フォゲット・ミー・ノット③
ここから読む場合、名前の混乱を防ぐため、前書きに注意を残します。
姉=リーアム(本名)=女優=アイリス(スパイとして活動する時の名)=キャスリーン・フラー(芸名)
全部同一人物です。
対する人物によって、呼称が変化します。
ややこしくて、申し訳ないです…。
姉との繋がりが欲しかった。
美しい姉を見て、あのキレイな花を眺めていたかった。
高みに咲くあの花は、どんな薄汚れたものを身に纏っていても、強力な光を放っていた。
だから、姉に連絡役を打診された時、父と姉の真意は分からなかったが、それに応じた。
しかし、父が姉を利用しようとしているのは何となく空気で察した。そして、再会した時にその父を姉が利用しようとしていることも。
父がこの北アイルランドに再赴任してから、父の任務に不穏なものをも感じ始めた。ベルファストの街は以前より更に緊張が高まり、人々の目にテロやRUCとIRAとの衝突に巻き込まれやしないかという不安感も漂っていた。このタイミングでの父の再赴任は、イギリス政府がその対策に出始めているのであろうことは、イネスも徐々に察しがついてきていた。
…そして…自分が好きになってしまった人が、自分とは反対の岸に立っていることも…。
ユニオニスト(英連邦残留派)とナショナリスト(独立あるいは南北統一派)の対立とは違い、プロテスタントとカトリック、そんなカップルは沢山いる。
しかし、事はイネスが考えているより、遥かに重大だった。
薄曇りのこの日、父に託された紙片を鞄に忍ばせて、姉が指定してきた高級ホテルの一室をノックした。
中からは堅いの良い男が出てきた。不精に伸ばした黒髪は無造作な癖毛で、目つきの悪さは野良犬のように心が抜け落ちた睨み方に見えた。イネスは一瞬硬直した。自分の周りには見たことのない、異質なタイプだったからだ。
男は無言でイネスを中に招き入れようとした。彼女は警戒感から奥を覗き込むと、姉の姿があったので従って奥に進んだ。
「席を外してくれる?」
姉が男を横目で見ながら冷たく言った。
「俺はあんたの護衛役だからな。そういうわけにはいかないな。」
「この子が私に危害を与えるとでも?フィッツジェラルド准将の娘よ。逆にあんたが少しでもこの子に怪我させたら、あんたの命の方が保証できないわよ。」
男は舌打ちしながら部屋から出て行った。
「あんなチンピラ崩れを雇うなんて、むしろ迷惑な限りだわ。」
姉はソファに腰掛けると、イネスの方を見た。イネスは立ったまま、体を硬直させていた。
「あんたには免疫のない人種だわね。あんまり見たことないでしょうけど、どんな国にもいるゴミのような奴らよ。私はそういう奴らをイヤというほど知ってるけどね。」
「…ゴミのようだなんて…」
「バカね、顔に出てるわよ。異質な者への戸惑いがね。私に初めて会った時のように…」
姉はシルバーのシガレット・ケースからタバコを取り出そうとして躊躇い、フタを閉じて目を戻すと、妹の表情にドキッとした。
「そんな風に…見えるの?」
イネスの顔は、自分自身を責めていた。姉はそんな表情を初めて見た。人を憎み、自分の境遇を憎み、人からは蔑まれ、更にハリウッドに出てからは生馬の目を抜くような生存争いを経て、嫉妬と欲望の渦巻く顔ばかり見てきた。この子の前だと、何かが狂う。そう感じずにはいれなかった。
「…そんなことより、あの男からのメッセージをよこしなさいよ。」
イネスは姉に言われるまま、ハンドバッグから小さな紙片を取り出した。しかし、それを持ったまま姉に渡そうとはしなかった。
「何をしているの?さあ。」
姉はイネスに近寄り、その紙片に手を伸ばしたが、妹はそれを拒否した。
「わたし…もうリーアム姉さんに協力できない…。」
「…どういうこと?」
「パパから渡される手紙…もちろん中身は見てないわ。だけど、きっとこの中にはグレッグたちに不利になることが書かれているんでしょ?」
「何を血迷ってるの?あれほどあんたのパパが反対したのに、連絡役をやると決めたのはアンタじゃないの!」
「それは…リーアム姉さんに会って、話す機会が欲しかったからよ。自分があんな…多くの人が血を流しあうことに協力していたなんて、分かってなかったからよ…。」
「能書きはいいわ。それをよこしなさい!」
リーアムはイネスの手から再びその紙を取り上げようとしたが、イネスは紙片をハンドバッグにサッと突っ込むと、姉から後ずさった。
「いやよ!わたし、姉さんにも、グレッグにも危ない目にあって欲しくないの!」
「イネス!」
イネスは振り返って走り去ってしまった。
イネスと入れ違いに用心棒の男が背の高いグレーのスーツ姿の男と共に戻って来た。男はイギリス紳士の典型のように粋にスーツを着こなしていた。
「今の子がフィッツジェラルド准将の…」
「…そう。イネスよ。フォサーク…」
フォサークと呼ばれた男はイネスが去った方を見てフッと笑った。
「君がバラなら、彼女は忘れな草…てとこだね。」
アイリスはフォサークの目をじっと見ていたが、何かを諦めるようにため息をついた。
「指令文書を持って帰られてしまったわ。」
「いいさ、准将には直接聞く。上司だからね。それに、開いたところで一般人には解読できない暗号文だよ。」
「…あの男は…どこまで腹黒いの…」
「准将は…担当相は、僕に彼女を会わせたかったみたいだよ。兄さんがアメリカから帰って来なくなって、急に僕を昇進させた。それ自体がミッションみたいで、笑えたけどね。」
フォサークはアイリスの手を取って、その甲に別れのキスをした。アイリスは複雑な表情で手を離した。
「ごきげんよう。アバコーン公爵。」
フォサークは不敵な笑みを浮かべて振り返った。
「まだ早いよ。ミス・フラー。」
そう冷たく言うと、ドアを出て行った。
二人が出て行き、アイリスはソファに向かった。
すれ違う瞬間、男が口を開いた。
「あんたのやり方は手ぬるいんだ、女優さん。」
用心棒がアイリスにコツコツと近寄り、その美しいアゴをツイと右手で自分に向けさせた。アイリスはその手を払ってクッと右眉を上げた。
「…汚らしい手で、触らないで。」
アイリスの見下したような態度に男は少し腹を立てたようだが、気を取り直して逆に見下すように鼻で笑った。
男はシャンキルのチンピラ上がりで、IRAを蛇蝎のごとく嫌っていた。
「俺ならもっとアイツらの痛いところを突くね。」
「勝手に動いたら、フォサークに消されるわよ。」
「あんなひょろひょろした野郎を恐れてるのか?なあ、俺たちだけでもっとあのキアラン・オニールを追い詰めてやろうぜ。」
「…冗談じゃないわ。あんたのミスに巻き込まれたくない。」
「おれは、キアラン・オニールに会ったことがある。ずいぶん昔だけどな。確か…菫色の目のガキだった。」
アイリスは男の目をじっと見た。
「なにを…考えているの?」
…主役がナカナカ出てこない…