白い霧の朝
ウルフがアメリカに移住する前です。
「アメリカの親戚のところへ行くんだ。親父が向こうの大学を紹介されて。」
ボソッと呟やいたウルフにキアランは振り向いた。一瞬、なにを言われたか分からない、という顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。ベンチらしき所に座っているが、まるで周りは霧の中のように煙った場所だった。ウルフはずっと言えなかったことを言え、制服のネクタイをゆるめて、少し緊張が解けたように"フーッ"と息を吐いた。キアランは何かを言いかけたが、遠くからグレッグとムーアが呼ぶ声が聞こえてきた。
「キアラン、ちょっと来てくれよ!」
遠くで二人は楽しそうに笑いながらキアランを呼んだ。
「…そうか。」
キアランは言いかけていた言葉を丁寧にしまうようにそう言い、制服のズボンのポケットに両手を入れて、振り向かずに二人のもとへ歩いて行った。しかし、ウルフにとってはそれがありがたかった。生まれ育った場所を離れ、新しい土地に行く。多分、心に触れるようなことを言われたら、弱音が吹き出しそうだった。
「あいつは、分かってるんだな…。」
ウルフが頭をクシャクシャと掻いた時、後方から小さな少女がキアランの後ろ姿を追って走り出したが、すぐに転んでしまった。
「ゼルダ!」
ウルフが駆け寄り、ゼルダを抱き起こした。ゼルダはヨレヨレになった20センチほどの犬のぬいぐるみを右手に持ち、大きな菫色の目を少し涙で滲ませていた。
「ウルフ、ベルファストからいなくなっちゃうの?」
「うん。でも、キアラン兄ちゃんとヨハンはいつもゼルダの側にいるだろ。」
ウルフはゼルダのスカートについたホコリをはらい、ぬいぐるみのヨハンをチョンチョン、とつついてゼルダに笑いかけた。
「お兄ちゃんは、ゼルダをいつも守ってくれる。」
俺の方を見たくなかったはずだから、転んでいるところは見てないんだろうな。見てたら、年の離れた小さな妹のために血相変えて飛んでくるぞ、とウルフは思った。
「違うの。お母さんに、いつもお兄ちゃんのそばに居なさい、って言われてるの。お兄ちゃんは……だから…。」
ゼルダはウルフの目を真っ直ぐ見て言ったが、どうしても最後が聞き取れない。
「お兄ちゃんは、……だから……。」
ゼルダの姿が濃い霧にかき消されていった。
ウルフは見慣れない天井を見て、自分がどこにいるかすぐには分からなかった。
「あ…俺、ベルファストに帰ってきたんだっけ…。」
ぼんやりと朝の日差しがカーテンから覗く。小さなホテルのソファで横になっていた体を起こし、ボサボサの髪を掻きながらツインのベッドの片方を見ると、ちゃんとミアが幸せそうにイヌのぬいぐるみを抱えて寝ていた。
「ああ、あれ、ヨハンに似てるな…。」
ウルフはあくびをしながらミアが昨日欲しがったぬいぐるみを眺めた。
昨夜は友人からの手紙をソファで読んでいるうちに寝てしまったようだった。今や軍服を着た兵士が街中で自動小銃を構え、日々テロに怯えるこのベルファストの街も、ウルフにとっては懐かしいホームタウンだった。
「珍しい…少し陽射しがあるな。」
アイルランド島は常に天気が悪い。ジメジメと小雨が降って、気温もあまり上がらない。そんなことですら、ウルフにとっては懐かしかった。
「おはよう、ウルフ〜。」
ミアがいつのまにか起きて、目をこすりながらベッドの上にちょこんと座っていた。
「よーし、ミア。朝ごはん食べに行こう。」
「もう、昼近いよ〜。どこへ行くの?」
「もちろん、"エリン"にだ。」
ミアは昨日のことを思い出して、一瞬 ウルフをバツが悪そうに見上げた。ところがウルフは全く気にせず、何事もなかったように満面の笑みを浮かべていた。
「ヨハンも一緒にな。」
そう言うと、ベッドに置かれたぬいぐるみをポンとミアの頭の上に乗せた。
「ちがうよ〜。ジョンだよ〜。」
振り返って頭の上にあるぬいぐるみを眺め、ウルフは吹き出し、大声で笑った。ミアには何がおかしいのか、さっぱり分からなかった。
舞台版にはない回想シーン。