グリーン・ウッド
街を歩く時はかなり緊張する。
ゼルダは大きな紙袋を抱えて、人と目を合わせないように俯いて歩いていた。
今日はグレッグが買い出しに出ようとしていたが、自分で買って出た。スポンジを沢山とラップ、ティッシュや紙ナフキン。どれも嵩張るけど重いものではない。グレッグが気を遣ってくれているのが分かった。
"エリン"から自宅はすぐ近く、数十メートルの距離で、到着するのに人と接触することは全くない。
しかし、マーケットとなれば、話は別だ。グレッグはゼルダが小さい頃から顔馴染みで、彼女の事情を知っているマーカスおばさんの店を指定した。
「ゼルダ、お釣りここに置いておくよ。」
マーカスおばさんに言われて、ゼルダは少しはにかんだ笑顔でコクっと頷いた。
「キアランは元気かい?」
「…元気といえば、元気かも。」
「あんまり無理するんじゃないよって、言っておいてね。」
おばさんにニッコリ笑って店を後にした。
ただ、真っ直ぐ歩くだけ。人に少しぶつかったり、物を受け渡しする時に少し触れるくらいなら、大分平気になった。ウルフが言うように、焦らず少しずつ前に進もう。そんなことを考えながら俯いて歩いていたら、急にフッと両手が軽くなった。
「ウルフ!」
目をあげると、大きな紙袋をスッと持ち上げた笑顔のウルフがいた。
「買い出し?」
「うん。マーカスおばさんのとこだけどね。」
「ああ、あのおばさんの店か…息子が俺やキアランの1こ下だ。」
そういうと、自然に荷物を持って歩き始めた。
「ありがとう。荷物…」
「え?あ、うん。」
「用は済んだの?」
「そうだね。ミアを迎えに行くところ。」
何気ない会話だったが、ゼルダにとって不思議な感じだった。キアランとは普通に会話するが、元々口数が少ない。グレッグもいつも気を使ってくれるが、その細やかな気遣いにゼルダはいつも申し訳ない気持ちがあった。ムーアが話しているのを聞くのは楽しい。頭の回転が良くて、どちらかというとゼルダは彼と会話するよりも、グレッグとムーアがやり取りする会話を聴いているのが好きだった。
ウルフは気を使うでもなく、家族のようにスッと話せる。小さい頃のイメージそのままで、大らかで優しい。だから、「何か話さなければ…」とは思わせない。会話がなくても焦る必要がない。ほら、今だって…紙袋を持ったまま、大きなあくび…。ゼルダはクスッと笑った。
「ん?」
「昨日は遅かったの?」
「まあね。親父の書斎は蔵書もそのままだから、手にとっていたら、つい…。だけど、子供は早寝早起きだろ?朝はミアに叩き起こされた。」
「お父さんみたいね。」
ゼルダがクスクス笑いながら言うと、ウルフが立ち止まった。
「この間も言われた。"父親みたい"って…。」
ウルフの表情は複雑だった。悲しいことを思い出したような…。ゼルダにとって、それは意外だった。
「ごめんなさい。そうよね、まだ独身なのに"お父さんみたい"なんて、失礼よね。」
「あ、いや、違うんだ、ぜんぜん。いいんだよ、そう言われることがイヤなわけじゃない。逆に嬉しいよ。ごめん、違うことを思い出して…」
ウルフは再び歩き始めたが、笑顔を無理やり作ったように見えた。
「…悲しいこと?」
「うーん…いや、自分がいやで…嫌悪感かな。」
「ウルフでも、そんなことがあるの?」
「あるよ、たくさんね。俺、ダメダメだからさ。」
「私からみたら、いつも笑顔で、オープンで…羨ましいけど…」
「そんなの、見た目だけだ。俺が大人に成りきれないせいで、本当に大事な人をたくさん傷つけた。」
まるで達観したように静かに愛想笑いするウルフに、ゼルダは違和感を感じた。
「それは、女の人?」
「…そうだね。もうやめよう。こんな話。」
ゼルダはスッと立ち止まり、首を傾げてジッとウルフの背中を見た。ウルフはゼルダが立ち止まったことに気付き、振り返って彼女の方を見た。
「好きな人なら、謝れば?」
真っ直ぐな、疑問を差し挟む余地すらないゼルダの瞳は、まるでウルフを断罪しているようで、彼は口ごもってしまった。
「…謝ったって、許されないこともある。」
「許されない…なんて。諦めないんじゃないの?」
「え?」
「だって、私はウルフがお兄ちゃんを変えようと戻ってきたと聞いた時、きっとウルフは諦めないと感じたの。それは、ウルフがお兄ちゃんのこと、信じてるのを知ってたから。ウルフがその人を好きなら、きっとその人のことも信じてるはずでしょ?」
ゼルダはキッパリと言い放った。いつもオドオドと周りを警戒している姿とは違い、彼女本来の芯の強さを物語っていた。
「…あ、ごめんなさい。つい…」
ウルフは今まで抱いていたゼルダのイメージから全く違うその姿に、驚いて大きく目を見開いたまま二の句があげられずにいた。
「…ウルフ?」
「…あ、ああ、ごめん。ちょっと驚いて…。」
ウルフは紙袋を左手で持ったまま、右手でワシワシと髪を掻き、笑顔を見せた。
「ゼルダ、本当に大人になったんだね。俺、君が小さい時のイメージのまま接してたんだな。それこそ、失礼だよな。」
ゼルダはキョトンとした顔をしていた。こんなにハッキリ意見を言ったのは初めてで、そんな自分に驚いていた。
「…きっと、ウルフだからよ。」
「あはは。言いやすいかな。」
「うん。そうかも。」
ゼルダはクスクスと、ウルフは大きな声で笑い合った。
そうこうしているうちに"エリン"の前に着いた。ウルフが先に扉を開け、ゼルダを先に通して店に入ると、衝立を出てすぐのテーブル席にグレッグとイネスが座っていた。
「あ、お帰りゼルダ。買い出し、ありがとう。大丈夫だった?」
「ウルフ!お帰り〜。」
グレッグは立ち上がって二人を出迎えた。ミアは走ってウルフに飛びついたが、ウルフはスンスンと鼻を鳴らし始めた。
「あれ?ここではあまりかげないような、あま〜い香りが…」
「ああ、これね。今朝作ったの。良かったらどうぞ。」
イネスがマドレーヌを袋から出し、ウルフとゼルダに差し出した。
「わあ、旨そう。いただきます。」
ウルフはテーブル席に紙袋を置いてそれを受け取り、ゼルダははにかみながら、嬉しそうに手に取った。それを見ていたグレッグが首を傾げてウルフに尋ねた。
「…昔、甘いものは苦手だって言ってたよな…」
包みを開けながらウルフは吹っ切れたように笑った。
「あの頃は…大人ぶりたかったんだ。今思うと、むしろ子供っぽいこと言ってたよな。本当は甘いものだって好きだよ。」
ウルフは近くのテーブル席に座ってマドレーヌを頬張った。ゼルダはその向かい側に座り、静かに包みを開けた。
和やかな空気が流れる中、地下への階段からキアランが上がってきた。
「グレッグ、話がある。下に来い。」
キアランの顔は疲れ切って青白かった。ウルフはキアランに近づき、イネスの作ったマドレーヌを手渡した。
「ピリピリしてるな〜。甘いものでも食べて、落ち着けよ。」
キアランは無言でそれを受け取ったが、ウルフを見ようともせずに地下に戻ろうとした。その背中にウルフが思い出したように話しかけた。
「キアラン、来週の集会、穏便に頼むぞ。」
階段に差しかかっていたキアランは、振り返ってウルフの顔を訝しそうに見た。
「…何のことだ?!」
ウルフはカウンターに腰掛け、マドレーヌをもう一つ開けながらそれに応えた。
「再来週、デリーで行われるブラーニーの演説、俺も警備の責任者で関わることになった。」
1972年1月、デリーで北アイルランドのカトリック系住人による、差別の撤廃を求めたデモが予定されていた。その中で、活動家のブラーニー・エプスタインが演説をすることになっていた。グレッグが言うように、世界中で公民権運動が活発になってきていたこの時代、無駄な衝突や、ブラーニーの暗殺を防ぐためにIRAも警備に秘密裏に加わることになっていた。
「…なぜ、お前が…」
「アメリカ軍の特殊部隊にいた経験を買われて、ブラーニーから直接依頼があったんだ。」
「どうして、ブラーニーがお前を知っているんだ!」
「ウェストポイントの士官学校にいた時、ブラーニーはそこの2年先輩だった。いろいろ世話になったから、断りきれなくてな…。」
ウェストポイントの士官学校とは、全米中の優秀な生徒が集まる超エリート校だった。士官学校とはいえ、大学と同じように学科もあり、軍隊を率いる士官を養成するため、非常に厳しいことで有名だった。ハーバードを始めとする難関大学よりも入学が難しく、厳しい訓練や規律のため、卒業することも容易ではなかった。
「さてと、ミア 帰ろうか。」
ウルフは立ち上がると、ミアがまた潜り込んだテーブル席を覗いた。
「えー。もう帰るの〜。」
「うちに帰って、調べなきゃいけないことが沢山あるんだ。イネスさん、ご馳走様でした。」
ミアの肩を抱くと、二人は"エリン"から出て行った。
ウルフが去った後姿を凝視したまま、キアランは愕然としていた。
『…どういうことだ…あいつは、スパイではないのか?』
その時、下からムーアが上がって来た。
「ちょっと気分転換に、タバコを吸ってくるよ。」
そういうと、外に出て行った。地下への入り口に立ち竦んでいたキアランを心配して、グレッグが顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ。下で話があるんじゃないのか?」
「ああ…。」
キアランは未だ懐疑的な表情のまま、二人で地下へと消えて行った。
「みんな居なくなってしまったわね。」
「そうね。」
イネスがゼルダに笑いかけた時、ゼルダはカウンター席にムーアがジッポをまた置き去りにしていることに気がついた。
「ムーア、忘れてる…店の外にいると思うから、渡してくるわ。イネスさん、少しここに居てくださる?」
「わたし、行きましょうか?」
「大丈夫。すぐ戻るから…」
ゼルダは笑顔で衝立の向こうの扉を出た。店の扉を出てキョロキョロ見回したが、ムーアの姿はすぐに目に入らなかった。しかし、店の角を入ったところをふと見ると、ムーアの着ていた服の肘が見えた気がした。そのまま何の気なしに近づくと、ムーアが誰かと話しているようだった。
そっと角から見ると、そこには見覚えのある女が立って、ムーアと話していた。
「…キャスリーン・フラー…」
ゼルダの目に飛び込んできたのは、兄に銃を向けられた時、怯むことなく饒舌に語った女優の姿だった。