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エリンの大地に  作者: 倉崎りん
第三章 外伝(番外編 後半)
42/51

いろのない街(番外編⑪)

両親惨殺事件のその後です。


 ぬけがら、とは正にこんな状態なのだろうな、とキアランは感じた。




 ゼルダはあの日以来、全く(しゃべ)らなくなった。食事も殆ど口にせず、(うつ)ろな表情で一日中同じところに座っていた。




「ゼルダ…」




 キアランはスープをスプーンでゼルダの口に運びながら、祈るように言った。




「お願いだ、少しでいい。口に入れてくれ…」




 ゼルダは兄の言葉に少し唇を開けて、少量のスープを口にした。口の中にその香りが広がると、ポソリと何かを(つぶや)いた。




「…かあさん…」




 一筋の涙がゼルダの(ほほ)を伝い、次から次から流れ出した。小さいゼルダにとって、食事とは母との思い出だった。キアランはスプーンを落としてゼルダを抱き(すく)めた。




「お兄ちゃん…」




 キアランは歯を食いしばり、涙を流した。




 両親のことは新聞に小さく載っただけだった。テロリストを(かくま)っていて、捜索時に銃で威嚇(いかく)してきたため、銃殺されたと書かれていたらしい。警察の取り調べに本当のことを話しても、聞いてさえもらえないのは分かりきっていた。




 両親が殺されたことを知り、アーマーから唯一の親族であるプリシラおばさんが二人に会いにきた。




「アーマーに来なさい。」




 彼女は父の兄弟の嫁で、夫と病気で死別したあと、4人の子供と暮らしていた。それでなくても生活も大変な叔母に頼ることはできない、とキアランは思った。




「ありがとうございます。でも、僕はもうすぐ学校も卒業ですし、あと少しで働けます。ゼルダは今年から学校に行き始めているので、この街を離れず、何とか二人でやっていきます。それに…」




 それに…ゼルダの様子がおかしかった。ムーアの母親や、町内で小さい頃から知っている人々が心配してやってきても、(おび)えて震えが止まらなくなり、キアランの後ろに隠れるようになっていた。




 家族で住んでいた家には気持ち的にも居れるわけがなく、グレッグの父親の手引きで小さなフラットに移り住み、父が勤めていた印刷会社の好意でキアランは働き始めた。両親が残した貯蓄(ちょちく)もあったが、先のことを考えたら働かざるを得なかった。




 家族で住んでいた家を引き払う日、ゼルダは母の膝掛(ひざか)けと父の黒帯を胸に抱いて家を出た。小さな(かばん)には母が残したレシピのノートとガーネットのリボン。それはどうしても荷物に詰めたくないものだった。


 キアランは母の大事なものが入っている小さなオルゴールの箱の中、母が大切にしていた質素なアクセサリーと共に、"いつか…"と書かれた白い紙袋に黄色い数珠(じゅず)のちぎれたロザリオを見つけた。それは、あの事件の後キアランが捨てたものだった。母は、それを見つけてしまっておいたのだ・・・。




 キアランは鍵を閉め、2〜3歩あるいたところで振り返った。玄関のステップは、ほんの1年半ほど前エドナが小さな花を置いていた場所だった。あの頃は母も、ゼルダも花束を見ては笑顔で鼻歌を歌っていた。




 ゼルダの肩を抱いてポーチまで行くと、キアランは何気なくポストに手をかけた。




 中には一通の手紙が届いていた。便せんを取り出して、封筒の送り主の名を見ると、そこにはウルフの名前が書かれていた。だが、それを読む気にはなれず、クシャッと上着のポケットに突っ込んだ。




*************************




 ゼルダは引っ越してしばらくは小さなフラットに閉じこもっていた。しかし、この国の教育制度により、4〜5歳からプライマリー・スクールに通うのが一般的だった為、事件の前から通学を始めていた学校に半年以上かけて少しずつ戻していった。




 ゼルダも30分、1時間、1時間半…と学校に通う努力をした。人に近づかれると顔色が青くなり、ガタガタ震えるので、周りの子供からは少し離して座ったりという配慮をしてもらい、何とか授業を受けるようになった。




 ゼルダの様子を見ながら、キアランは印刷工場で働き始めた。彼が任された仕事は、基本的に体力のいる仕事だった。朝早くから働き、夕方には一旦ゼルダが帰ってくる頃に家で食事を取らせ、また工場に戻った。夜中に家に帰ると、ゼルダは寝付けずに泣いていることも多かった。ゼルダが落ち着くまでそばにいて、シャワーを浴びて寝るのはいつも日付が変わってからだった。




 職場にはカトリック系の同僚が多かったがキアランが入ってすぐ経営者が替わって、プロテスタントの資本が入ったことにより、プロテスタント系の雇用も増やすことになった。




 雇用問題ではプロテスタント系とカトリック系の賃金格差や役職に関して、世間ではかなりの差があったが、彼が入った職場にも徐々に待遇に違いが出てきた。何人かは今までと比べ賃金などが悪くなったことにより、職場を離れて行ったが、キアランはそういったことには口出しせず、黙々と働いた。




 経営者が替わって5か月ほどたったころ、数人の若者が別の工場から移ってきた。彼らはシャンキル・ストリートにたむろう極右のユニオニストだった。その連中はシャンキルのギャングどもの中でも悪評高く、様々な罪で2年ほど刑務所にいたが出所し、親の紹介によりここに来たものの、ろくに働かなかった。その為カトリック系のものはその働かない連中より賃金が悪いという不満から、彼らとの小さな小競(こぜ)り合いが絶えなくなった。




「おい、これ運べよ。」




 彼らのリーダー格のような背が高くて目つきの悪い、鼻にエメラルドのピアスをした男がキアランに大きなロール紙を指さして言った。男は仲間たちから”ダッシュ”と呼ばれていた。その周りにはがたいのいい4~5人のガラの悪い男たちがタバコをふかしながらニヤニヤしていた。




「それはお前の仕事だろ。自分で運べ。」




 キアランは表情も変えずその男たちの前を素通りした。男はキアランの横顔を見て彼を呼び止めた。




「おい、おまえ。2年くらい前に赤毛の女と一緒にいた奴じゃないか?」




 ダッシュの言葉にキアランは振り返った。




「そうだよな。俺の腕をひねり上げやがった。その菫色の目、忘れねえよ。」




 そう言ったダッシュをギュッと(にら)んだが、キアランは無言でその場を立ち去ろうとした。




「あの女、日曜学校の帰りに俺たちがかわいがってやったんだぜ。お前の代わりにな。”キアラン”」




 キアランは目を見開いて立ち止まった。移動遊園地で笑うエドナの顔が脳裏いっぱいに浮かび、がくがくと手足が震え始めた。




「やっぱりお前が”キアラン”か。あの頃、俺はお前に礼をするためにお前を探していた。だけど、あの日、あの女に出くわしたんだ。ああ、思い出すだけでぞくぞくする。あの女の体じゅう隅々まで俺達全員で何度も何度も楽しませてもらった。いい声で泣いてたよ。助けを求めて男の名前を泣きながら呼んでいた。”キアラン、キアラン!”ってな。」




 気づくと男を殴っていた。千切れたロザリオ、閉ざされた窓、最後に会ったあの日、初めて触れた小さな肩…。固く心の奥に封印していた記憶が涙と共にあふれ出た。一緒にいた男の仲間がキアランを羽交い締めにし、殴り返された。それを振り払い、再び男に(つか)みかかったが、取り巻きに壁側に押さえつけられた。ダッシュはゆっくりと近寄り、キアランの顔を撫でて舌なめずりをしながらニヤリと笑った。




「本当はおれはお前のほうがよかったんだけどな。そのきれいな顔を苦痛と屈辱くつじょくで歪ゆがませてやりてぇよ。」




 キアランはダッシュの顔に唾を吐きつけた。ダッシュはキアランの襟元(えりもと)を掴み、再び殴ろうと(こぶし)を振り上げた。




 そこに年上の労働者たちが駆けつけて、慌てて彼らを引き離した。




「どちらが先に手を出した!」




 工場の責任者がそう言うと、男はキアランに殴られた()れた頬をさすり、薄ら笑いを浮かべた。




「俺じゃないですよ。こいつら、みんな見てた。」




 周りの男たちは黙ったままだった。キアランの味方は誰一人いなかった。




「…キアラン・オニール、お前は解雇だ。」




 新任の工場責任者は冷たく言い放った。キアランは口に付いた血をグイっと左手で拭ぬぐうと、無言で工場を出て行った。




 外はいつの間にか土砂降りの雨になっていた。キアランはずぶ濡れのまま人通りのまばらな街を下を向いたまま彷徨さまよった。このまま家に帰りたくなかった。あの日、エドナを不幸に陥おとしいれたのは、俺のせいだったのだと自分自身を責めた。あの光に溶け込むような笑顔を、あの細い肩が、引き裂かれたのは自分の代わりだったのだという罪悪感で苦しくなり、立っていられなくなった。瀟洒(しょうしゃ)なビルのステップに座り込み、うつろな表情で空を見上げた。




「いくらだい?」




 この街では珍しく傘を差した40代くらいの男がいつの間にかステップの前に立ち、キアランに冷たく言った。イギリス(なま)りのその男は仕立てのいいスーツを着ていた。キアランは、自分が男娼(だんしょう)に見えたのだということが分かると、ガクガクと震えながら笑った。




「…いらない、金なんて。代わりに俺を殺してくれ…」




「…私は、ワイルドのように告発されるドジは踏みたくない。」




「おれは誰にも言わない・・・好きなように、すればいい。」




 自分を(ばっ)したかった。自分の代わりに、エドナが暴行を受けたことを知らず、それを記憶の中に閉じ込めて自分が傷つかないようにしていた。エドナが受けた辱はずかしめを、自分も受ければいい、と思った。




 男はキアランの腕をつかみ、無造作に立たせると、そのビルの扉を開けた。




*************************




 まだ湿っているシャツをキアランが羽織ると、タバコを吸っていた男が金をバサッと投げた。キアランはそれを憮然(ぶぜん)蹴散(けち)らし扉を開けた。




「いつでも来るといい。いくらでも買ってやる。」




 男が髪を()でつけ、タバコの煙を(くゆ)らせながら言った。キアランは無表情でそれに答えた。




「お前らイギリス人なんて、ヘドが出る…」




「そのヘドの出るイギリス人に、抱かれたわけか。」




キアランは振り返って野良犬のような目つきで男を(にら)んだ。




「おまえらと、お前らの犬を、一生許さないためにな。」




 そう言うと、バタンと扉を閉めて出て行った。




 外に出ると雨は上がっていた。キアランは夜の誰もいなくなった街を、ゼルダが今日は寝ていてくれていることを祈りながら自宅に向かった。あの、透明なゼルダの瞳に、汚れ切った自分が写るのが怖かった。




 フラットの階段を上がって、なるべく音をたてないように鍵を開け中に入ると、リビングのソファでゼルダが寝てしまっていた。キアランはため息をついてその(かたわ)らに座ると、そっとゼルダの髪をなで、涙を流した。




*************************




 新しい仕事はなかなか見つからなかった。もともと若く、小さなゼルダを抱えているため時間にも融通が利く仕事となると、数は限られた。数週間が過ぎ、ようやく声をかけてくれる職場が見つかった。その日キアランは身支度をして採用責任者に会いに行く用意をしていた。そんな時、玄関のドアが激しく”ドンドン”と叩かれ、グレッグの声がした。




「キアラン、キアラン!ゼルダが、シャンキルの連中に連れていかれた!!少し離れてたけど、さっき角を曲がる時に見えたのは、絶対ゼルダだ!」




 キアランは真っ青な顔で扉に走った。戸を開けると、グレッグが息切れしながら立っていた。




「あいつら、ここのところこの辺りでキアランのことを()ぎまわってた!大柄の、鼻にエメラルドのピアスをつけている奴がリーダーだ。おれ、知ってるんだ、あいつらは町はずれの廃屋の納屋で男女子供構わずレイプしたり、クスリをやったりしている!その方向にゼルダを引きずって行ったんだ!」




 キアランは歯を食いしばると、一旦自宅の寝室に走った。ベッドサイドのチェストを開け、父に渡された銃を取り出し、ズボンの背に押し込んだ。そしてグレッグを置いたまま走って行ってしまった。




 グレッグは”エリン”へと走った。このままでは大変なことになると察知し、父に助けを求めようとした。”エリン”に入ると、カウンター席に一人だけ黒いコートを着て、黒い帽子を目深に被った男の客が一人だけいた。




「父さん!大変なんだ、さっきゼルダがシャンキルの連中に連れていかれて、キアランが一人で助けに行ったんだけど、あいつら4~5人はいるんだ!キアランを助けてよ!」




 父のアーサーは血相を変えた。




「両親のことがあったばっかりなのに…!」




「私が行ってくるよ、アーサー・・・。」




 カウンターにいた男が静かに立ち上がった。




「じゃあ、私が案内します。」




 三人は町はずれの廃屋(はいおく)へと急いだ。




*************************




 キアランが廃屋にたどり着くと、納屋(なや)から高い悲鳴が聞こえてきた。続いて男たちの怒鳴り声や笑い声が響いた。キアランは息を切らし、怒りに震えながら銃を構え、納屋の扉を蹴り開けた。


 


 そこにいた男たちはいっせいにキアランを見た。ゼルダは男に押さえつけられ、埃や擦り傷を作り、着ていたものはボロボロになっていた。キアランは肩で息をしながら中央のダッシュをギッと(にら)み、銃の照準(しょうじゅん)を合わせた。




「やれるもんなら、やってみろ!」




 男たちはキアランをせせら笑った。キアランの腕はガタガタと震え、引き金を引くことを一瞬ためらった。その時、すきを見た二人の男がキアランの銃を蹴り飛ばし、彼を両サイドで押さえつけた。




「先ずはお前の妹で楽しむところを、ゆっくり見てろ。おまえをかわいがるのはそのあとだ。」




 ダッシュは震えているゼルダの(ほほ)から首をぺろりと()めた。ゼルダはなお一層パニックになり、ひきつけを起こしているような状態だった。




「こんな小さなガキ、どうすんだ?」




 ゼルダを押さえつけている男がニヤニヤとダッシュに聞いた。




「女には変わりねぇだろ?俺はどっちでもいける。お前も試してみるか?」




 そして、ゼルダとキアランを見比べた。




「兄妹でいい目をしている。怖いか?俺が。その(すみれ)色の目が真っ赤になるくらい、おれを刻み付けてやるよ。」




 男たちは笑いながら、青くなって震え、言葉も出なくなっているゼルダを立たせ、その襟元(えりもと)をひねり上げた。




「やめろ---------!!」




 顔をゆがめてキアランが叫んだ瞬間、彼は足元の砂を左足で高く()り上げた。キアランを押さえつけていた二人の男の目に砂が入り、一瞬ひるんだ(すき)にキアランは二人を振り払い、右の男を(ひじ)で殴り右足で足を払って転倒させ、左の男は左腕で首を(つか)んで前にひっくり返し、足で蹴りつけ、素早く転がされた銃を掴み中央のダッシュに銃口を向けた。




「撃てねぇよな、ガキに、人は!」




「・・・お前は、人なんかじゃない。」




 一発の銃声が響き、ダッシュは頭を撃ち抜かれ、視覚の中ではゆっくりと倒れて行った。キアランはもう泣いていなかった。周りにいた男たちが青くなり、口々に悲鳴を上げながら、一目散に逃げて行った。キアランは無表情のままゼルダの(そば)に一歩ずつ近づいた。ゼルダは涙で顔を濡らしながら震え、(まばた)きすらできないでいた。




「ゼルダ、帰ろう・・・。」




 キアランはゼルダを抱き上げると、男の血が付いたゼルダの(ほほ)を右手で(ぬぐ)って立ち上がった。振り向くと、そこには息を切らしたグレッグとその父、そして黒ずくめの見知らぬ男が立っていた。彼らに一瞥(いちべつ)もせず、キアランはその横を通り過ぎようとした。




「このままだと、RUCに事情も聴かれず即刻懲役(ちょうえき)だぞ。」




 黒ずくめの男がキアランに冷静に言ってフッと笑った。




「アシュレイの息子、16歳にしてはいい度胸だ。後始末は、わたしが手配しよう。」




 キアランは父の名前を出され、無表情のまま振り返った。




「私のところに来なさい。戦う方法を教えてやろう。」




 それが、IRA暫定派のトップ、オーブラディとキアランの出会いだった。



え〜…Oさん、責任とってくれ…

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