れた。ウルフはまた左手で頭をワサワサと掻いた。


「あー、もう、最悪だ俺。」


そう言うと、早足で"エリン"へと歩き始めた。


********************


「グレッグ、ゼルダ、ミアを見ててくれてありがとう。」


ウルフが衝立から顔を覗かせると、グレッグは開店準備にグラスを並べていた。


「ああ。なんにもしてないけどね。」


ゼルダはテーブルを拭いていた。


「ずーっと見えないお友だちと遊んでいたわ。」


フフッと笑いながら指差した先に、テーブル席の下からミアの足がのぞいていた。


「大学の先輩とは会えた?」


「うん、お陰様で。久々で緊張したけど。」


ウルフはフーッと一息吐くと、ネクタイをゆるめて椅子に座った。


「ゼルダ、そろそろ帰らないと、お客が入り始めるよ。」


グレッグが心配そうに言った。


「うん。大丈夫よ。今日は金曜日で忙しいでしょ。カウンターの中にいて洗い物でもしていれば、お客さんと接触することもないから…。」


「ああ…。」


グレッグは時計をチラッと見た。もう少しで5時になりそうだった。


「ここにいた方が安全かな…。」


そう彼が呟いた時、ムーアが地下から上がってきて、隠し扉を閉めた。


「おっ、ウルフ 来てたんだぁ。」


ムーアは少し元気が無さそうだった。


「キアランも下にいるのか?」


「え?いや…。」


ウルフがグレッグとムーアに尋ねると、二人は決まり悪そうにお茶を濁した。その時、「ズゥン!」と物凄い爆発音が少し遠くから聞こえてきた。ゼルダは怯えてしゃがみ込み、ミアはテーブルの下から這い出した。ウルフは目を見張ってこの聞き慣れた爆発音が何であるかを察知した。グレッグとムーアは時計を見て、お互いの目で合図した。


「5時ジャストだな。」


「ああ、巧くいったらしい。」


二人の会話を耳にしたウルフはグレッグとムーアの方を振り返った。


「まさか…」


そう言いかけた時、入口の鐘の音が盛大に鳴り響き、勢いよくキアランが入ってきた。


「祝砲だ。イギリスの手先の王立裁判所前を爆破した。」


「なんだって!}


ウルフは信じられないといった表情でキアランを見た。グレッグとムーアは気勢を上げ、手を叩きあって成功を喜んだ。。


「裁判所前に停めた車に爆弾を仕掛けた。お前の歓迎がわりだ。」


キアランは茫然としているウルフの肩をポンと叩いて通り過ぎた。


「グレッグ、急いで酒を出せ!」

 

「ああ!」


グレッグは酒を出し、ムーアはケルトの音楽を大音量で流し始めた。

ウルフは取り残され、立ち尽くしたまま、その顔は青ざめていた。”エリン”の外は救急車の音や人の叫び声、怒鳴り声やサイレンの音で騒がしくなっていた。そのうち、二人組の男が店内に入ってきた。


「おいおい、今の爆発音、王立裁判所の方だよな。」


「いいざまさ。イギリス野郎が。」


彼らをきっかけに続々と客が店内に入ってきた。多くが野次馬のようだった。


「今日は俺のおごりだ。さあ、飲んでくれよ!」


グレッグがグラスを高く掲げ盛大に叫ぶと、客の多くからどよめきが聞こえ、歓声と拍手に変わった。

店は客でごった返し、音楽とたばこの煙でむせ返るようだった。


キアランはそんな喧騒をよそに、カウンター席の端で静かにグラスを傾けていた。ウルフはそのキアランを少し離れた位置からずっと見ていた。しばらくして、黒ずくめの男が3人ほど店内に駆け込んできた。


「静かにしろ!」


中央の年配らしき男が叫んだが、誰の耳にも入っていない。一人の男が銃を取り出し、ワインの瓶が並んでいる棚めがけて発砲した。瓶は粉々に砕け、店内は一瞬にして静まった。


「キアラン・オ・ニールはいるか?」


男が声を張り、怒鳴った。店の客は顔を見合わせてざわざわしたが、誰も返事をしなかった。グレッグは音楽のボリュームを下げ、男たちに叫んだ。


「だれだい、そいつは。」


「とぼけるな!たった今、王立裁判所の一部が爆破された。オ・ニールの仕業だ!」


すると、ムーアが大げさに身振りを加えて言い出した。


「ああ、あの伝説の革命家、キアラン・オ・ニールか。そんな奴がこんなところにいるわけないでしょ。」


「…この辺りに逃げ込んだという情報はつかんでいるんだ!」


男たちはイライラとして客やムーアに銃口を向けた。グレッグはそれを見て大きな瓶をドンとカウンターに叩きつけた。


「おまわりさん、ここはパブですよ。ベルファスト中からお客は来ます。その、キアラン・オ・ニールとやらの顔はご存じで?」


グレッグの前に出て今度はムーアが叫んだ。


「それに旦那、ここいらはイギリス人の手先のあんたが出入りするような場所じゃない。テロ集団のIRAに八つ裂きにされもいいんですかい?」


グレッグが口笛を吹くと、客が足踏みでダンダンと抗議を始めた。さらに罵声が飛び、「出ていけ!」

というコールに変わった。男たちは身の危険を感じ、たじろいだ。


「いつか、尻尾を掴んでやるからな!」


男たちが店を出ていくと大きな歓声が上がり、賑やかな雰囲気が戻ってきた。カウンターの近くにいた二人の客が話していることが聞こえてきた。


「しかし、たいしたもんだな、キアラン・オ・ニールってやつは。あれだけ活動していながら、未だに面が割れていないんだからな。この間、ライアン担当相を殺ったのもやつだろう?」


「だがなぁ、その分とばっちりを受けるのは俺たちの方だ。この間だって市民が二人も犠牲になった。今日は恐らくそれ以上だ。」


その声はキアランにも、ウルフにも聞こえていた。キアランは相変わらず無表情で、ウルフはその後姿を凝視していた。ムーアが話をしている男たちの間に割って入った。


「なんだい、あんたたち、よそモンかい?」


「ああ…デリーから仕事を探してここのカトリック地区に移ってきたんだが…なんでだい?」


「キアランのことをよく知らないからさ。かのキアラン・オ・ニールってのは…」


大仰にムーアが語ろうとした時、グレッグがムーアの肩を掴んだ。


「…ムーア、よせ。」


ムーアは不服そうに引き下がった。男たちは訳が分からない様子だったが、片方の男は酒が回り顔を赤くして上機嫌に声をあげた。


「キアラン・オ・ニールのことはよく知らないが、俺はIRA支援派だ!よおし、今日はキアラン・オ・ニールに乾杯だ!!」


店の活気が戻り、笑う者、歌う者、それに野次を入れる者と、賑やかになってきた。その影でゼルダは青白い顔でカウンターの中にいた。先ほどの警官の銃声にパニックを起こしていたのだ。キアランは少しゼルダの様子がおかしいのに気づいていた。しかし、彼女が自力で落ち着こうとしているのを見て、黙って見守ろうとしていた。代わりにグレッグがゼルダに声を掛けた。


「ゼルダ、大丈夫かい?下で休んでおいで。」


「ううん、もう落ち着くから…」


「そうか…」


グレッグは心配そうに見ていたが、


「お〜い、ギネスを4本くれ!」


と、奥の客に声を掛けられ、瓶を開けて持って行った。ムーアは店に入ってきた顔見知りの男から何かを耳打ちされ、それをキアランに伝えようと話しかけた。


ゼルダは息苦しさを感じ、少し外の空気を吸おうと、カウンターの外に出た。その時、客の一人がゼルダに近づいてきた。


「なんだい、そんな端っこで。美人が台無しだ。向こうでパーッと騒ごうぜ!」


「あ、いえ、わたしは…」


ゼルダは恐怖で声が震えたが、酔っ払った客はお構いなしにゼルダの腕を掴んで引っ張った。


「キャーッ!」


店中にゼルダの叫び声が響き渡った。男はびっくりしてその手を離したが、ゼルダは床に崩折れ、自分の両肩をギュッと握りしめて叫んだ。


「やめて、触らないで!」


そして、ガタガタと震え始めた。キアランは走り寄ってゼルダに先ず声を掛けた。


「ゼルダ、ゼルダ!」


「お願い、殺さないで、いやぁ、とうさん、かあさん、助けて、助けてお兄ちゃん!!」


ゼルダは頭を抱えて叫び続けた。


「ゼルダ、俺はここだ!ゼルダ!」


ようやくキアランの声が耳に入り、涙でいっぱいの目でゼルダはキアランを見た。


「…あ…わたし…」


ゼルダが自分を取り戻してから、キアランは背中をさすって抱き寄せた。


「大丈夫、大丈夫だ…。」


腕を掴んだ客は驚いて尻餅をついてその光景を見ていた。店の中は、ゼルダの叫び声で呆気にとられていた。


「す、済まなかったね。」


そういうと、男はそそくさと帰って行った。店の客もその異様な光景にパラパラと帰り始め、客もまばらになってしまった。グレッグがゼルダに少し離れて話しかけた。


「下を使って、休んでおいで。」


ゼルダはこくりと頷いた。キアランはゼルダをサポートしようとして、一緒に立ち上がったが、ゼルダはキアランを押しのけて言った。


「大丈夫。一人で行けるから…。」


そして、地下へと消えて行った。


「すみません、いろいろあったので、今日はもう閉店にします。また来てください。」


残っていた客にグレッグが一人一人謝っていた。


店にはキアラン、ムーア、グレッグ、ウルフ、そして怯えてピアノの下に隠れてしまったミアのみになった。それぞれが離れた席に座っていたが、グレッグが最後の客を送り出し、カウンターの椅子に座ってため息をついた。


「早く…ゼルダのような子が、安心して暮らせる日がくれば…」


ムーアは(うつむ)いたまま、何度も(うなず)いた。


「そのためにも、次の計画は成功させなきゃな…。」


ムーアが呟くと、キアランが淡々と話し始めた。


「先日、密輸しようとした武器を押収されて以来、当分海外からの調達は難しくなるだろう。南側も自分たちの立場上、大っぴらに俺たちを支援することは(はばか)られる状況だ。アルスター警察の兵舎など、たかが知れてる。だとすると、やはりイギリス軍の武器庫襲撃しかない…。」


それを聴くと、ムーアがキアランに近づいて言った。


「そうだ、さっきの騒ぎで伝えそびれたんだけど、オーブラディから正式に指令が出た。一週間後にハイストリートの英軍の武器庫を襲撃だ。もうずっと準備してきたからな。(ようや)くだよ。地下のボイラー室に侵入して爆弾を仕掛け、揺動する。」


キアランはムーアとグレッグを鋭く見た。


「爆発と共に3方向から突入して、10分で撤退だ。素人は使うな。」


グレッグが(あご)に手を当てて言った。


「問題は、武器庫周辺の警備だ。午前3時に奇襲をかけたとしても、どれだけの犠牲を出すか…相手は警備といえどSASだからな。マクスチョフェインが以前密輸した武器M60機関銃は数が限られてる。カービン銃数丁で武器庫まで何分で突破できるか…。」


キアランがグレッグに向き直った


「運び屋も必要だ。むしろ疑われないように奴らに顔を知られていない素人で、土地勘のある…」


「顔を知られてなくて、土地勘のある…」


ムーアは両手を組んで考えていたが、フッとウルフに振り向き、近くに行った。


「そうだ、ウルフ!どうだ、俺たちに手を貸してくれないか、な?!」


ウルフはそれまで彼らの話を黙って聞いていたが、ムーアにそう言われて大きく息を吸い込み、ハッキリといった。


「-ー-俺は、人殺しの手伝いをするつもりはない。」


「何だと!」


ムーアはウルフに掴みかかった。すると、奥のカウンター席からゆっくりキアランが近づいて来て、ムーアを止めた。しかし、ウルフをキッと睨んだ。


「…人殺しは奴らの方だろう。忘れたのか?俺たちの歴史を…。あいつらは俺たちから土地を奪い、職を奪い、宗教を禁じ…虐殺を繰り返して来た。そして、この島は二つに切り裂かれ、俺たちは虫けら以下の扱いだ。」


キアランは冷たく言い放った。


「これは、正当防衛だ。英軍や、その犬たちに対する、抵抗だ。…子供の頃、俺たちは誓ったはずだ。いつか、この国を誰もが平等な国にするために、戦おうと!」


ウルフは(つと)めて冷静になろうとしていたが、キアランの強い眼差しに煽られた


「正当防衛という言葉は、体のいい殺人だ!」


ウルフはキアランの目を真っ直ぐ見て、訴えた。


「俺はこの国を出て、アメリカの市民権を取ってから、2年間兵役でベトナムにいた。民主主義を守るためというアメリカの正当防衛は、理想に(はや)る俺の心をズタズタにした…。市民を巻き込んでの戦闘、ベトコンの応酬…毎日毎日、それの繰り返しだ!」


「じゃあ、政治家が何をしてくれる!奴らは俺たちが殺されていくのを、指をくわえて見ているだけだ!ましてや、俺たちにはまともな投票権すらない。ゼルダがなぜあんなになったか、お前に分かるか?奴らは俺の親父がテロ行為をしたIRAを(かくま)っていただけで、裁判もせずに俺たちの両親を殺した!響き渡る銃声を聞きながら、真っ暗なクローゼットの中で、俺たちは奴らの靴音が遠のくまで震えていたんだ!その時の恐怖から、あいつは…。」


キアランは声を詰まらせた。その姿はウルフが見たこともないような感情的なキアランだった。それ以上にウルフはキアランとゼルダに起こったことを知り、愕然となったが、絞り出すように呟いた。


「だが、暴力じゃ何も解決しない。」


ウルフの言葉にそこに居る全てが静まり返った。長い沈黙の後、キアランが落ち着き払って言った。


「この作戦に参加しないのは、お前の自由だ。だが、俺たちを売るような真似はするな。」


ウルフは耳を疑った。兄弟のように育ってきた親友が、自分を信用できないと言うのだ。ウルフはキアランの目を訴えるように見た。


「俺は、そんな恥知らずじゃない。」


キアランはウルフの目を見た。お互いがその真意を探ろうとしていた。しかし、13年という距離がそれを阻んでいた。キアランは感情を抑え、目を逸らして店を後にした。ムーアも彼の後を追って出て行ってしまった。


グレッグは何も言わずに店の片付けをしにカウンターに戻った。様子を伺っていたミアがピアノの下から這い出てきて、ウルフに駆け寄った。その手にはいつものぬいぐるみと、絵本を持っていた。


「…ウルフ、アイルランドって、ウルフがくれたこの本と違うよ。なんだかここは悲しそうな人が多い。」


そう言うと、絵本をパラパラめくり始めた。


「この本にはね、アイルランドは妖精が住んでる不思議な国で、物語の中ではみんなが妖精とお話ししたり、イタズラされたり、とっても楽しそうなのに…。」


「…悲しそうか…。」


ウルフはしゃがんでミアに目線を合わせると、ミアの柔らかい髪にポンと手を置いた。


「ミア、このアイルランド島は昔 一つの国だったんだ。この物語に出てくるように、大昔は妖精の住む、緑の大地"エリン"と呼ばれたりしていた。」


「ところがイギリスがこの地を支配して、いろんな差別が生まれたんだ。もともと住んでいた人たちから土地を奪い、食料を奪い、宗教の違いから対立して、島に住む人たちの間に憎しみが生まれた…。」


「そして、島の人たちはイギリスから自分たちの手に、島を取り返そうとしたんだ。ところが、イギリスと仲のいい人たちは、イギリスがこの島から手を引いたら、仕返しをされるんじゃないかと恐れたんだ。」


「それで、イギリスと相談して、仲間が大勢いる土地だけをこの島から無理やり()ぎ取った。それがこの北アイルランドなんだ。」


ミアはヌイグルミをギュッと抱きしめてウルフに聞いた。


「じゃあ、イギリスと仲のいい人たちが悪いの?」


「…難しいね。彼らにも悪いところはあるけど、暴力を振るわれたり、振り返したり。もう どっちが被害者だか分からなくなってるんだ。」


「あの…キアランって人は、悪い人なの?」


ミアは少し遠慮がちに目を落として呟いた。ウルフにはそれがショックだった。今の状況を見て、小さいミアにはキアランがそう見えたということだから…


「違う…今は自分を見失ってるだけだ…。」


ウルフはミアの肩に手を置き、その目をジッとみて首を振った。カウンターの中で片付けをしながら聞いていたグレッグが、静かに口を開いた。


「…ウルフ、さっきの話には、続きがあるんだ…。」


グレッグは持っていたグラスを棚にコトリと置いた。言うべきか、悩んでいる様子ではあった。


「キアランたちの両親が殺された後、何年かして学校帰り、ゼルダがシャンキル・ストリートの連中に暴行されそうになった。直前にキアランが駆けつけて、大事には至らなかったんだけど、その時 まだ少年だったキアランは初めて人を殺したんだ…それ以来、ゼルダの発作は酷くなった。」


ウルフの顔は見る見る青ざめていった。彼らがここで過ごしてきた13年間に、ウルフの知らない過酷な日々があった。そして、ゼルダを暴行しようとしたのがシャンキル・ストリートの連中と聞いて、激しく胸が痛んだ。それは、ウルフにとっても、ことさらキアランにとっても忘れられない、(ほぞ)を噛むような苦い記憶を呼び起こした。


「その時、少年だったキアランをアルスター警察から(かくま)い、その度胸を買ったのがオーブラディだった。IRAは様々な教育を施して、キアランを一流のテロリストに仕立てたんだ。」


「俺やムーアはずっとキアランに憧れてきた。冷静で、IRAの上層部にすら一目置かれるほどの切れ者で…。この国の独立を望む若い連中なら、キアランの名前を知らない者はいない。そんな男を間近で見て育った俺たちは、当然のように活動を共にするようになった。だけど…最近、キアランのことがよく分からない時がある…。」


グレッグは深くため息をついた。


「まるで…生き急ぐように…そして それを自分で止められないかのように、無茶なことをする…。」


二人はそれきり言葉を失った。ミアはソファ席に座ったが、ジョンを抱えたまま うつらうつらし始めていた。そんな時、カタッと地下の扉が開いて、ゼルダが入ってきた。グレッグは気遣い、ゼルダに声をかけた。


「ゼルダ、大丈夫なのかい?」


「うん。しょっ中 仕事サボっていたら、せっかく私のためにお兄ちゃんがグレッグに頼み込んで働かせてもらってるのに、申し訳なくて。」


「いや、ゼルダがいてくれて、すごく助かってるよ。」


ゼルダはグレッグの優しさに笑顔を見せた。


「ありがとう。」


そう言うと、エプロンをかけて掃除を始めた。ウルフはその後ろ姿に思い切って声をかけた。


「あの…改めて、この間はごめん…事情を知らなくて…。俺、君たちに嫌なことを思い出させているんだな…。」


「いいの。知らなかったんだもん。仕方ないわ。」


ゼルダは切なくなるような笑顔をみせた。ウルフは言葉を継ぐことが出来ず、うつむいていた。ゼルダはそんなウルフを気遣って、話しかけた。


「わたしね、昔 ウルフに遊んでもらったこと、覚えてるわ。ウルフとお兄ちゃん、いつも一緒だったから、わたしも一生懸命その後をついて回ってた。」


懐かしさにウルフは遠くを見た。


「君は…まだプライマリースクールにすら入ってなかった。俺には兄弟がいなかったから、君やキアランは兄弟同然だった。」


「あの頃はすごく楽しかった。まだ小さかったから、差別だなんだって、分からなかったし。」


ゼルダはモップで床を拭いていたが、立ち止まり、ウルフと反対を見たきりうつむいてしまった。


「けど、あなたがベルファストを去って間もなく、この町は公民権運動で大きく揺れたの。デモや集会を開いただけで刑務所行きになったり、殺されたり…。」


「ある日、家にイギリス兵がやってきて、父さんは私たちに絶対クローゼットから出るなって言ったの。お兄ちゃんと二人で抱き合って震えて…。」


彼女はモップを落とし、両手で耳を塞いだ。


「…怖かった…真っ暗な中、銃声が何度も何度もして、とうさんも、かあさんも殺されたんだ、って…怖い、近寄らないで、殺さないで、見つからないで、って…!」


「ゼルダ!」


ウルフは居た堪れずに声を絞り出した。


「もう、いいよ…。」


ウルフの目から涙がこぼれ落ちた。これ以上、つらいことを思い出させたくなかった。あの、小さかったゼルダの経験したことが、あまりにも不憫でならなかった。ゼルダを誰よりも可愛がっていたキアランは、両親が亡くなった後、どんな気持ちで彼女と生きてきたのだろうか。全てがこの国で、ウルフのいなかったこの町で起きた現実だった。


「でもね、わたし、もっと大人になりたいの。このままじゃお兄ちゃんの重荷になるだけ。」


カウンター越しに聞いていたグレッグがゼルダを気遣った。


「キアランは そんなふうに思ってないよ。」


「そうじゃないの…。お兄ちゃんが人を殺すようになってしまったのは、紛れもなく私のせいだから…。お兄ちゃん、私が発作を起こす度、イギリスに対する憎しみを募らせてく…。本当はこんな戦い、疲れ切ってるはずなのに…。」


ゼルダの言葉はキアランの現状を彼女の目線で的確に(とら)えていた。ウルフは大きくため息をついた。


「本当は…誰もがそう思ってるんだ…。」


ウルフの脳裏には13年前、ここを出る日に交わした最後の会話が甦っていた。林檎の花がちらほらと舞っていたあの朝、心臓の上を二回叩き、腕をクロスして誓った。


「約束だ。絶対に帰ってこい。いつか、このベルファストに戻ってくるんだ。」


「ああ…その時には、この北アイルランドをカトリックも差別されない国にするために、一緒に戦おう。」


「そして、いつかこの島をもう一度一つにするんだ…。」


この後、しばらく番外編など、本編から少し離れた話が続きます。

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