グレイ・プロスペクツ
前回のアイリストのシーンから続いています。
ホテルから出て、そのままイネスは"エリン"に向かいました。
中心街にあるホテルを出てすぐにイネスは”エリン”に向かった。
持っていた紙袋には、今朝教会のボランティアのために作ったマドレーヌが入っていた。
ウルフがよく連れている「ミア」は喜ぶだろうか?今日は来ているかな?
そんなことを考えながら、歩いていた。
日曜日の”エリン”は昼のみの営業だった。基本的に安息日はどこも休みだが、教会に行った帰りには家族で軽く食事をする家庭が多い。しかし、休みの店も多いことから、近場の飲食店と持ち回りで2週に1回は昼のみ店を開けていた。今日はそのランチ終了後の閉店時間を見計らって顔を出すつもりだった。
「こんにちは。」
「あっ!お姉さんだ。」
予想通り、ミアがフロアーで遊んでいた。グレッグは一人で客が去った後のテーブルを片付けていた。
「いらっしゃい。」
「あら、今日はミアは一人?」
「ウルフは仕事の話があるからって、ミアをここに預けて行ったんだよ。」
「ウルフさんもここにいればミアは安心だと思ってるのよ。」
近頃は毎日”エリン”に顔を出すので、すっかりミアとも仲良くなった。ウルフは人に会う約束があるとき、シッターに来てもらうこともあるようだが、時々ここにミアを預けていくこともあった。
「今朝、ボランティアにマドレーヌを焼いたの。たくさん作ったから、おすそ分け。」
「わぁ!」
イネスが袋から一つ一つ包装したマドレーヌを出すと、ミアの顔がぱっとほころび、イネスのところに走ってこようとして、すてんとかなり激しく転んでしまった。
「うわぁあん、イタイ!」
ミアは擦り剝けた膝をまくって泣き出してしまった。
「あらあら・・・。」
イネスが近寄り、傷の具合を見た。
「大丈夫よ。ズボンに少しこすれちゃったけど、血は出てないから。」
「ほんと?」
涙でぐしゃぐしゃのミアの顔を見て、イネスはハンドバッグからハンカチを取り出し、笑顔で渡した。
「はい。涙、ふかなきゃ。それから、これも。」
同時にマドレーヌも差しだすと、ミアはハンカチで涙を拭いたが、グイっとそれをポケットに入れてマドレーヌを両手で嬉しそうに受け取った。
「おいしそう!いただきます。」
満面の笑顔でいつもの見えない友達がいるテーブル席にスキップをしながら去っていった。
「半分あげようか?」
袋を開けながらミアはレプラを見た。
「いらな~い。人間の食べ物なんて、食べないもん。」
「かわいくな~い!」
ミアがテーブル席の下でごそごそとマドレーヌを食べているのを見て、イネスはグレッグに尋ねた。
「誰と話しているんですっけ?」
「この店の精霊とだよ。俺たちには見えないから、分からないんだけどね。」
「不思議な子ね・・・。でも、かわいい。」
「子供・・・好きなの?」
「私ね、幼稚園の先生になりたかったの。資格は取ったんだけど、親に反対されて・・・。」
グレッグはイネスを近くのテーブル席に促すと、彼女の手を取って座らせた。
「…イネス、話しておきたいことがあるんだ。多分、察しはついていると思うけど、俺はIRAの活動に参加している。」
イネスの瞳はグレッグを真っ直ぐ見ていたが、動揺して瞳が左右に揺れた。このウエスト・ベルファストの街のカトリック居住区はIRAの根城があると誰もが知っている。RUC(アルスター警察)すら彼らを恐れておいそれとは立ち入らないエリアだ。特に、対立の激しくなった1960年代以降は、テロとその報復で血で血を洗うような争いが続いていた。だから、グレッグがそれに加担しているということは、当然のように彼女も予想はしていた。しかし・・・実際に本人の口から聞くと、その衝撃は雷に打たれたように彼女の心臓を直撃した。
グレッグは何も言えずに戸惑いの目で彼をじっと見ているイネスに静かに話し始めた。
「俺たちはこの街に育って、様々な差別や争いを見てきた。大人たちがそれに抗議したことによって、更に不当に扱われたり、連行されたり・・・殺されたり・・・そういうことを日常的に見てきたから、俺は何の疑問もなくIRAに加わった。でも・・・・最近、いつになったらこの沼のような憎しみの連鎖から這い出ることができるんだろう、と感じるんだ・・・。」
「俺は君を見てると、臆病になる。死ぬのが怖い…そんな奴はきっと、仲間を窮地に追い込むことにもなる。」
「…だから、俺は次の作戦で引退しようと思ってる。そしたら、二人でアメリカに行こう。結婚して、子供を育てて、家族になるんだ。君に出会って、"エリン"を売る覚悟ができた。」
「次の作戦って・・・また危ない目にあうの?」
イネスはグレッグが傷だらけでここに居たあの日を思い出して、身震いした。
「大丈夫だよ。俺たちだって、テロ行為ばかりやってるわけじゃないんだ。今、この地で起こっていることをイギリスに、全世界に知らしめるため、抗議のデモ行進が行われる。活動家のブラーニーが演説をして、民衆に呼びかける。その周辺警備のために、周りを固めることになったんだけど、世界中で公民権運動が活発化している今、北アイルランド政府もイギリスも攻撃はしないだろう。」
「そう…」
グレッグを信じていないわけではなかったが、彼女の心の中はざわついていた。なんとも言えない不安が小さなその手をカタカタと震わせた。それを隠すようにテーブルの下で手を組んだ。
未来は不透明な霧の中、その姿を見せずに彼らの前に広がっていた。
次回もこのシーンと並行した時間のウルフとゼルダの話です。