カラー・パレット
ムーアは一人自宅のリビングで眠れぬ夜を明かした。
両親を救うために漏らし続けた情報が、この日にどう使われるか気が気じゃなかった。それに、両親に会ったときの言葉が頭から離れなかった。
「イエロー・ベリーにはなるな。」
父の訴えるような目が、脳裏に焼き付いていた。
ほんの少し前まで、母が座って編み物や繕い物をしながらテレビを見ていたソファに座ってため息をついた。家の中に母がいないことが、こんなにも凍てつく空気を醸し出すのかと、今更感じた。
「…もう、出なきゃな…」
ムーアは青白い顔で立ち上がった。
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キアランは夜も明けきらぬうちにシャワーを浴び、出かける準備を始めた。左腕のシャツのボタンをかけながら、ゼルダの部屋に様子を見に行くと、彼女はスヤスヤと寝ているようであった。ホッとして上着を羽織り、再び妹の部屋へ行き、ベッド・サイドの床に片膝をついてゼルダの髪を撫でた。
「行ってくるぞ。」
小さな声で呟くと、ゼルダが目を開いてキアランをジッと見た。
「起こしてしまったか?」
「ううん。イヤな夢を見て…寝れなかったの。」
「眠るんだ。きっと、もうそんな夢も見ない。」
ゼルダは兄が髪に置いた手に自分の手を重ねた。
「お兄ちゃん、忘れないで。わたしはお兄ちゃんのそばにちゃんと居る。だから、無茶はしないで。」
「…ああ、大丈夫だ。」
キアランは落ち着き払った表情でゼルダの部屋を出た。ゼルダは枕をギュッと握りしめた。玄関からは「カタン」とドアを出て行く音と、「ガチャリ」と鍵を閉める音がした。後に残された空気は、いつもと変わらない夜明けの香りがした。
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ウルフにとって、ダイニング・テーブルで飲むコーヒーは母を思い出させた。思春期にベルとのことで精神的に落ち込み、食事がのどを通らなかった頃のことだ。母の作ってくれた朝食を食べずに、コーヒーを流し込んだ朝。今思い出してもなんであんなにツンケンしていたのか、自分が情けなくなる。
『結局、甘えていたんだよな…。』
ウルフはカップを片手に苦笑いした。それからダイニングに面したキッチンに立っていた母の、最後に見た顔を思い出し、胸が締め付けられた。
「…ウルフ、もう行くの?」
ダイニングの入り口に目をやると、ミアがジョンを抱いて目をこすりながら立っていた。
「まだ早いよ、ミア。昨日言ったように、朝食はキッチン・テーブルに、昼食と夕飯は冷蔵庫の中に入ってるからな。夜には一旦帰れるとは思うけど…。」
ミアはウルフに近づくと、猫のように彼の腕に頭を擦り付けた。ウルフは笑顔でその頭を撫でた。
「もし、俺が戻らなかったら、この紙に書かれた番号に電話して、以前会ったベルナデットにこの手紙を渡すんだ。」
そこには自分にもしものことがあった時、弁護士のベルにミアの身の振り方を相談する内容が書かれていた。ミアに残す父や自分のいくばくかの資産の所在も書かれていた。危険な任務ではなかったが、除隊してから初めての銃を携行する仕事だったので、念のため用意した手紙だった。
『…彼女にこんなこと、頼める立場じゃないけど…』
ウルフは心の中で呟いたが、ベルならきっとミアを助けてくれるだろうと信じていた。
「今日は各地でデモがあるかもしれない。ベルファストも騒がしくなるだろうから、この家から出てはいけないよ。」
ミアの背中を子供部屋に促しながら、ウルフは母親のように諭した。ベッドにミアが戻ると毛布を掛けてやり、上からポンポンと軽く叩いた。
「おやすみ。」
ウルフに見守られ、ミアはゆっくりと目を閉じ、安心して寝息をたてた。ミアを見ていると、子供を持つ親の気持ちが分かるような気がした。
「この子を一人にするわけにはいかないな…」
ミアと出会う前は、誰かのために自分を気遣うなんてことはなかった。今は、せめてこの子をあの母親の代わりに幸せにしてやりたい、と考えていた。
「行ってくるよ、ミア。」
ウルフはミアの汚れのない寝顔に呟くと、顔を引き締めて玄関を出て行った。
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ベルファストのまだ明けきらない早朝の街を、彼らはそれぞれの想いを抱き、デリーへと向かった。