いろのない街(番外編⑫)
派手な装飾のあるキャビネットの上に、キアランは紙幣を数枚置いて上着を着た。
「もう夜中よ。寝ていけば?」
20代半ばの長い黒髪の女が、裸のままベッドから上体を起こして彼に言った。
女の言葉に答えず、取り出したタバコに火をつけると、キアランは深く煙を吸い込み吐き出した。ここにきた時にしか吸わないタバコの紫煙が彼を包み込んだ。
「妹のためでしょ。知ってるわよ。ここらじゃ、あんたたち兄妹は有名人だもの。」
キアランは女を見ることもなくタバコを灰皿にねじると、寝室のドアを開けた。
彼が出ていくと、同居してる同じ年頃の少しふくよかな女が部屋に入ってきて、キアランが出て行った先を見ながらため息をついた。
「ねぇ、すごい美形だね。あの客。常連なの?」
女はベッドから起き出してガウンを羽織った…
「そうね。月に何回か。金払いがいいけど、何にも話さないで、することしたらサッサと帰る。」
女は窓から街灯が薄ぼんやり照らしたキアランの姿を一瞥した。
彼女がキアランと初めて会った日、彼は上着のポケットに手を突っ込み、雨の中あるフラットの窓を見上げていた。夜の街に立つ女は、そんな彼と度々雨の日に出くわした。いつもそうやってその窓を見上げる日は、行き場を無くした迷い犬のようにそこに立っていた。身なりからして、ホームレスには見えなかったし、人を寄せ付けないオーラに彼女は逆に興味を持った。
「ねぇ、今日約束していた客にすっぽかされたの。うちに来ない?」
キアランは自分と同じようにずぶ濡れの女を見た。際どく開いた胸元で明らかに娼婦と分かるその女は、どこか自分と同じように行き場所のない心を持て余しているように見えた。
「多分、あなたとあたしは同じ種類の人間ね。いろんな意味で。」
女の言葉に、キアランは自嘲的に笑った。
「…時間を潰したかったんだ。行こう。」
そうやってキアランは女の部屋へ初めて来た。仄暗い部屋でシャツを脱いだ彼の身体中のアザに、女は言葉を失った。アスリートのような引き締まった体には、まだ生々しい傷や打撲、火傷の跡まであり、痛々しかった。それは過酷な訓練の証だった。
「…戦場にでも行ってきたの?」
女が聞いても、キアランは何も答えなかった。女はそのアザの一つに手を当てて、呟いた。
「あなた、きっと強くなりたいのね。」
彼はジッと女を見た。それは女が唯一見た、キアランの人間らしい驚きの表情だった。
初めて会った日から、お互い割り切って一切干渉しない。そんな娼婦と客としての関係が、二人には丁度良かった。
女のフラットを出たキアランは、上着のポケットに手を突っ込んで、指に紙片が当たるのに気付いた。左手で取り出すと、便箋の真ん中に大きくウルフの文字が書いてあった。
「元気か?」
書きかけなのか、先を思いつかなかったのか、ウルフ特有の気遣いなのか…。キアランは後者だろうな、と思った。自分のことは書こうにも書けない。ペンを取ったものの、キアランにはどうしているか、なんて聞くべきではない。きっと、そんな風にして書いたのだろう、と想像できた。キアランが両親と暮らしていた家から越す日に、ポツリと届いたウルフからの手紙。受け取った時、封筒から取り出したものの、どうしても中を見る気がしなくて、便箋だけ上着に突っ込んだのを思い出した。
キアランはそれをクシャッと握り潰すと、道に捨てようと振りかぶったが、動きを止めて落ち着き、ポケットに戻した。そして、何ともやるせない顔で俯いたまま、深いため息をついた。