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エリンの大地に  作者: 倉崎りん
第二章 濃紺の空
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グリーン・ウッド

 街を歩く時はかなり緊張する。


 ゼルダは大きな紙袋を抱えて、人と目を合わせないように(うつむ)いて歩いていた。


 今日はグレッグが買い出しに出ようとしていたが、自分で買って出た。スポンジを沢山とラップ、ティッシュや紙ナフキン。どれも嵩張(かさば)るけど重いものではない。グレッグが気を遣ってくれているのが分かった。


 "エリン"から自宅はすぐ近く、数十メートルの距離で、到着するのに人と接触することは全くない。


 しかし、マーケットとなれば、話は別だ。グレッグはゼルダが小さい頃から顔馴染みで、彼女の事情を知っているマーカスおばさんの店を指定した。


 「ゼルダ、お釣りここに置いておくよ。」


 マーカスおばさんに言われて、ゼルダは少しはにかんだ笑顔でコクっと頷いた。


 「キアランは元気かい?」


 「…元気といえば、元気かも。」


 「あんまり無理するんじゃないよって、言っておいてね。」


おばさんにニッコリ笑って店を後にした。


 ただ、真っ直ぐ歩くだけ。人に少しぶつかったり、物を受け渡しする時に少し触れるくらいなら、大分平気になった。ウルフが言うように、焦らず少しずつ前に進もう。そんなことを考えながら俯いて歩いていたら、急にフッと両手が軽くなった。


「ウルフ!」


目をあげると、大きな紙袋をスッと持ち上げた笑顔のウルフがいた。


挿絵(By みてみん)


「買い出し?」


「うん。マーカスおばさんのとこだけどね。」


「ああ、あのおばさんの店か…息子が俺やキアランの1こ下だ。」


 そういうと、自然に荷物を持って歩き始めた。


「ありがとう。荷物…」


「え?あ、うん。」


「用は済んだの?」


「そうだね。ミアを迎えに行くところ。」


 何気ない会話だったが、ゼルダにとって不思議な感じだった。キアランとは普通に会話するが、元々口数が少ない。グレッグもいつも気を使ってくれるが、その細やかな気遣いにゼルダはいつも申し訳ない気持ちがあった。ムーアが話しているのを聞くのは楽しい。頭の回転が良くて、どちらかというとゼルダは彼と会話するよりも、グレッグとムーアがやり取りする会話を聴いているのが好きだった。


 ウルフは気を使うでもなく、家族のようにスッと話せる。小さい頃のイメージそのままで、大らかで優しい。だから、「何か話さなければ…」とは思わせない。会話がなくても焦る必要がない。ほら、今だって…紙袋を持ったまま、大きなあくび…。ゼルダはクスッと笑った。


「ん?」


「昨日は遅かったの?」


「まあね。親父の書斎は蔵書もそのままだから、手にとっていたら、つい…。だけど、子供は早寝早起きだろ?朝はミアに叩き起こされた。」


「お父さんみたいね。」


 ゼルダがクスクス笑いながら言うと、ウルフが立ち止まった。


「この間も言われた。"父親みたい"って…。」


ウルフの表情は複雑だった。悲しいことを思い出したような…。ゼルダにとって、それは意外だった。


「ごめんなさい。そうよね、まだ独身なのに"お父さんみたい"なんて、失礼よね。」


「あ、いや、違うんだ、ぜんぜん。いいんだよ、そう言われることがイヤなわけじゃない。逆に嬉しいよ。ごめん、違うことを思い出して…」


 ウルフは再び歩き始めたが、笑顔を無理やり作ったように見えた。


「…悲しいこと?」


「うーん…いや、自分がいやで…嫌悪感かな。」


「ウルフでも、そんなことがあるの?」


「あるよ、たくさんね。俺、ダメダメだからさ。」


「私からみたら、いつも笑顔で、オープンで…羨ましいけど…」


「そんなの、見た目だけだ。俺が大人に成りきれないせいで、本当に大事な人をたくさん傷つけた。」


  まるで達観したように静かに愛想笑いするウルフに、ゼルダは違和感を感じた。


「それは、女の人?」


「…そうだね。もうやめよう。こんな話。」


 ゼルダはスッと立ち止まり、首を傾げてジッとウルフの背中を見た。ウルフはゼルダが立ち止まったことに気付き、振り返って彼女の方を見た。


「好きな人なら、謝れば?」


 真っ直ぐな、疑問を差し挟む余地すらないゼルダの瞳は、まるでウルフを断罪しているようで、彼は口ごもってしまった。


「…謝ったって、許されないこともある。」


「許されない…なんて。諦めないんじゃないの?」


「え?」


「だって、私はウルフがお兄ちゃんを変えようと戻ってきたと聞いた時、きっとウルフは諦めないと感じたの。それは、ウルフがお兄ちゃんのこと、信じてるのを知ってたから。ウルフがその人を好きなら、きっとその人のことも信じてるはずでしょ?」


 ゼルダはキッパリと言い放った。いつもオドオドと周りを警戒している姿とは違い、彼女本来の芯の強さを物語っていた。


「…あ、ごめんなさい。つい…」


ウルフは今まで抱いていたゼルダのイメージから全く違うその姿に、驚いて大きく目を見開いたまま二の句があげられずにいた。


「…ウルフ?」


「…あ、ああ、ごめん。ちょっと驚いて…。」


 ウルフは紙袋を左手で持ったまま、右手でワシワシと髪を掻き、笑顔を見せた。


「ゼルダ、本当に大人になったんだね。俺、君が小さい時のイメージのまま接してたんだな。それこそ、失礼だよな。」


ゼルダはキョトンとした顔をしていた。こんなにハッキリ意見を言ったのは初めてで、そんな自分に驚いていた。


「…きっと、ウルフだからよ。」


「あはは。言いやすいかな。」


「うん。そうかも。」


 ゼルダはクスクスと、ウルフは大きな声で笑い合った。


 そうこうしているうちに"エリン"の前に着いた。ウルフが先に扉を開け、ゼルダを先に通して店に入ると、衝立を出てすぐのテーブル席にグレッグとイネスが座っていた。


「あ、お帰りゼルダ。買い出し、ありがとう。大丈夫だった?」


「ウルフ!お帰り〜。」


 グレッグは立ち上がって二人を出迎えた。ミアは走ってウルフに飛びついたが、ウルフはスンスンと鼻を鳴らし始めた。


「あれ?ここではあまりかげないような、あま〜い香りが…」


「ああ、これね。今朝作ったの。良かったらどうぞ。」


 イネスがマドレーヌを袋から出し、ウルフとゼルダに差し出した。


「わあ、旨そう。いただきます。」


ウルフはテーブル席に紙袋を置いてそれを受け取り、ゼルダははにかみながら、嬉しそうに手に取った。それを見ていたグレッグが首を傾げてウルフに尋ねた。


「…昔、甘いものは苦手だって言ってたよな…」


 包みを開けながらウルフは吹っ切れたように笑った。


「あの頃は…大人ぶりたかったんだ。今思うと、むしろ子供っぽいこと言ってたよな。本当は甘いものだって好きだよ。」


 ウルフは近くのテーブル席に座ってマドレーヌを頬張った。ゼルダはその向かい側に座り、静かに包みを開けた。


 和やかな空気が流れる中、地下への階段からキアランが上がってきた。


「グレッグ、話がある。下に来い。」


 キアランの顔は疲れ切って青白かった。ウルフはキアランに近づき、イネスの作ったマドレーヌを手渡した。


「ピリピリしてるな〜。甘いものでも食べて、落ち着けよ。」


 キアランは無言でそれを受け取ったが、ウルフを見ようともせずに地下に戻ろうとした。その背中にウルフが思い出したように話しかけた。


「キアラン、来週の集会、穏便に頼むぞ。」


 階段に差しかかっていたキアランは、振り返ってウルフの顔を訝しそうに見た。


「…何のことだ?!」


 ウルフはカウンターに腰掛け、マドレーヌをもう一つ開けながらそれに応えた。


「再来週、デリーで行われるブラーニーの演説、俺も警備の責任者で関わることになった。」


 1972年1月、デリーで北アイルランドのカトリック系住人による、差別の撤廃を求めたデモが予定されていた。その中で、活動家のブラーニー・エプスタインが演説をすることになっていた。グレッグが言うように、世界中で公民権運動が活発になってきていたこの時代、無駄な衝突や、ブラーニーの暗殺を防ぐためにIRAも警備に秘密裏に加わることになっていた。


「…なぜ、お前が…」


「アメリカ軍の特殊部隊にいた経験を買われて、ブラーニーから直接依頼があったんだ。」


「どうして、ブラーニーがお前を知っているんだ!」


「ウェストポイントの士官学校にいた時、ブラーニーはそこの2年先輩だった。いろいろ世話になったから、断りきれなくてな…。」


 ウェストポイントの士官学校とは、全米中の優秀な生徒が集まる超エリート校だった。士官学校とはいえ、大学と同じように学科もあり、軍隊を率いる士官を養成するため、非常に厳しいことで有名だった。ハーバードを始めとする難関大学よりも入学が難しく、厳しい訓練や規律のため、卒業することも容易ではなかった。


「さてと、ミア 帰ろうか。」


 ウルフは立ち上がると、ミアがまた潜り込んだテーブル席を覗いた。


「えー。もう帰るの〜。」


「うちに帰って、調べなきゃいけないことが沢山あるんだ。イネスさん、ご馳走様でした。」


 ミアの肩を抱くと、二人は"エリン"から出て行った。


 ウルフが去った後姿を凝視したまま、キアランは愕然としていた。


『…どういうことだ…あいつは、スパイではないのか?』


その時、下からムーアが上がって来た。


「ちょっと気分転換に、タバコを吸ってくるよ。」


 そういうと、外に出て行った。地下への入り口に立ち竦んでいたキアランを心配して、グレッグが顔を覗き込んだ。


「どうしたんだ。下で話があるんじゃないのか?」


「ああ…。」


 キアランは未だ懐疑的な表情のまま、二人で地下へと消えて行った。


「みんな居なくなってしまったわね。」


「そうね。」


 イネスがゼルダに笑いかけた時、ゼルダはカウンター席にムーアがジッポをまた置き去りにしていることに気がついた。


「ムーア、忘れてる…店の外にいると思うから、渡してくるわ。イネスさん、少しここに居てくださる?」


「わたし、行きましょうか?」


「大丈夫。すぐ戻るから…」


 ゼルダは笑顔で衝立の向こうの扉を出た。店の扉を出てキョロキョロ見回したが、ムーアの姿はすぐに目に入らなかった。しかし、店の角を入ったところをふと見ると、ムーアの着ていた服の肘が見えた気がした。そのまま何の気なしに近づくと、ムーアが誰かと話しているようだった。


 そっと角から見ると、そこには見覚えのある女が立って、ムーアと話していた。


「…キャスリーン・フラー…」


 ゼルダの目に飛び込んできたのは、兄に銃を向けられた時、(ひる)むことなく饒舌(じょうぜつ)に語った女優の姿だった。

 




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