明日の色
キアランは琥珀色の液体が入ったグラスをカウンターの向こうの光にかざしてその反射をじっと見つめた。いつもその先でグラスを磨いていたグレッグの姿がフッと心によぎった。虚ろな目には小さいころにこのパブで走り回っていたグレッグとムーアの姿や、ウルフがこの地を去る前日に二人で初めて酒を飲んだ横顔、父親たちがこのカウンターで賑やかに酒を酌み交わしていた光景が次から次へと映っては消えて行った。
「おい、居るんだろ。顔をだせ・・・。」
キアランは抑揚のない声でつぶやいた。
「えっ!初めてだな、きみから話しかけてくるなんて・・・!」
緑色の尖った帽子がひょっこりカウンターの一番端からのぞいた。
「・・・ああ・・・明日は一日中、晴天かもしれないな・・・。」
キアランは自嘲的に言った。
「ほんとだよ!」
レプラコーンはケラケラと笑ったが、キアランはそんなレプラに一瞥もせず、じっとグラスの中の揺れる液体と光を見たままぽつぽつと問いかけた。
「・・・なあ、教えてくれ・・・お前から見ると、人間は愚かな生き物なのか?憎しみあったり、殺し合ったり・・・どうしようもない歯車に、がんじがらめになって死んでいく・・・つまらない生き物なのか・・・?」
レプラはカウンターの端にひじをついてうすぼんやりとしたペンダントライトを眺めながら、人間の心を見透かし、あざ笑うように鼻歌交じりに答えた。
「・・・そうだねぇ、ぼくにはわからない。憎いという感情、人を殺そうとする衝動、苦しいという感覚・・・ぼくらは持っていないものだから・・・。」
キアランはフッと皮肉に笑った。
「だろうな・・・お前には、自分で自分を止められない、なんてことはないんだろうな。」
レプラはケラケラと笑った。
「うん、やりたくないことはやらないよ。」
「だけど、俺はそうじゃない・・・」
キアランはクッとグラスの酒を飲み干し、銃を取り出して銃弾の確認をして立ち上がった。出口へ振り向いたとき、ウルフとゼルダが「エリン」の扉から入ってきた。
「どこへ行く気だ。」
キアランは無言で銃をショルダーホルスターに入れ、上着を着ると、カツカツと扉に向かった。
「お前が今、先頭を切れば、この街は血の海になる!押さえつけられた民衆の感情が爆発して、取り返しのつかないことになるんだ!捕虜のことなら、ブラウニーを通じてアメリカ政府やイギリス政府に働きかけ、時間をかけて交渉するんだ!」
ウルフの話を聞いていないように、キアランはその前を通り過ぎようとした。
「一人でムーアを助けに行くつもりか!?」
ウルフがキアランの腕を掴んでそう叫んだ時、扉が開く音が聞こえた。
「・・・その必要は・・・ないよ・・・」
見ると、ムーアが脇腹を抱え、血だらけで扉にもたれかかっていた。
「ムーア!」
ウルフはムーアを抱え、カウンターに近い床に彼を運んだ。ムーアの意識は朦朧として、息は絶え絶えであった。
「はは・・・逃げ出したのはいいけど、ドジっちゃったな・・・これじゃ、いつまでたっても参謀にはしてもらえないなぁ・・・」
ウルフは戦場で数えきれないほどの負傷者を見てきた。だからこそ、ムーアの状態があまりよくないことを直感し、キアランに視線を送った。
「話すな、出血がひどくなる!」
ムーアはそういうウルフにニッと笑いかけてから、険しい表情でじっと見ているキアランの方をゆっくりと見た。
「大丈夫だ・・・俺には懺悔というお役目がある。ちゃんと話すまでは、死ねない・・・あいつの・・・グレッグの名誉のために・・・」
「懺悔?」
キアランは眉根を寄せ、厳しい表情でムーアを眺めた。ムーアはより息をハアハアと切らせていたのを、一旦大きく吸い込むと、キッとキアランの目を見て語り出した。
「キアラン・・・すまない・・・俺はあんたを裏切っていた・・・。両親を人質に取られ、脅迫されてた・・・そして、全ての情報をあいつに流していたんだ・・・。」
「あいつ・・・?」
キアランはウルフに抱えられたムーアの前に片膝を立てて顔を覗き込んだ。ムーアは苦しそうに呻いたが、最後の力を振り絞って言葉を続けた。
「謝って済むことじゃない・・・だけど、俺にできることは、こうやってすべてを告白し、悔悛することだけだ。俺のことも、親父のことも・・・。」
ゼルダがひゅうひゅうと息をするムーアに水の入ったグラスを差し出すと、ウルフが受け取りムーアに一口飲ませた。ムーアは礼を言うと、話し続けた。
「親父は・・・事故にあった俺を助けたい一心で、敵に情報を売った。そのせいで、キアランたちの両親は殺されたんだ・・・・。」
ゼルダとキアランは驚愕の表情でムーアを見た。
「許されることじゃ、ない・・・。親父はその罪悪感から精神を病んでいったんだ・・・。もう、罪を償える状態ではない・・・だから、どうか俺に罰を・・・。」
「あいつとは誰だ!」
キアランは意識が混濁していくムーアの肩をゆすり、問いかけた。
「・・・あいつは・・・女優の・・・アイリス・・・キアラン、あんたを狙ってる・・・。」
「ムーア、しっかりしろ!」
ウルフがムーアの頬を叩いた。ムーアはウルフの肩の先にぼんやりと幻影を見てニヤッと笑いかけると、寝言のように呟いた。
「おれ・・・キアランみたいに、カッコよくなりたかったんだ・・・ムリだよなぁ・・・なあ、グレッグ・・・」
「ムーア、ムーア!!」
ムーアは最期に息を吸い込むと、すぅっとそれを吐き出すように天に召されていった。
ゼルダはウルフの後方で、ウルフはムーアを抱きかかえて号泣した。キアランは混乱の中、茫然と立ち上がり、ムーアの亡骸を食い入るように見ていた。
「死んだのね・・・。殺す手間が省けたわ。」
声の方に3人が振り向くと、いつの間にか女優が銃を構えて立っていた。女は表情のない、恐ろしいほど冷徹で美しい顔をしていた。
「ずいぶんと手間をかけさせてくれたわ・・・お陰ですべてが水の泡・・・。計画とは違うけど、ここで死んでもらうわよ、キアラン・オニール。」
「おまえか・・・お前が、俺たちを・・・ムーアを脅迫して・・・!」
キアランの目が鋭く女を刺すように光った。女は皮肉に笑って答えた。
「そうよ・・・だから、あんたがスパイだと思い込んで殺したのは、なんの罪もない恋人同士だったってことよ・・・。」
「うわぁあああーーー!ー!」
女優の言葉にキアランはとっさに彼女を撃った。女優が持っていた銃は床に落ちて転がり、キアランが放った銃弾は彼女が銃を構えていた右手に被弾し、衝撃で女優はその場に倒れた。キアランの傍にいたウルフが肘でキアランの腕を突き、急所を免れたのだった。ウルフはキアランの腕を抑えると、彼の目を見て強く訴えた。
「・・・もう、いい!もう、よせ!!たのむ、もう、お前が崩れていくのを、これ以上見たくないんだ!」
「どけ!」
キアランの目は怒りで燃えさかり、邪魔をしたウルフの腕を猛然と振りほどこうとした。もみ合ううちに一発の銃弾がウルフの右足に被弾した。キアランはひるんだウルフを振りほどき、再び立ち上がろうとしている女優に銃口を向けようとした。
「キアラン!」
ウルフが叫んだ時、ゼルダがキアランの前に立ち塞がった。
「お兄ちゃん、もうやめて!もう、これ以上人を殺めて、自分を追い込まないで!」
キアランは動揺したが、銃を構えたまま、叱るように叫んだ。
「お前には関係ない!」
「あるわ!本当は、私よりも後遺症に苦しんでいるのは、お兄ちゃんじゃない!」
キアランはゼルダの言葉が信じられないように目を見開いて彼女を見た。今までキアランの背中に隠れて生きてきたゼルダの、強い言葉に衝撃を隠せなかった。
「パパとママが殺された後・・・お兄ちゃん、毎晩うなされてた・・・。それが、私が襲われてからはぴったりそれが無くなったの。その代わり、いつも神経を尖らせるようになった。・・・それは、殺さなくては殺される、っていう緊迫感からよ!」
キアランの銃を持つ手はガタガタと震えていた。
「・・・違う・・・違う!!」
ゼルダは長い長い罪悪感から放たれるように一呼吸すると、一筋涙を流した。
「・・・お母さんが、言ってた・・・。”お兄ちゃんはね、優しいから、心がとっても傷つきやすいの”って・・・・」
キアランの脳裏に病院での母の姿が蘇った。ウルフも、この地を離れるとキアランに伝えた霞のかかった日にゼルダが言っていた言葉を、鮮明に思い出した。キアランは自分の体と心を繋いでいる脊椎のように信じていた自分の強さが、その根幹から崩れていく姿を否定するように目を固く閉じて叫んだ。
「違う!」
その瞬間、女優に向けられた銃の撃鉄は引かれた。人が倒れる鈍い音に目を見開くと、そこには女優の前に立ち塞がったゼルダが倒れていた。
「ゼルダーーーーーー!」
ウルフが足を引きずりながらゼルダの傍に駆け寄った。キアランは銃を落とし、ガタガタと震えながらゼルダの元へ走った。そしてゼルダの傍らに膝から頽れ、その肩を抱いた。
「お兄ちゃん・・・もう、いいの・・・もう・・・私のために、強くいる必要なんて、ない・・・・。」
ゼルダはキアランに向かってそう言うと、今度はウルフの手を震えながらゆっくり握って、笑った。
「ウルフ・・・暖かい・・・ありがとう・・・」
ウルフはその手を何度も頷きながらギュッと握り返したが、ゼルダはすぅっとすり抜けていくように体の力を失い、ゆっくりと目を閉じて逝ってしまった。
「ゼルダーーーーー!」
キアランは妹の亡骸をそぼ寄せてきつく抱きしめ、激しく慟哭した。そのすぐ傍らでウルフは茫然と涙を流した。
その光景を、魂が抜けたように女優は眺めていたが、右腕から流血しながらもゆっくりと立ち上がり、クククッと笑い出し、やがて狂ったように哄笑した。そして、ブツブツと何かを呟きつつ、ふらふらと『エリン』を出て行ってしまった。
長い時間、キアランはゼルダを抱えたまま慟哭していたが、その声が徐々に納まり、ゆっくりと彼女の体を横たえると、その手を胸の上で組ませ、そっと顔を撫でた。『エリン』の衝立横にあるステンドグラスからは、夜が明ける気配が店内へと差し込み始めていた。そして、彼はすっと立ち上がり、出口へと歩き出した。
ウルフは立ち上がり、傷を負っている足を引きながらキアランの腕を引き留めた。
「・・・どこへ行くんだ?」
キアランは無言でその手を振りほどこうとしたが、ウルフはなおも強く離さなかった。
「もう、止めるんだ、何度繰り返せば気が済む!復讐なんて、意味ないんだ!」
ウルフはキアランの両腕を掴み、その空虚になった目を真っ直ぐに見て訴えた。
「何のためにゼルダが死んだか、分るか?これ以上、お前に罪を犯させないためだ!」
しかし、キアランはウルフの手を強く振りほどき、再び歩き出した。その後姿に、ウルフは持っていた銃を震えながら取り出し、撃鉄をガチャリと引いた。
「・・・なんで分からないんだ!・・・頼む!もう、止めてくれ!!」
銃を向けながら懇願するウルフに、キアランはスッと立ち止まり、後姿のまま呟いた。
「ーーーーだったら・・・俺を殺してくれよ・・・」
キアランの言葉に、ウルフはハッと息をのんだ。
「・・・お前の言うとおりだ・・・ゼルダがいなくなった今、俺にはもう、なにもない・・・。なのに・・・」
キアランはガタガタと震える拳をギュッと固く握り、じっと見た。
「・・・なのに、この手も、足も、目も・・・やり場のない怒りではち切れそうなんだ!!このまま外に出れば、味方だろうが敵だろうが、全て撃ち殺してしまう!・・・俺は、自分自身を止められないんだ・・・お願いだ、殺してくれよ!!」
「なぁ、殺してくれよ・・・止められないんだ・・・憎しみも、衝動も!それでも俺に・・・このまま生きていけというのか!?」
ぼんやりと朝が明けていき、ステンドグラスから色とりどりの光が差し、『エリン』の床をゆっくりと染めていった。キアランは後姿のままであったが、ウルフには彼が滂沱の涙を流していることが分かっていた。
「キアラン・・・・」
彼の心がステンドグラスに差し込む光のように、ウルフに伝わってきた。グレッグが以前言っていたように、その昔小さな教会であったこのパブに差し込む光が、まるで告解のようにその罪を照らし出した。そして、キアランが味わってきた恐怖、憎悪、絶望、苦しみ、退廃、自虐、それを背負いながらゼルダのために、と正気を保ってきた彼の過去が、その背中に滲み出ていた。外れてしまった箍がいかに彼を支えていたのか、その苦悩を強く感じた。ウルフは銃を構えたまま、ガタガタと震えていた。
「殺せーーーーーーーーーー!!」
キアランが願うように叫んだ。ウルフは一旦銃を持つ手に力を込めたが、震えるその手をゆっくりと降ろして、吐き出すように呟いた。
「・・・俺には・・・・できない・・・・」
その時、強い光が差し込み、拡声器の雑音が聞こえてきた。
「キアラン・オニール!我々はお前を完全に包囲している!武器を捨て、投降しろ!!」
キアランはクククッと自嘲的に笑い、ショルダーホルスターから銃を取りだして床に捨てた。それからゆっくりと再び出口に向かおうとした。
「よせ!あれは多分、アルスター警察なんかじゃない!MI6とSASが動き始めていると情報屋から聞いている。出て行けば、あっという間にハチの巣だぞ!」
「・・・望むところだ・・・。」
「キアラン!お前が奴らに殺されれば、誰もが英雄の死に復讐を誓う!お前を殺す憎しみの銃弾が、この国をまた嵐に導くんだ!!」
キアランは更に出入口に進んだ。ウルフの脳裏に、今まで見てきた様々な光景が浮かんだ。グレッグの最後の姿、ムーアの告白、ゼルダの温もり、ベトナム戦争で死んでいった戦友たちの後姿、巻き込まれて命を落としていく女性や子供達、ミアの母親が見せた懇願の涙、憎しみの中で処刑されたという父の写真・・・ウルフは再び震えながら銃を構えて、全てを吐き出すように叫んだ。
「キアランーーーー!」
その声にまさに出入口近くのステンドグラス前に立ったキアランは、その光を背にゆっくりとウルフの方に振り向いた。振り向いたその顔の、なつかしく精悍な目が、すっと笑ったような気がした。それは、"黒きナイフ"と呼ばれていたテロリストの目では無かった。逆光を背に立つその姿は、14歳で別れた頃の面影を取り戻したようだった。
「撃て」
キアランは救いを求めるように 言った。
「お前しかいない…俺を止められるのは」
朝日に照らされて、光の中に消えていくのではないかと錯覚した。
ウルフ・マクギネスは顎をワナワナと震わせて首を左右に振った。崩折れていた長身の膝が ガクガク震えた。
黒い影は 悲痛に声を絞り出した。
「撃てーーーー!!」
一発の銃声が響き、黒い影が一瞬ゆらめいて膝から崩れた。
ウルフは銃を震える腕から落とすと、いうことを利かない自分自身の体を振り払うようにしてキアランの元に走った。
「キアランーーーーー!」
抱き上げたキアランは濁りのない菫色の目をウルフに向けた。
「どうしてだ・・・なんでなんだ・・・なぜ、俺にこんなことをさせるんだ!・・・子供の頃、いつかこの国のために共に戦おうと、このエリンの大地に誓ったじゃないか!」
キアランはウルフの右腕を震える手で掴みながら、ゆっくりその目を見た。
「俺たちの夢は・・・この国の未来・・・自由と平等の・・・俺や、ゼルダのように、毎日を怯えて暮らす者のいない国だ・・・。ウルフ・・・それは、お前の仕事だ・・・。」
キアランは掴んでいたウルフの腕を離すと、その拳を何かを掴もうとするように、空に伸ばした。
「・・・これからだ・・・・この国は、これから動き出すんだ・・・自由に、平等に向けて・・・・。」
空に向けた手が、儚く散る花のようにぱたりと落ちた。
「・・・キアランーーーーーーーー!!」
その刹那、閃光と共に特殊部隊が『エリン』の中に突入した。瞬く間にウルフをキアランから引き離し、複数の武装兵に取り押さえられながら、ウルフはキアランの亡骸に向かって叫んだ。
「俺は、何のためにここに戻ってきたんだ!お前とこの国を平和にしたかったんだ!お前を殺すためじゃない!!お前を殺すためじゃないんだ!」
ウルフは遠ざかるキアランに叫び続けた。ベルファストの街に朝を告げる教会の鐘がそれをかき消していった。
人々の生活が始まる合図のような蒸気と共に、この国の未来を夢見た彼らの幻影が、冬の天高くへと消えていった。
次回、最終話となります。