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エリンの大地に  作者: 倉崎りん
第四章 光の渦
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ほのいろのはなびら

 もともと荷物は殆ど置いてなかったが、いざここを去るとなるとこのフラットの隅から隅まで見て歩いた。


 「血の日曜日」と言われたあの日からここを出る今日まで、結局なにかと後処理があり、春になってしまった。


 書斎のドアを開けると、父のデスクの後ろにある窓に花びらのようなものがひらひらと散っていた。


 ウルフは無意識に自分の頬に伝ったものに驚いた。


「…もう、二度とここに戻ってくることもないかな…」


 それを拭いながら小さく呟いた。


ウルフがキアランを撃ったあの日、程なくして軍が突入してきた。ウルフは連行されたが、アメリカ国籍であったことと、ブラーニーの働きによりすぐに釈放された。それから数日間は何も喉を通らなかった。夜は眠れず、うとうとすると悪夢にうなされ目を覚ます。頬はこけ、瞳から生気が失われていた。ミアがいなければ、恐らくそのまま朽ちてしまったのでは、というほどダメージを受けていた。しばらく経ったころ、ふとミアが笑わなくなっていることに気づいた。そして、食事もウルフと同じように取らなくなり、どんどん痩せていった。


 このままではミアにも影響が出てしまう・・・そう感じてこのベルファストを去る決断をし、このフラットを処理するためにベルと電話で話した。


「そこを買い取るオーナーが、退去の日に鍵を取りに行くから。渡しておいてね。」


 全ての手続きはベルに任せた。書類から何から事務所に出向いて契約書にサインをしたりしたが、お互い話したいことはあるはずなのに、「血の日曜日」以降のことを思うと、自分たちの話をする気にはなれなかった。


「俺は、結局 この国にいてはいけないんだろうな…」


 忘れ物がないか書斎のデスク中を確認していき、一番下の引き出しを何気なくあけた時、そこに母が大事にしていた、あの茶色い皮の箱が置いてあることに気がついた。


「あれ?なんでこんなところに…」


 一年近くここに居て、初めてその存在に気付いた。上の方の引き出しには何も入っていなかったので、一度も下の方の引き出しは開けたことがなかった。


 ウルフはその箱を取り出すと、その蓋をそっと開けた。そこには父の字でウルフに宛てた封筒が置かれていた。彼は封筒から手紙を取り出した。


「ウルフ、君がこの手紙を読んでいるということは、きっと僕はもうこの世に居ないのだろうね。君が知っている通り、君と僕は血は繋がっていない。だけど、僕は誰よりも君を愛しているから、僕の息子と呼ぶことを許して欲しい。


 このフラットは僕にとっても君にとっても大事な思い出だ。だからずっとこの国を出ても、友人の法律事務所で管理してもらっていた。


 でもね、もう僕の命も幾ばくしかないと知って、不動産の相続に関して友人の事務所に国際電話をかけたんだ。そして、偶然 その法律事務所で働き始めたベルナデットが電話に出た。


 僕はずっと君たち二人を引き裂いてしまったと、心の片隅で後ろめたい気持ちを持ち続けていた。でも、君の父親として、見る姿もないほど傷ついて打ちのめされた君を、その時は新天地でやり直させたかった。自分の息子のことしか考えていなかった。ベルナデッドにとって許されざる存在の僕に、彼女は徐々に僕たちが去った後のことを話してくれた。


 彼のことを 君には負担にしたくないので話さないでくれ、と彼女は懇願してきた。それが、ベルナデッドと僕の約束だったのだけれど、僕がいなくなったこの世界で 彼の存在はいっかきっと、君の力になる。


 結局、僕は単なる親バカなのだ。


 この手紙をベルナデッドに託す。


 ウルフ、愛する人と共に生きなさい。自分を(ゆる)すんだ。過去は過去でしかない。これからを大事にするのだよ。」


 ウルフは父の手紙を読み "彼"というのは誰なのか、と(いぶか)しんだ。

その時 玄関のチャイムが鳴り、ウルフは書斎を出て玄関ドアを開け、言葉を失った。


 そこには 林檎の花びらが舞う中、14年前の自分がいた。制服姿もそのままに…違うところといえば、少し幼いことと、髪が栗色のストレートだというところだった。


「あの…母からここの鍵を受け取るように言われてきたんですけど…これを、渡すように言われて…」


 彼が差し出した紙片を開くと、ベルの字でこう書かれていた。


「I'm a liar.」


 ウルフの両の目が潤んだ。ベルは、この14年間をどうやって生きてきたのだろうか。この子を抱えて…


「あれ?ウルフ?え?」


 ミアが後ろから戸口の外にいる少年を見て、不思議そうな声を上げた。


「…名前は?」


 ウルフは目を細めて彼に尋ねた。


「レオンハルト…」


 名乗りながら差し出された右手を引き寄せ、ウルフは彼を抱きしめた。レオンはビックリしていたが、狼狽(うろたえ)て動くことが出来なかった。


「ベルに、伝えてくれ。必ず、戻ってくると。」


 ウルフは去っていった彼らの面影を、遠くの空に見た気がした。そして 彼らと、自分に言い聞かせるように呟いた。


「この、エリンの大地に…」



             


                       完






「主役があんまり喋らない話がいい」


当時、劇団(といってもほぼ全員素人)の代表だった原案者が放った私への希望でした。

そこから代表の訪れたことのある国(北アイルランドではなかったが)、アイルランドを舞台にした群像劇にしよう、と話は進み、私は図書館に通いながら構成を練っては代表と打ち合わせをしていました。


舞台版は人数及び時間の都合上、小説版ほどの登場人物や彼らの過去は描けず、キャラクター設定の段階で頭に浮かんでいた背景を役者に伝えつつ、その世界を紡いでいきました。


小説版のクライマックスに至っては、舞台版をご覧になったという貴重なお客様にはお分かりかと思いますが、かなり違っています。

ウルフがキアランを撃った後、小説版では間もなく軍の特殊部隊が『エリン』に突入し、キアランからウルフを引きはがしていく。

しかし、舞台版ではウルフはキアランが息を引き取った後、自らの銃で自殺しようとします。ところが、居なくなった者たちの過去の叫び、そしてミアの存在により思い直して立ち上がる・・・。


そこは、もちろん舞台を創る上での見せ方の違いが大きいのです。もちろん、連行された後、ウルフは同じような状況になっていたかもしれない。でも、原案者とも話したのですが、やはりウルフは死なないであろう、という結論に達しました。キアランは強そうでいて実は心が脆い。繊細で、それを鉄壁で隠しながら生きてきた。しかし、ウルフは真逆。いくつもの困難をくぐりぬけ、強くなっていく。だから、きっと乗り越えて生きていく。「強く、逞しいレオンの子」なのです。


反面、実はキアランがあまりに可哀想で、彼を生かす話も考えました。死んだと思われていたが息があり、ブラーニーによって南に搬送され、エドナと再会して過去を捨て、生きていく・・・。しかし、原案者から「キアランは殺してほしい」という希望があり、断念しました。キアランにとっては、もう死んで楽になりたい・・・と思っているそうなんです。本人談なので、天国に行ってもらいました(笑)。


今回残念でならないのは、ウルフが最終的にキアランを撃つ最大の要因でもあった、ベトナム戦争従軍経験を書けなかったことです。時間の関係もあり、そこまで書き込んでいたら終われない・・・ということで、「完」とはなっていますが、そのうち付け足すかもしれません。ま、趣味だしね。アイリスの過去も書ききれてないし、グレッグの親の話も・・・。ライフワークとして書く日が来るかもしれません。


さらに言ってしまうと・・・今回、アイルランドを舞台としていますが、どうしても実在の国を舞台にした場合、時代考証などに縛られて、展開が制約されてしまうため、架空の国の物語(「進撃の巨人」みたいな?しらんけど)にしようという提案もありました。いつか、これは実現してみたいです。


最後に、上演当時、正に北アイルランド紛争を終わらせるための和平協定が締結されたばかりでした。

舞台の最後に緞帳が下りた後、その字幕を入れたのを覚えています。

その後、巨額の赤字を出したものの、北アイルランドは経済的発展を遂げ、紛争は影を潜めました。

以前書いた小説の書き出しは、年老いたウルフがこの和平協定に尽力し、「キアラン、やっと約束が実現できたぞ・・・」と呟くシーンでした。ボツにしたけど。


さて、現在。これを書いている2025年1月、ウクライナとロシアの戦争、イスラエルとハマスの紛争、シリアの内戦、ミャンマーの内戦・・・数えきれないほどの争いが世界を騒がしくしています。

憎しみの連鎖を断ち切れる日が訪れることを、切に願って「エリンの大地へ」に一旦幕を下ろします。


では、またね!





倉崎りん

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