琥珀の夕景
舞台版にはない部分です。
「お前の名前はね、ウルフ・トーンからもらったんだ。彼はフランス革命の"自由・平等・友愛"を標榜し、友愛の精神の下にプロテスタントとカトリックの融和をはかったんだ。」
民俗学者だった ウルフの父は、小さい頃から彼に"ウルフ"という名前の由来について、よく話してくれた。ウルフ・トーンは、アイルランド人でその名を知らぬ者はいない1790年代の活動家だった。ウルフの父はもちろんカトリック系住民の差別撤廃、南との統一を望んではいたが、過激な運動には否定的だった。
名前の話ばかりではない。アイルランドの神話や妖精たちの話、ケルトの風習やヨーロッパの歴史についても小さいウルフに分かりやすいよう、膝に乗せて沢山の本を見せてくれた。
だから、父の書斎はいつも出入り自由で、彼の友人たちにも開かれていた。
「久しぶりね、ウルフ。」
声をかけられた女性の方を見て、ウルフは一瞬 様々な記憶が蘇り、心臓が止まりそうになった。
スッキリした栗色でワンレングスのボブに深いグレーの印象深い瞳、タイトスカートにブラウス。いかにも仕事が出来そうな三十代半ばの女性がウルフに近づいてきた。
管財人と待ち合わせしていた場所に姿を現したのは父のかつての教え子で、ウルフがベルファストにいた頃によく父の書斎の書物を借りにきていた、ベルナデッドだった。
「ベル…。」
ウルフの顔を見たミアは、ウルフが初めて見せる戸惑いの表情を察知した。ウルフの腕にしがみ付き、不安げにベルを見た。
「あら、いくつ?子供がいるのね。」
ベルは身構えているミアの心にスッと入り込むような、意外な笑顔を見せた。
「ちがうよ。俺の子ではないんだ。事情があって、生前 親父が養父となったから、形上は俺の兄弟かな。」
「そう…。お父さま、残念だったわね。」
「長い間、患っていたから…。君こそ、結婚したんだね。」
ウルフはベルの左手の薬指を指差して言った。
「ええ。子供も二人いるのよ。あなた達がベルファストを去ってすぐ、学生結婚したの。で、子育てしながら弁護士の資格を取ったのよ。」
見た目の印象より柔らかい話し方をするんだな、とミアは思った。ウルフは先ほどよりも緊張が溶けたようだった。
「民俗学の学位は取らなかったんだ。」
ウルフが意外そうに聞くと、ベルはあっさりと応えた。
「民俗学なんて、学者になって生活して行ける人はほんの一握りでしょ。あなたのお父さまくらい優秀じゃなきゃ、どこの大学だって引きはこないわ。」
そういうと、カツカツと歩き始めた。
「どこへ行くんだい?」
そう聞かれて、ベルは振り返った。
「あなたのフラットよ。昔のままにしてあるわ。申し遅れました。わたくし、今日からあなたの担当管財人、ベルナデッド・デ・ロウリィンです。」
ウルフはびっくりしすぎて一瞬 言葉を失った。
「……君には、昔から振り回されてばかりだな。」
ベルは悪戯っぽい笑顔を見せて先を急いだ。
生まれ育ったフラットに足を踏み入れるのは、13年ぶりだった。少し埃っぽかったが、比較的綺麗で、すぐに使えそうだった。特に書斎だけはほぼ当時のままだった。
「先月まで他に住人がいたのよ。13年間、ほぼ絶えることなく入居者がいて…。でも、書斎だけはそのままにして欲しいと、あなたのお父さまが生前ずっと望まれていたから、その条件を満たしてくれる人にだけ貸出していたのね…。」
「父が…この部屋を処分していなかったこと、半年前に手紙が届くまで知らなかったんだ。」
「売るの?」
ウルフは首を振って、静かに答えた。
「いや、まだ考え中。相続したものといえばここくらいなんだけど、俺はもうアメリカに帰化してるからね。しかも 一か所にずっといる生活は、今は難しいんだ。」
ミアはフラットの中をチョロチョロと探検して回っていた。ここには家具も備え付けられ、ウルフが住んでいた頃に使っていたものもあれば、知らない家具もあった。
「みて、この部屋、カワイイベッドがある!」
子供用であろうシングルサイズベッドの木枠は紺色で、月や星、土星や木星が手描きで描かれていた。
「お袋が、描いてくれたんだ。天文学の研究員だったお袋は、俺に毎晩ここに描いた天体の話をしてくれた。」
ウルフがミアの頭を撫でながら言った。
「ベル、売却の話は少し待ってくれないか。しばらく俺たちはベルファストにいることになるから、ここを使うよ。」
「わかったわ。じゃあ、一週間くらいで入居できるように、イロイロ手配しておく。」
そんな話をしている時、
「ぐ〜。」
と、お腹の音がした。
「えへへ。お腹空いちゃった。」
ミアが恥ずかしそうに呟いた。
「そう、じゃあご飯食べに行きましょう!」
ベルがミアの手を取って、満面の笑顔で歩き始めた。
ウルフは頭を掻きながら、仕方ないなぁという顔をして、二人に続いた。
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「ぐっすり寝てるわね。遊び疲れたのかしら。」
ベルはウルフに背負われたミアを笑顔で眺めた。ウルフはミアをホテルのベッドに下ろし、毛布を掛けた。
食事の後、噴水のある広場に出たら、仔犬を二匹連れた老人がいた。周りには同じくらいの歳の子が2〜3人いて、あっと言う間に追いかけっこが始まった。走って、走って、笑って、子供達を見ていると、紛争なんてどこにもないように感じられた。
ウルフが笑顔で寝ているミアの髪を撫でているのを見ながら、ベルは呟いた。
「まるで、父親ね。」
「そうかな…俺はまだ家庭も持ったことないから。」
それを聞いたベルは暫く黙ってウルフを眺めていたが、一つため息をついて明るく言った。
「じゃあ、帰るわ。うちも義母に子供達を見てもらってるし。」
後ろ手に手をふって、出口に向かった。
「今日はありがとう。」
ウルフはベルの後ろ姿に言った。しかし、扉の前でベルがガチャガチャとノブを回し始めた。
「やだ、開かない。どうしよう…」
「え?どれ…」
ウルフが扉に近づき、何気なく左手を覗き穴に置いて右手をノブに伸ばした時、素早くベルが振り返ってウルフの目を見た。ウルフは本能的に"マズイ"と思ったが、一瞬にしてベルは右手をウルフの左頬に伸ばし、ウルフも吸い込まれるように彼女と唇を合わせた。何回も、何回も。しかし、振り切るようにベルから体を離すと、小さく言った。
「帰ってくれ…。」
ベルは目を逸らしたままのウルフをジッと見ていたが、無言ですんなりと扉を開けて出て行った。
ウルフはその扉の前で、膝から崩折れた。心臓の音が身体中から聞こえてくるようだった。震えが止まらない。右手でギュッと左の腕を掴んだ。自分のことが、許せなかった。