ガーネット・リボン
この物語はフィクションであり、歴史的事実を参考にしてはいますが、話の都合上事実とは異なります。
「今回の任務は危険を伴うことではない。主な仕事はあくまで民衆及びブラーニーの警護だ。」
いつもと違い、地下の大きなテーブルの上に図面を広げて男たちの指揮を執っていたのはグレッグだった。
「グレッグが中心になることもあるんだな。」
ウルフは男たちの後方、入口側の壁にもたれ、キアランの近くでグレッグが指揮する姿を傍観していた。二人は先日の事件以来、気まずい日が続いていた。
「…前回のこともある。俺は今回、後方に下がってサポート役に徹する。」
素っ気なくウルフの顔も見ず、キアランが答えた。ウルフは小さなため息をついた。何となく、彼がウルフに抱いている複雑な感情に気がついていたのだ。
暗くあまり広くない地下室は、今回の任務に関わる男たちがひしめき合っていた。デリーで翌週の日曜日に行われるデモに参加するカトリック系市民を見守るのが主な任務であったので、集められた男たちはテロや戦闘に携わってきた者たちとは空気感が違った。
「先ずは当日の警備配置から説明する。その前に、今回の指令ではブラーニー側に提示された民間組織と歩調を合わせていくことになった。その統率責任者を紹介する。ウルフ、ここへ来てくれ。」
ウルフはグレッグに呼ばれてそのそばに立った。
「多くの者は彼のことを知っていると思うが、ウルフはこの街で生まれ育ち、14歳の頃 父親の仕事の都合でアメリカに移住した。その後は帰化し、士官学校を経てベトナム戦争に従軍した経験を持つ。特殊任務に就くなどの経験を持っていること、ブラーニーとは同じ士官学校出身の誼みで、今回ブラーニー側が組織した警護の司令官として我々と共同線を結ぶことになった。」
グレッグに促されたウルフは、急に人が変わったように張り詰めた空気感を出して話し始めた。
「基本、俺の任された部隊は民間の委託により、軍隊経験者、しかも特殊訓練を受けた者のみで組織されている。ブラーニーはアメリカのアイリッシュ・コミュニティのバックアップがあるので、VIPとしてのシークレット・サービス対応だが、それは君たちが民衆の安全を守る役目をしてくれればこそ、と心得ている。それゆえに、両者の連携を常に確認して行き、連絡を密にする必要がある。地点地点に人材を配置し、逐一無線による不審者のチェック、それから暴動などが起きた時への対処方法を段階別に提示し、素早く対応することが望まれる。これからの公民権運動の命運が君たちの双肩にかかっていると認識し、それぞれの仕事を遂行してほしい。」
ウルフの言葉は非常に堅苦しく、まるで冷たい司令官の言に聞こえた。男たちは身構え、シンと静まり返った。が、ウルフは一息フウッと吐き出すと、打って変わって表情が砕け、全員を見渡して力強く話し始めた。
「まぁ、要は今回のデモ行進及びブラーニーの演説は、世界に北アイルランドの現状を伝えるチャンスなんだ。俺たちの手で、この国の未来を変えていこう!」
そこにいた男たちがウルフの言葉に拳を振り上げて気勢を挙げた。口笛の音や歓声が地下室の壁を揺らすほど、強いエネルギーを放っていた。その騒ぎの中、ウルフはキアランと目が合った。キアランは壁にもたれて腕を組んだまま、その光景を他人事のように見ていた。グレッグはウルフの傍で彼の言葉に勇気づけられ、笑顔を向けていた。ムーアは男たちの熱気の中にいて、一人それに同調できずにためらっていた。
それぞれが、それぞれの思いを抱き、一つの目的へと向かっていた。自分たちの向かう未来が、不透明であることを知っていても。
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キアランは喧騒を抜け出して、帰路についた。ゼルダが起きている時間に自宅に帰るのは、二週間ぶりくらいだった。
鍵を開けて部屋に入ると、アイリッシュ・シチューとシェパーズ・パイの香りがした。
キアランがキッチンを覗くと、ゼルダが料理をしていた。母がよく作っていたメニューを、ゼルダは記憶を手掛かりによく作っていた。
「お兄ちゃん!珍しいわね。私のお休みの日に早く帰ってくるなんて…」
キッチンの入口に佇むキアランを見つけ、ゼルダが嬉しそうに微笑んだ。
「母さんがよく作ってたな…。シェパーズ・パイ…」
キアランが懐かしそうにゼルダに言った。母が病気で臥せりながらも、子供たちのために作った手料理がそれだった。
ゼルダはせっせと作業しながら答えた。
「私は小さかったから、記憶が曖昧なの。お母さんがメモを残してくれていたから…」
ゼルダが物心ついた頃には既に母は病弱で、彼女の記憶の中の母は寝ていることが多かった。それでも体調の良い日には母とキッチン・テーブルで花を飾ったり、料理をしたりした記憶があった。
「…でももっと、いろいろ聞いておきたかったな…」
ゼルダが呟いた言葉を聞き、キアランは堪らなくなって背後からゼルダを抱きしめた。
「…お兄ちゃん?」
「…ゼルダ、よく聞いてくれ。もし…もし俺に何かあったら、アーマーのプリシラ叔母さんのところに行くんだ。お前の症状のことは話してあるし、俺の部屋にお前名義の銀行口座の証明書がある。それを持って行け。」
日々死と隣り合わせの生活の中で、自分が居なくなったらゼルダはどうして生きていくのだろう、と考えない日はなかった。死ぬのが怖いのではなく、ゼルダを一人にするのが怖かった。キアラン以外の人に触られることを恐れる妹が、一人で生きていくことは困難だと想像がつく。そういう意味では、ゼルダがウルフに触れて拒否反応が出なかったのは、喜ぶべきことなのだろう。しかし…何故かそれを素直に歓迎できない自分に戸惑ってもいた。
「お兄ちゃん、変なこと言わないで。わたし、ちゃんとこの病気を克服するんだから。お兄ちゃんはそれを見ていてくれないと。」
ゼルダは振り向いてむくれた顔をキアランに見せた。キアランは複雑な表情で苦笑いした。
「さあ、食べましょう。寂しくないかって謝るくらいなら、たまには一緒に食事してよ。」
ゼルダが出来上がった料理をテーブルに運ぶのをキアランも手伝い、食器類を窓際にあるダイニング・テーブルに運ぶと、正方形で4人がけのテーブルにはいつもと違い、昔の自宅から持って来ていた白いクロスが敷かれていた。中央にガラスの一輪挿しがあり、ピンクの薔薇にガーネットのリボンが結ばれていた。一席の椅子には母の膝掛けが掛けられ、その向かいには父が空手で使っていた、名前入りの黒い帯が掛かっていた。
「…ありがとう。お父さん、お母さん。お兄ちゃんを連れて来てくれて…」
ゼルダがそう言うのを聞いて、キアランはハッと気付いた。その日は二人が亡くなった日だった。兄妹にとっては思い出すだけで辛くて、行き場のない怒りの込み上げてくる日だったが、ゼルダはきっとキアランが居なくても、こんな風に毎年両親に想いを馳せていたのだろうか、と胸を締めつけられる気がした。
「このリボン、母さんがわたしの髪に結んでくれた。一番幸せな記憶なの。」
キアランは母が鏡の前にゼルダを座らせ、髪を束ねていた光景を思い出し、ゼルダに無言で頷いた。
そうして二人は久しぶりの家族の食卓を静かに囲んだ。お互いが不安を隠し持っていることを相手に感じ取られないように、丁寧に包みながら。