フォゲット・ミー・ノット②
「最近、随分と遅く帰るそうだね。」
木曜日の朝、外出しようとしてファミリー・リビングに出ると父が居た。父は白髪のきちんと整えられた髪と口髭があり、イネスと同じ青い目をもつ紳士だった。ベルファストの邸宅は主に1階が来客用の大きなリビングやダイニング、厨房や客間など、2階にはファミリー・スペースが設けられていた。
「パパこそ、こんな早い時間に居るなんて、珍しいのね。」
両親は基本、家に居てもあまり顔を見ることはない。しかし、一人娘なだけに、生活は厳しく管理されていた。以前のように徹頭徹尾車で送迎、お付きのものが付いて回ることは無くなったが、それは姉に会うという前提があったからだ。
「私は反対したはずだよ。リーアムとの連絡役なんて、お前がする必要はないんだ。」
父が姉と何らかの関りを持つようになった際、姉がその連絡役にイネスを指定した。だが、父は脇腹の娘が本妻の娘に会うことを快くは思わなかった。
「…アマンダさんに、この間 会ってきたわ。」
アマンダとは、姉の母だった。姉が子供のころ病気になって、母親の治療費を都合してほしいとこの屋敷に初めて来たとき、イネスは二人の存在を知った。アマンダはそれ以来、ずっと病床にいた。
父は何の反応も見せずに葉巻をケースから取り出して、吸い始めた。
イネスがグレッグと再会した日、マーケットから出てきたのは隣接する病院にアマンダの見舞いをした帰りだった。
「あの女には充分に対応している。看護もつけてやって、一人でも生活できるようにしてやってるじゃないか。」
「パパ、それは本当に最低限のことよ。姉さんも10年以上この国を離れていて、あの人は今や記憶すら曖昧なの。」
イネスは姉の存在を知った15年ほど前の日、彼女はまだ幼かったが、その日を決して忘れなかった。クリスマス前に買い物に出ようとした雪のちらつく寒い夜、門の前にみすぼらしい姿の少女がいた。13~4歳のその少女は、出てきたイネスの送迎用の車に縋りついた。
「止めて!」
相変わらず母は外出中で、運転手と自分だけだったのが幸いした。イネスは車から降りて、その少女に駆け寄った。
自分より5歳ほど上に見えるその少女は、安物のセーターに汚れたコートを着てはいたが、驚くほど美しく、大きな目でイネスを真っ直ぐ見ていた。
「お願い。リンスター公爵フィッツジェラルド准将に会わせて。」
「パパに?」
「…あなた、娘なの?」
「ええ。」
「じゃあ、私の妹なのね・・・。」
その日、イネスは”リーアム”と名乗った少女を家に招き入れた。「姉」というのはあまり抵抗なくすんなりと心に落ちた。正直、上流階級の世界では当たり前にあることだったからだ。
しかし、父が深夜に帰ってくると、イネスはその現実を思い知った。
優しさから父が帰宅するまで屋敷に留まらせたが、「姉」に対する父の態度はひどいものだった。
いくばくかの金を叩きつけ、その少女を闇夜に放り出したのだ。
一人深夜に帰っていくリーアムの姿を、イネスは屋敷の窓からずっと見ていた。
だから、その後屋敷を抜け出してはその少女から聞き出した病院に顔を出した。
アマンダはブルネットの髪にがりがりに痩せこけてはいるが、大きな目が印象的で、恐らく若いころは飛びぬけて美しかったであろうと思われた。その姿はそっくりリーアムが受け継いでいた。
アマンダは恐縮し、何度も帰るよう促したが、月に一度は北アイルランドを離れるまで顔を出し続けた。
彼女はメイドとしてフィッツジェラルド家に仕えているとき、イネスの父との間に子をなし、屋敷を追われた経緯があった。
イネスは何より、時々病室で鉢合わせるリーアムに会いたかった。
無口で、あまり話はしなかったが、自分に姉がいたことが嬉しかったし、あの日の父の対応に引け目を感じていた。リーアムは見かけるたびに美しくなり、ある日ぽつりと病室の前で言った。
「わたし、ここを離れるの。女優になりたい。」
それが、ベルファストの病院で交わした最後の言葉だった。
リーアムは瞬く間に有名になった。
もちろん、気位が高いと悪評もあったが、イネスは遠くから姉を誇らしく思っていた。
父がベルファストを去ることになったのは、4年ほど前だった。
この屋敷はそのまま、もちろんロンドン郊外に元々一族が所有する屋敷もあったし、イネスはちょうど進学でケンブリッジ地方のガールズ・カレッジに入学することになっていたので、寮に入り、暫くベルファストを離れていた。
そして、先日数年ぶりに病室を訪れたイネスはアマンダの衰弱ぶりに心を痛めた。
「パパ、リーアム姉さんに、何をさせようとしているの?」
「お前には関係のないことだ。それより来月、アバコーン公爵家の次男が将校に就任した祝賀パーティーがある。それに出席しなさい。」
「絶対いや。お兄さまが出ればいいじゃない。」
イネスには兄が一人いた。前妻の子の兄とは15歳も歳が離れていたので、両親と同じように、殆ど顔を合わせることが無かった。
「お前がいかなければ、意味がない。」
「わたし、お嬢さんたちの品評会になんか、出たくない。」
「お前の将来を心配しているんだ。」
「パパは私の将来が心配なんじゃないわ、自分の地位を盤石にしたいだけじゃない!」
「イネス!」
イネスはコートを翻してファミリー・リビングを出て行った。
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「今日は帰らない。」
イネスはうつ向いてふくれた顔で言った。グレッグはびっくりして振り返った。
「だめだよ、それは・・・近くまで送っていくから、帰ろう。」
「あなたは、いつまで私を棚に飾っておく気なの?わたしはいつもいい子でいないとダメ?」
リビングのソファに座って、彼女は下を向いたままだった。グレッグは上着を羽織って送っていこうと支度をしているところだったが、ソファに戻ってイネスの隣に座った。
「お父さんと言い合いをしたんだろ。そんな気持ちのまま朝帰りなんて、君らしくないよ。」
「私らしいってなに?私だって、”ひばりじゃなくて、ナイチンゲールよ”ぐらい、言えるんだから。」
それはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の中の有名な一節だった。惹かれあった二人が一夜を過ごし、ロミオと離れたくないジュリエットが朝を告げるひばりの鳴き声を夜に鳴くナイチンゲールだと嘘をつく。
イネスは真っ赤になって更に顔を隠すようにうつ向いた。グレッグはいけないと思いつつ、その言葉を聞いて吹き出してしまった。
「…ひどい!」
笑い続けるグレッグにイネスは拳でどん、と叩いた。
「あはは・・・ごめん、あんまりにかわいいから・・・。」
彼はイネスの頭をぽんぽんと愛し気に軽くたたいた。
「ありがとう。でもね、今はダメだよ。俺はそんな時に付け入りたくないし。」
グレッグにとって、女性を扱うのは慣れたものだった。正直、関係を持った女の数など覚えていなかったし、興味もなかった。でも、彼にとってイネスは別格だった。大事に大事に、綿でくるんだように抱きしめていた。だから、おいそれと手を出すようなことだけはしたくなかった。
「さあ、帰ろう。」
イネスの肩を抱いて立ち上がり、玄関に向かった。