緋色の大地④
グレッグは自宅の鍵を開け、中に入って安堵のため息をついた。ここを出たのは今朝なのに、もう何年も帰って来れなかったような気がした。上着を玄関の脇に掛けてあるハンガーに吊るそうと脱いだ時、コトリと音がした方を見ると、リビングへの扉の先に肩にブランケットを羽織ったままのイネスが涙で顔をクシャクシャにして立っていた。
「イネス!ずっとここにいたのかい? 」
「…心配で…心配で堪らなくて…」
グレッグはイネスに近寄り、彼女を抱き寄せた。
「今、街中を通ってきたけど、この街も今は緊張状態だ。外は銃器を構える軍関係者がRUCやオレンジメン崩れの連中が暴徒と化して、カトリック居住区に押し入ったりしてるのをむしろ容認している。こんななんのセキュリティーもないところで、君にもしものことがあったら…。」
イネスはグレッグの心配をよそに、彼の顔を両手で包んだ。
「…こんなに…傷だらけになって…この間の傷も、まだ癒えていないのに…。」
イネスの目に更に涙があふれ出た。グレッグはハッとした。彼が帰ってくるまで、彼女は自分のことを思い、不安の中でずっとここで待っていたのを察した。そして明るく彼女をなだめようと、大きく一つ息を吐いてから優しく微笑んた。
「名誉の負傷だよ。ブラーニーの命を救ったんだ。イギリス兵の砲撃を掻い潜ってさ。」
誇らしげにそういうグレッグを見て、イネスは更に嗚咽を隠さず、涙を流した。
「ごめんなさい・・・ごめんなさ・・・い・・・・・」
彼女はグレッグの顔の傷を手でなぞりながら、まるで自分を責めているようだった。
そして、意を決したようにじっとグレッグの青い目を覗き込んだ。
「…私、あなたに謝らなければいけないの・・・・。今回、指令を出したの・・・パパなのよ・・・」
「・・・・え・・・?」
グレッグはイネスの言っていることが一瞬理解できなかった。イネスは大粒の涙を流しながら話し始めた。
「・・・・ずっと、ずっと・・・言えなかったの。あなたに嫌われるのが、怖くて・・・。パパは・・・」
イネスは大きく息を吸い込むと、ハッキリと言った。
「・・・パパは、イギリスの北アイルランド担当相なの・・・・。」
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ウルフはフラットを走り出ていくキアランの後を追って非常階段を駆け下りた。
グレッグのフラットへと走り始めた時、彼を遮る影に出くわした。
「・・・・スカル!」
驚きのあまりウルフは一瞬心臓が止まりそうになった。そこには左右の目の色が違う、見覚えのある背の高い男が立ちふさがっていた。
「・・・・見違えたな。ベトナムでジャンキーだった頃とは顔つきが違う。」
スカルはそう言うと、ウルフをくわえタバコのまま眺め、覇気のない表情でフゥッと煙を吐き出した。
「あんたこそ、いつから何のためにベルファストにいるんだ。」
「兄貴のためさ。ベルファストには2年前に戻ってきて、いろいろ動いていた。」
「ブラーニーか…すまないが、急いでいて・・・」
ウルフが言うか言わないうちにスカルがウルフを路地裏に突き飛ばした。その瞬間、一発の銃声が響いた。
スカルは無言でウルフを引っ張り路地裏をぬって走り出した。発砲した者を含む数名の男たちがその後を追ってきた。ウルフとスカルは一軒の雑貨屋に紛れ込み、その裏口から抜け出た。追ってきた男たちは雑貨屋を通り過ぎ、怒鳴り声を上げながら去っていった。
「あいつらは・・・・?」
ウルフは怪訝な表情でスカルを見た。追手がプロには見えなかったからだ。
「オレンジメンのチンピラどもだ。兄貴の演説をテレビで見た連中ってとこだな。あんた、護衛として映っていた。」
スカルは相変わらず無表情で呟いた。ウルフは周囲を確認し、スカルに向き直った。
「ありがとう。でも、すまないが今 急いでるんだ。」
そう言いながらウルフは立ち去ろうとした。
「・・・あの、ミアってガキのことで、兄貴から言伝がある。」
「ミアの?」
ウルフは一瞬立ち止まったが、駆け出して行ったキアランが向かった先が気になり、そのまま走り出した。
「連絡手段をブラーニーに伝えておくよ。」
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グレッグは自分の視界が一瞬暗くなっていくのを感じた。彼女の言ったことが何を意味するか頭では分かったが、心が混乱していて理解が追い付かなかった。
「・・・・え・・・?」
「 私のパパは英国海軍出身の閣僚、リンスター侯爵家のフィッツジェラルド元准将。ママはアイルランド貴族だけど、婿養子としてリンスター家に入ったパパは生粋のイギリス人で、イギリスのアイルランド担当相に任命されて、この地に戻ってきたの。」
グレッグは血の気が引いた顔でイネスの目をじっと見た。イネスは涙にぬれた瞳で彼の目を見返した。
「・・・でもわたし、パパも、国も、全部捨てる!あなたと一緒にいたいの!」
「・・・・」
「だから、私と一緒にこの国を出ましょう。グレッグ言ってたわよね?二人でニューヨークに行こうって。結婚して、子供を育てて、家族になるんだって!」
イネスがグレッグの腕をギュッと握り、必死に訴える姿にグレッグは苦悶の表情を浮かべ、葛藤していた。イネスのことは、多分イギリス人かとは思っていた。しかし、もともと母親がイギリス人のプロテスタント出身で、ケルト系には見られない自分のこともあり、あまり気にはしていなかった。ましてや彼にとって敵はイギリス人ではなく、その上に鎮座する政府だと信じて戦ってきた。だが、愛した女性はイギリス人どころか、自分たちが憎み、闘争してきた当事者の手先だった。言葉を失っていた彼の目に、ふとリビングに掛けてある時計が目に入った。それは、子供のころ、ムーアが直してくれた時計だった。グレッグは下を向いて一語一語絞り出すように言った。
「ごめん、イネス。俺は、行けない・・・。」
イネスはショックのあまり大きく目を見開いた。ガタガタと震える唇から、やっとのことで問いかけた。
「・・・・・どうして・・・」
「・・・俺は、約束したんだ。キアランや仲間たちや、このエリンの大地に・・・。この国のために、自由のために、戦うことを・・・・。」
グレッグはうつ向いたまま、唇を噛んだ。イネスは大粒の涙を流しながら彼を見つめた。
「・・・私よりも仲間が大事?」
グレッグは首をふった。
「・・・そうじゃない。よく聞いて、イネス。俺が今 逃げ出したら、いつか君だって疑問を持つはずだ。兄弟のように育って、自分の命を救った親友を見捨てるヤツを、君は信用できる?」
イネスはハッとしたように彼を見て、悲しそうに首を振った。自分がグレッグの曲がったところが嫌いな、頑固なまでに真っ直ぐなところに惹かれたことを思い出したから。グレッグはイネスを抱き寄せて、自分にも言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「いいかい、君は先にアメリカに行くんだ。俺はどうしてもムーアを助けたい。奴を救出して、この事態が落ち着いたら、後を追うから。毎月1日の昼12時、エンパイヤー・ステートビルの前で再会しよう。・・・その時にはきっとこの国も自由で平和な国になってる・・・。」
「・・・ニュー・ヨークで落ち合う・・・。そういうことだったのか・・・。」
背後から声がし、二人が振り向くと、そこにキアランが青ざめた顔で静かに立っていた。
「まさか、おまえがスパイだったとはな・・・。」
「スパイ・・・?」
グレッグはキアランの鬼気迫る表情から危険を察し、イネスを背後に回した。キアランは手に持った紙片を開き、二人に見せた。
「その女が落としたこの紙片には、イギリス軍の暗号でデモに携わるIRAのリストと配置を調べろと書かれている。そして、リンスター侯爵フィッツジェラルド准将の娘が関与していることも・・・!」
キアランはその紙片を握りつぶしてそれをグレッグに投げつけた。
「お前なら全ての計画に関わっていた・・・。時間、人数、場所、武器・・・。信頼していたからこそ、全てを任せた・・・・なのに・・・!」
初め自分に向けられたキアランの怒気に、信じられないような表情でグレッグは訴えた。
「俺はスパイなんかじゃない!」
「じゃあ、その女は誰なんだ?!色香に血迷ったのか!」
グレッグはイネスのことを面罵され、火が付いたように怒りを爆発させた。
「彼女のことをそんな風に言わないでくれ!」
いつもは冷静なグレッグの怒りの表情に、キアランはフッとため息をつき、更に彼をギュッと睨みつけた。
「・・・お前は、アイルランドの統一に命を懸けたわけじゃなかったのか?!この女は、俺たちを苦しめ続けた、イギリスの女だぞ!」
「違う!俺たちが憎かったのはイギリス政府のはずだ!イギリス人じゃない!!」
「キアラン、あんただって知っていたはずだ!なのに、俺たちの歯車は もう狂い続けている!」
「黙れ!」
キアランは怒りで煮えたぎっているような瞳と共に、グレッグに向かって銃口を向けた。
グレッグは信じてきた男が自分を本気で疑っていることに、悔しさと悲しさと怒りが綯交ぜになったような目を差し返し、自嘲的に笑いながら呟いた。
「・・・俺を・・・殺すのか?あんたのことを兄とも慕った、この俺を・・・。」
「お前は、このエリンの大地を裏切った!」
キアランは自分に言い聞かせるように叫び、引き金を引いた。
その瞬間、それまでグレッグの背にいたイネスが飛び出し、左胸部上方に被弾した。
「イネス!」
グレッグは崩れ落ちる彼女を抱きかかえ、キッとキアランに目を戻し、一瞬で己の銃を取り、彼に発砲した。
しかし、その銃弾は命中することなくキアランの右頬をカスリ、キアランが同時に発射した2発の弾丸が彼の眉間、そして首に命中した。
グレッグはイネスを抱いたまま後方へと倒れた。
その時、虚しくもウルフが駆け込んできて、信じられないように小さく首を振り、倒れた二人を息を切らしながら青白い顔で見た。
沈黙の中、イネスの右手が震えながら血に染まったグレッグの頬に伸びた。
「・・・グレッグ、グレッグ・・・死んじゃイヤ・・・いつか、エンパイヤー・ステートビルの前で、って言ったじゃない・・・グレッグ・・・・」
小さな白い手は、グレッグの頬からするりと力が抜けるように落ちていった。再び沈黙が戻ると、キアランは無言で踵を返してドアを出て行った。ウルフは膝からがくりと崩れ落ち、自らの頬に涙が伝うのも分からぬほどに茫然と血に染まった二人の骸を凝視するしかなかった。