トゥルー・カラーズ③
兄と妹の生活は殆ど違った。
12年前の事件の後に、両親と暮らしていた家を引き払い、"エリン"に程近いフラットに兄妹で越して暮らしていたが、キアランは夜間に居ないことも多い。逆にゼルダは規則正しく生活し、昼の時間のみ、"エリン"のカウンター内側で洗い物や下ごしらえ、客が引いてからの掃除などを手伝っていた。
「ゼルダ、ちょっと出てきていいかな…?」
グレッグが申し訳なくゼルダに聞いた。ゼルダはにっこり笑ってそれに答えた。
「デートでしょ。どうぞ。イネスさんもいつも店の中より、たまには外を二人で歩きたいと思うわ。それに、私だって、コーヒーくらいは淹れて出せるのよ。」
「ありがとう。」
中には常連がコーヒーを飲みに来ることもあるが、基本は14時以降から17時までは店をクローズしている。
グレッグはいそいそと鏡に向かい、少し髪型を整えて出て行った。
ゼルダは洗ったグラスなどを丁寧に拭き、棚に戻したりしていたが、入口の鐘の音が誰かが入って来たことを告げたため、一瞬緊張して息を呑んだ。
現れたのは、兄の姿であった。
「ゼルダ、今日は1人なのか?」
「お兄ちゃん」
キアランは雨にそぼ濡れた前髪を掻き上げて払い、カウンター席に座った。
ゼルダは少しホッとして兄にタオルを渡した。
「お兄ちゃんに会うの、久しぶりな気がする。」
キアランは軽く頭や体の水滴を拭くと、ゼルダにタオルを返した。
「ごめんな、寂しくないか?」
ゼルダはクスッと笑いながらキアランを見た。
「お兄ちゃんがそんなこと気にするなんて、思わなかった。大丈夫です。心配していただかなくても。」
どうしても帰れない時もある。しかし、ゼルダの様子は見るように心がけていた。明け方に家に帰ると、寝息をたてているゼルダの姿をドアの隙間から見て、ホッとする。両親が殺されてから親のように接してきたが故に、心の片隅にはいつもゼルダの将来を按じる気持ちがあった。
「グレッグはどうした?」
「デートみたいよ。嬉しそうだった。鏡を一生懸命見ながら髪型を気にしてたわ。」
ゼルダはおどけるようにグレッグの髪を直す仕草のフリをした。キアランはそれを見て、笑顔でため息をついた。
「コーヒーをくれ。」
「まかせといて。グレッグよりうんと美味しいコーヒーを淹れるから。」
そう言うと、ゼルダは腕まくりをし、カウンターの中に入った。
「10年早いな。」
「ううん。もっとかもよ。」
「…とんでもないものが出てきそうだな。」
二人は目が合って、声を立てて笑った。一息つき、ゼルダがコーヒー豆を挽き始める姿をキアランはカウンター越しに片肘を立てながら眺めていた。
「…ゼルダ…大きくなったな…」
キアランの脳裏には、まだ両親がいた頃に、家に帰ると飛んできて足にしがみつくゼルダの姿が浮かんでいた。いつも抱き上げると今度は首にしがみつき、寝る前に絵本を読んでやった。10歳も歳が離れていると、兄妹というより自分の子供に近い感覚だった。
ゼルダをジッと眺めているキアランを振り返って、ゼルダは少し心配になった。
「…お兄ちゃん、顔色が良くないわ…」
キアランは肘をついている手で前髪をわさっと掻いて、首を振った。
「…疲れているんだ…。少し、休めば…少し…」
「休むって言ったって、のんびり寝ているところ、見たことないわよ。だいいち…」
言いかけて振り返ると、キアランは肘をついたまま、ウトウトと寝ていた。
「…だいち、どこにいたって、緊張してて眠れないくせに…。」
ゼルダはカウンターを出て、店にあったブランケットをそっと彼に掛けた。
「…そうよ、私 大きくなったわ。働いて、ちゃんと生きて行ける。いつまでもお兄ちゃんの後ろに隠れているわけにはいかないの…」
ゼルダはそう呟くと、静かにカウンターの内側に戻り、キアランに背を向けて再びコーヒを淹れ始めた。店内を挽きたてのコーヒーの香りが包んだ。
そんなカウンター席に、物音一つ立てずに近づく影があった。その影は、慎重に一歩ずつ近づき、空気さえ振動しないように寝ている彼にゆっくりと手を伸ばした。
その手が触れる瞬間、キアランは身を翻し、椅子から立ち上がって素早く隠し持っていた銃を抜き、その影に向けた。
ゼルダが"ガタッ"という音に振り向くと、いつの間にか兄が起き、女の額に銃口を向けていた。
キアランは女を鋭い目で見据えながら、冷たく言った。
「…誰だ、お前は…」
ゼルダはその女に見覚えがあった。
「お兄ちゃん、この人はキャスリーン・フラー。ハリウッド女優よ。危険な人じゃないと思うわ。お願い、銃を下ろして。」
「女優…」
「そう。確か、ベルファスト出身の、カトリックなの。」
キアランは訝しがりながらゆっくりと銃を下ろした。その女の顔は以前ここでも見かけたことがあった。女優は緊張から解放されて、ホウッと息をついた。
「びっくりしたわ。映画ですら銃を突きつけられたことはなかったのに…」
それでも睨んでいるキアランに替わって、ゼルダが頭を下げた。
「こめんなさい…」
キアランは女優を睨んだまま元のカウンター席に腰をかけた。
「…女優が、なぜ俺の背後に忍足で近寄る必要があるんだ。」
「驚かせてしまったかしら…内容が内容だけに、あなたと話せる機会を窺っていたの。…わたし、あなたに情報を持ってきたの。」
「情報?」
「ええ。今回わたしが10年ぶりに帰国したのは、あなたに会うため…IRAの活動家のあなたに…」
「…何のことだ?」
キアランは興味がないといった風情で女から目を逸らした。
女はフッと笑って斜めから彼を見た。
「いまさらトボケないで。ここら辺じゃ、あなたは有名人よ。もちろん、アメリカのアイリッシュ・コミュニティでもね…。」
キアランは無言で女を見つめていた。
「・・・警戒してるなら、すればいいわ。でも、わたしはその子が言った通りベルファストの貧民街で育ったあなたの同志。アメリカのアイリッシュ・コミュニティーでマクスチョフェインと知り合って、女優という隠れ蓑を見込まれて、彼から連絡役を仰せつかったの。」
スカルから聞いた情報によると、この時、マクスチョフェインはベルファスト国際空港の入出国管理が厳しくなり、北アイルランドに戻ることがなかなか出来ないでいた。
「・・・どういうことだ?」
「彼から急いであなたに伝えてほしいと・・・。ウルフ・マクギネスのことよ。」
キアランは慎重に女の目を見た。女はゆっくりとタバコを取り出し、もったいぶって火をつけた。
「あの男は、イギリス政府と通じているわ。アメリカの諜報機関を通じてMI5の動向が伝わったそうよ。ケネディファミリー始め、アメリカ政府にはアイリッシュが幅を利かせてきているから…。」
女は煙を吐き出すと、くゆる煙を眺めた。
「CIAはね、世界中のあらゆる機関に潜入し、友好国だろうが、そうじゃなかろうが、それぞれの国の中枢にいる人物たちの弱みを握ってる。今のイギリス政府の公式な立場は、基本的に北アイルランド問題には直接介入しない方針だといわれているわ。でも、フォークランド紛争の動向を見ても、どう考えてもイギリス政府は手にしているものを簡単には手放さない。」
「ところが、アメリカのアイリッシュはIRA同様に二手に分裂している。すっかりアメリカの立場からイギリス政府に肩入れするもの、方や祖国の独立を望むもの…。」
「マクスチョフェインは協力派の情報のもと、MI5が動き始めていることを知ったの。内務大臣の指令により、密かに北アイルランド担当相が入国して、MI5の諜報活動を指令している。…ウルフ・マクギネスは、その北アイルランド担当相と連絡を取り合っているのよ。アメリカにすっかり洗脳されてね。」
「ウルフは、そんな人じゃない!」
ゼルダは黙って話を聞いていたが、堪え切れず女優にきっぱりと言い放った。
「突然現れた女の言うことを、俺たちが丸呑みすると思うか?」
キアランは冷たい目で女を見た。女はタバコを灰皿にひねると、目を伏せてニヤリと笑った。
「・・・信じるか、信じないか・・・それはあなたの勝手よ。」
そういうと、ツカツカと出口に向かった。
”エリン”は静まり返り、ゼルダもキアランも黙りこくったまま女優が出て行くのをじっと見ていた。
店の外には細かい雨にそぼ濡れたムーアが立っていた。険しい顔は血の気を完全になくしていた。
アイリスは見下すようにその姿を眺めた。
「・・・キアランは、お前の言うことを信じたのか?」
「さあ・・・でもね、ダメ押しはしてあげたわよ。不信感でいっぱいの心の隙間をしっかり埋めてあげた・・・。人はね、自分の情報をつなぎ合わせて、その隙間に人から得た情報をピースのように当て嵌めていくの。そして、ストーリーを作っていく。役者の役作りのようね。だけど・・・その情報を自分の目で確かめたわけじゃないのにね。」
アイリスは気味が悪いほど美しい笑顔を作り、笑った。
「あとは・・・あなたが次の計画の時、敵に捕らわれたふりをしなさい。あなたを助けに来るかしら?それとも、情報漏洩を恐れて、殺しに来るかしら?楽しみね・・・おびき出して奴を亡き者にすれば、あなたは親子ともども自由の身・・・。いずれにしても、せいぜい哀れに、助けを乞うことね。」
ムーアは完全に表情をなくし、唇はガタガタと震えていた。
「・・・・・お前は・・・・悪魔のような女だ・・・。」