フォゲット・ミー・ノット①
イネスは小さいころから両親のそばにいることが少なかった。
物心ついたころから母親はいつもいなかった。いや、居ないわけではなく、社交に忙しくて子供はナニーに預けっぱなしの上流階級に両親も育っていたので、それが当然だと思っていた。父は仕事に忙しく、母よりも更に会うことは少ない。さすがに上流階級でたまに聞く”秘書を通して父親とアポを取り、会う”ことは無かったが、まれに見かける血のつながりのある大人、というのが簡潔に言葉で表した両親の形容詞だった。それでも時おり会う穏やかな両親と話すと、自分は恵まれていると思っていた。
「どうぞ。狭いけど・・・。」
グレッグに促されてフラットに足を踏み入れたイネスは、玄関ドアから短い廊下の先にあるリビングに出て、部屋をぐるりと見まわした。リビングは落ち着いたウォールナットの床に美しい青いラグが敷いてあり、その上にはクリーム色のクラシカルな柄の布ソファセット、モダンなガラスのスツール、向こうにグレーのマントル・ピースがあり、その上に立派な帆船の模型が飾られていた。決して広くはないが、センスの良さを感じる美しい色合いのリビングだった。
「誰もいらっしゃらないの?」
「だれも?親父は3年前に急逝したし、母は俺が物心つくかつかないうちに家を出たからね。」
「・・・家のものは?」
「家のもの?」
「お掃除とか・・・とてもキレイにしているのね。」
「・・・ああ、ごめん。全部俺が掃除もしてるよ。」
グレッグはここにきて、初めて彼女が誰のことを話しているのか理解した。イネスはメイドが居て当たり前の生活しか知らない。グレッグは少し、ため息をついてソファーの肘宛に腰を下ろした。
「君にとっては、メイドがいない生活なんて、見たことがないだろうね。」
「・・・そんなこと・・・あんまりキレイにしてるから、てっきり・・・ごめんなさい・・・。」
自分の生活が当たり前ではないことは、テレビの世界や本では知っていた。全くいわゆる”普通の生活”をしている人々と接してこなかったわけではない。しかし、”普通の生活”をしている人の住居に足を踏み入れたのは初めてだった。
「俺は、なんにも持ってないから・・・君にとっての”普段の生活”をね。」
「いいの、そんなこと。だって、腰板がこんなにきれいなブルーなのよ・・・。」
「え・・・?」
イネスはリビングの腰板にそっと触れた。美しい水色の腰板の上は、白とオフホワイトの縦じまの壁紙で、爽やかな色味だった。
「ああ・・・それはね、親父が死んだとき塗り替えたんだ。なんでだろう、一心不乱に塗ったんだ。この色の名前が好きで・・・。」
「自分で塗ったの!楽しそう・・・。」
「俺は空間デザインの仕事をしていたから・・・。いつかニュー・ヨークに行って、インテリアの仕事で成功したいと思っていたんだ。」
「私も、行きたい!」
イネスは勢いよくグレッグのところに戻ってきて、その目を真っ直ぐ見て言った。
グレッグは少し寂し気に笑って、その左手を取った。
「俺も一緒に行きたい。いつか。でもね、それがどういうことだか、分かる?」
イネスは彼女の左手を持ったグレッグの右手を両手で包んで祈るように胸の前に持っていきながら、彼をじっと見ていた。
「・・・分かってる。」
「全部、捨てなくちゃいけないんだよ。きみが育ってきた環境も、記憶すら・・・。」
「あなたがいる。それだけでいい。」
グレッグは左腕でイネスを抱き寄せた。
「そばにいてくれる人がいる。そんなこと、私の人生にはなかった。」
イネスの言葉を聞いて、グレッグは不覚にも一筋涙を流した。彼女の人生と、自分の人生が似ていることに気づいたから。孤独で、それを何とも思っていなかった。でも、知ってしまった。自分が一人だったこと、それから、今は一人ではないこと。
「お掃除だって、お洗濯だって、お料理だって、初心者だけどね。」
「いいんだ、そんなこと。君にさせられない・・・。」
「それは、だめ。一緒にするの。だから、教えて。私だって働きたいし。二人でするのよ。」
グレッグは自分の額をイネスのおでこにこつんとぶつけた。そして、ためらいながらキスをした。
「さっき、この腰板の色の名前が好きだって言ってたけど、なんていう色なの?」
「・・・フォゲット・ミー・ノット・・・」
小さな青い花の名前と同じ色に囲まれていた。二人はずっとその花と色の言葉の意味を、抱き合いながら噛みしめていた。