いろのない街(番外編⑦)
この番外編は、本来本編が終了してから外伝として出そうと思っていた内容です。
ウルフとキアランの別れから始まり、ウルフが旅立った後、キアランとゼルダに起こった出来事が中心になります。
春の気配が見慣れた学校そばの公園にも感じられた。少し遠くでじゃれあって笑っているグレッグとムーアが上着を脱いで、追いかけっこを始めていた。セカンダリーも中頃に差し掛かろうとしているキアランとウルフと比べると、声も高く、幼い二人が屈託のない笑顔で騒いでいるのを、彼らはベンチから黙って見ていた。
キアランの隣に座っているウルフは、先ほどから何か言いたげだったが、いつものようにお互い口数が少なくても気を使わない。しかし、今日はウルフが妙に緊張しているのがキアランには感じられた。小さい頃から知っている、お互いの仕草…。キアランは目を向けなくても、彼が頭を掻いたり、制服の腕を捲ったりしているのを感じ、何かを伝えようとしていることを察知した。
かなり離れた視線の先の木に、赤いボールが引っかかっていることにキアランは気がついた。それがゼルダが今朝持っていたものに似ているな、と考えていた時、突然ウルフが話し始めた。
「…アメリカの親戚のところに行くんだ。親父が向こうの大学を紹介されて…」
キアランは驚いて、ゆっくりとウルフの顔を見た。産まれ月も家も近い二人は、記憶がない時から一緒だった。仲が良いとか悪いとか、兄弟のように、とか、そんな言葉もピンとこない程に二人でいるのが当たり前だった。だから、ウルフがいない日常は想像すら出来なくて、どう言葉を返したらいいか、キアランは口ごもった。ウルフはネクタイを緩めると、安堵の深いため息をついた。
「キアラン、ちょっと来てくれよ!」
キアランが話そうとした時、遠くからグレッグとムーアが手招きして彼を呼んだ。
言いたいことも、聞きたいことも、山ほどあった。しかし、それを具体的に言葉で問うことに、彼には躊躇いがあった。なら、言わないほうがいい。そう判断した。
「…そうか…」
キアランはウルフの顔を見ることなく、グレッグとムーアのもとに歩いていった。
『あいつも、聞かれたくないはずだ…』
多分、今 振向いてもだめだ。目を見たら、あいつの決心は崩れる。生まれ育ったこの街を出るのか、残るのか…マクギネス先生なら、きっとウルフに選択させたはずだ。なら…俺が口を挟むことではない。キアランはそんなことを考えながら、ウルフから離れた。
数ヶ月前…ウルフは母を亡くし、盲目に愛した人との別れを選んだ。
「ベルとは、別れたよ。」
その時も、こんな風に突然で、言葉少なくキアランに話した。ベルという大学生の女に、ウルフはかなり熱を上げていた。14歳とはいえ長身で人当たりがよく、優しい雰囲気を持つウルフは、女性にモテた。同級生には基本的に距離を保っていたが、上級生と二人でいるところを何度か見かけたことがあった。しかし、ウルフ自らのめり込んでいるのを見たのは初めてだった。
「のめり込み過ぎだぞ。」
二人が書斎でキスをしているところに出会でくわした時は、周りがすっかり見えなくなっているウルフに少し釘を刺した。
今まで知らない、余裕のない彼を見るのは、キアランにとって何となくいい気分ではなかった。家出をしたと聞いた時、ウルフにとってこの恋は全てを乱すと感じた。だから、普段、お互いのことに干渉しないできたのに、あの朝キアランは初めて感情的になってしまった。
結果、ウルフは全てを失ったように傷つき、打ちのめされた。キアランは心の中でもっと早く、強く自制しろと殴ってでも止めていたら、ウルフの母が亡くなることもなかったのか、と考えたが、口に出すことは無かった。
ふと遠くを見ると、ウルフがしゃがみ込んでゼルダと話していた。
強い春の風が公園を吹き抜けた。ふと見上げた木の枝にかかった赤いボールは、強風に煽られて地面に落ち、所在なげに転がっていった。
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ウルフが旅立つ日はあっという間に訪れた。いつも通い慣れたフラットのエントランス付近に立っていると、軽装のウルフと父のショーン・マクギネス氏が階下に現れた。キアランが待っていたことに気づくと、マクギネス先生は右手を上げてウルフに言った。
「僕は向こうで空港に行くタクシーに乗り込んでいるよ。ゆっくり話しなさい。」
ウルフの顔は二日酔いで青白かった。このまま長時間飛行機に乗って行けるのだろうか、とキアランは少し笑ってしまった。
「お前は二日酔いもないのか。セカンダリーのくせに、どんな体質してるんだ…。」
ウルフは頭をワサワサと掻いてキアランに吐き捨てつつ、苦笑いした。
昨夜、"エリン"の主人、グレッグの父に頼んで、様々な酒を飲ませてもらった。アイルランドの男として、パブで酒を飲まないうちはこの国を旅立てないと、ウルフが望んだ。キアランはそれに付き合った。
ウルフはここ暫く起こったことを振り払うように終始笑い、わざと陽気に振舞っているようだった。挙句の果てに大声で「ハートブレイク・ホテル」を調子っ外れに歌い、店の常連だけになった深夜のパブで、爆笑と喝采を浴びていた。
カウンターに突っ伏したウルフの隣で、キアランは黙々と酒を飲んでいた。こんなものに何故翻弄されるのか、いくら飲んでも酔えない彼には分からなかった。
「…本当は、離れたくないんだ…ここからも、お前からも…ベルからも…」
ウルフの口から、こぼれ落ちた本音。そんなことは、キアランには分かっていた。
「聞かなかったことに、してやるよ…。」
キアランはグラスを傾けながら、呟いた。
昨夜のことは、半分覚えていまい。キアランはウルフの横顔を見て思った。二人の周りには、珍しく晴れた空にりんごの花びらが何処からともなく舞い散っていた。空を見上げたままキアランは、ウルフに訴えた。
「ウルフ、約束だ。絶対に帰ってこい。いつか、このベルファストに戻ってくるんだ。」
ウルフはキアランの方に向き直り、大人びた顔でそれに応えた。
「ああ…その時には、この北アイルランドをカトリックも差別されない国にするために、一緒に戦おう。」
いやというほど、差別や争いを見てきた。怒りや不満が、カトリック系住民には抑えられないところまできていた。
小さな頃から、この言葉を縁に生きてきたから、願わずにはいれなかった。
「そして、いつかこの島をもう一度一つにするんだ…。」
二人は心臓の上を二回叩き、腕をクロスして誓った。
お互いの明日がどれ程過酷か、まだ幼さをいく分抱えた彼らには、知る由もなかった。
暫く番外編が続きます。