琥珀の封印(番外編⑥)
遅い時間に玄関を叩く音がした。ベルは怯えてドアを少し離れたところから見た。
「開けて…俺。」
ウルフの声だった。ベルは戸惑ったが鍵を開け、扉を開いた。すると、顔を見る間も無くウルフがベルに抱きついてきた。
「どうしたの?何かあったの?」
ウルフは何も言わなかった。
「扉を閉めるから、一旦離して。」
そう言い、玄関の扉を閉めた。ウルフは廊下の壁にもたれ、制服のズボンに手を突っ込んだまま、顔を伏せていた。距離を置いているつもりだったが、ウルフがあまりに重い空気感を漂わせているのを感じ取り、仕方なく事情を聞こうと話しかけた。
「なんでそんなにふてくされてるの?」
体を斜めにして下から覗き込み、彼の頭をポンポンと叩くと、ウルフはその左手をつかんで、そのままベルを引き寄せた。いつもよりも濃厚なキスをしはじめ、苦しくなってベルが唇を離した。
「子供扱い、するなよ。」
「しないよ。出来ないじゃない。」
ウルフはベルをスッと抱き上げ、ベッドに運んでいった。
「ちょっと、待って!いくらなんでも、それはダメ!」
ウルフは唇でベルの口を塞いだ。
「子供扱い、しないんだろ?」
そういうと、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを取り、ワイシャツのボタンを開けた。
「もう、ムリ。我慢できないし。」
「なに言ってるのよ、私、犯罪者になっちゃうって!」
「だよね。セカンダリーをたぶらかした大学生のお姉さん。」
ウルフはベルの首元に唇を這わせ、服の中に手を入れてきた。
「あの…ねぇ、ちょっと 慣れすぎじゃない?」
「だって、初めてじゃないもん。」
「はぁ?こらっ、セカンダリー!」
「なに、初めてだと思ってたわけ?俺、結構モテるんですけど。」
「セカンダリーのオモチャになる気はないから!」
ベルはベッドから降りて、胸元を直した。
「してるじゃん。子供扱い。」
「だから、どうしたのよ。変だって。」
「いやなら子供なんかとキスするなよ。」
「いやなわけじゃないよ。ただ、そういうことは責任が伴うでしょ。」
「じゃあ、俺はなんで生きてるんだ。」
ウルフはベッドの端に座り、右手で目の周りを覆った。
「俺は、不義の子だ。責任、とらなくて良かったのかよ。」
ウルフは恐らく、泣いているようだった。ベルはため息をつくと、ウルフの隣に座り背中をさすった。
「親父は知っていた…。俺が自分の子ではないことを。俺の本当の父親は、IRAの活動を引っ張っていた男のようだ。手紙を読んでしまったんだ。」
カトリックは中絶できない。この世界では私生児を抱えて生きていくのは困難だ。理由は容易に想像がつく。しかし、あのウルフの父が母を愛していたのは事実だ。
「マクギネス先生は、あなたやお母さまをあんなに愛してるじゃない。いつだってあなた達の話を嬉しそうになさるのよ。お父様と血が繋がっていないことがショックだったの?」
「愛って、何だ?!そんなの、不確かで、目に見えなくて、いつだって不安定な、壊れやすいものじゃないか!」
「でも…あなたは今まで、それに守られて生きてきたじゃない。」
ベルの言うことは、客観的で的確だった。ウルフはそう言われて、自分の甘えを指摘された気になった。
「あなたがこの世に生を受けたのは神様の思し召し。"私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です"」
ベルは聖書の一節を吟じた。
「でもね、守ってきたのは、あなたのご両親。知ってるでしょ。本当は罵ることではなく、感謝しているんだってことを…」
日々を送る毎に、それは置き去りになる。この命は、誰のものだろう?心の奥にあるのは、人を傷つける言葉ではない。
「ちゃんと愛されて産まれてきている。それだけで充分に幸せ。それから、私も、あなたが産まれてきてくれたことに感謝してる。」
ベルはウルフの顔を両手で自分の方に向かせ、キスをした。そして上衣を脱いだ。今度はウルフも無理やりではなく、ゆっくりとベルの背中に手を回した。
それから、昼も夜も二人は殆ど部屋から出ず、ずっと二人だけで過ごした。食事も最低限で、時々、離れようとするとウルフがその手をとり、ベルを引き寄せ、意識を失いそうになるほど抱きしめた。それは彼にとって傷を癒す時間なんだろうとベルは思ったので、抱き締められたまま黙ってウルフの背中をさすり続けた。
3日ほど経った早朝、玄関をダンダンと激しく叩く音が響いた。ベルは眠い目を擦りながら上着を着てドアの前に立った。
「どなたですか?」
聞いても返事がないので、ドアスコープを覗いてみると、以前マクギネス家の書斎で何度かウルフと一緒に居たのを見かけたことのある、菫色の目の少年だった。
ベルは少し迷ったが、小さくドアを開けた。
「ウルフはいますか?」
キアランはベルの目をキッと見て尋ねた。ベルは戸惑いを覚え、返事ができなかった。
「居るんですね。」
そう言うとベルを押しのけ、部屋の中まで入ってきて、まだ寝ているウルフを見つけ出した。ウルフはその騒ぎに上半身を起こした。
「キアラン…」
キアランはいつもの無表情だが鋭い目でウルフを見ると、ベッドサイドに掛けてあった制服のジャケットを掴んで、それを彼に投げつけた。
「ジャケットを着ろ。帰るぞ。」
ベルはその光景をキアランの背後から見ていた。
「お願い、もう少しだけ、待ってあげて。」
そう言うベルの言葉が耳に入っているかいないか、キアランはウルフの胸元を引っ張って立たせ、腕を掴んで寝室から叩き出した。そして、二人をジッと見た。
「…逃げるな。」
そして再びウルフの腕を掴むと、玄関へツカツカと進んだ。
「聖母病院に夜中、お前のお袋さんが事故にあって運び込まれた。もう、虫の息だ…。」
ウルフは目を見開いた。持っていたジャケットを羽織り、血相を変え玄関ドアを走り出ていった。
ウルフは走りながら母の顔を思い出していた。俺は、何を言った?あの人に、どんなことをした?罵って、傷つけて、侮辱して…でも、そんなのは甘えだ。本当に伝えたかったのは、本当に言いたかったのは…
病院に息を切らしながら着くと、そこは早朝のため、人の気配がなかった。しかし奥を見ると、長い廊下の先の長椅子に誰かが腰掛けているのが分かった。側に行くと、それはウルフの父だった。
「…父さん…母さんは…?」
震える声で父に話しかけると、父は顔を上げた。涙でそぼ濡れたその瞳は、虚脱感を漂わせていた。その表情を見ただけで、ウルフは状況を察知し、その向かいにある病室に飛び込んだ。
病室は丁度看護婦が全ての器具を取り外し終えたところだった。カーテンが閉められた病室は暗く、間接照明が照らし出す母の遺体は、まるで作り物のように見えた。ウルフは心臓の音を全身で感じながら、母が横たわるベッドに近づいた。母の顔にはアザがあった。頭部は覆われ、裂傷があろうことが見て取れた。彼は震える手でそのアザに手を伸ばし、母の顔を撫でた。まだ頬は温かく、それを感じた瞬間、今まで忘れていたかのように涙がボロボロとこぼれた。
「母さん…母さん…俺、謝ってないよ。」
ウルフはベッドサイドに膝から崩れ落ちた。
「ごめん…ありがとう、何度でも言うから、ちゃんと聞いてくれよ…」
そのまま、泣き崩れた。後から来たキアランとベルは、その姿を病室の外から見守っていた。
外は厳しい寒さに全てが凍てつくような木枯らしが吹いていた。
それからの日々は記憶が飛び飛びだった。ウルフが鮮明に覚えているのは、教会の柩に横たわる、バラに囲まれた母の顔だった。アザは隠され、死化粧をされ、ウルフが見たことがないような赤い口紅を指されていた。母は美しい人だったんだな、と初めて気づいた。
元々身内の少ないマクギネス家の葬儀は、徹底して少人数で執り行われた。それでも最後に花を手向けようと、キアランの両親、グレッグの父、ムーアの両親が次々と訪れた。
キアランは両親と祭壇に花を手向ける際、うつむいたままのウルフに近づいた。
「…少し、外の空気を吸いに行かないか?」
そう言うと、ウルフを教会の外に連れ出した。
うなだれているままのウルフと外のベンチに座り、長い間黙っていた。
「…俺のせいだ…」
ウルフが抜け殻のように呟いた。
「俺が、家を飛び出していなければ、俺がすぐに家に帰っていれば…母さんが俺を心配して探し回っている間、俺はベルに夢中になって、自分を憐れんでいた。俺のせいだろ!」
人から聞いた話では、あの日以降、夫婦は仕事を終えてから夜の街にウルフを探し回っていた。母はその途中、事故に遭って命を落とした。
キアランはウルフの方を見た。
「…そうかもしれないな…それがお前の原罪なら、それを抱えて生きていくしかない…。」
ウルフはうつ向いたまま、キアランの言うことを聞いていた。長い長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「俺は、お前のそういうところに救われる。慰めてなんか、くれないところに…。」
キアランは大きくため息をつくと、ウルフの背中をぽんぽんと叩いた。
その二人を遠くから喪服姿のベルが見ていたが、しばらくすると振り向き、教会には入らずに帰っていった。
葬儀の後、自宅にひっそりと父子は帰った。話す言葉もぽつぽつと必要なことのみだったが、父がウルフに声をかけた。
「書斎に来なさい。話があるんだ…。」
父は書斎に入ると、自分の大きなデスクの引き出しを開けて、一枚の写真を取り出した。
「これが、君の本当の父親だよ。」
そういうと、セピア色の写真に写った7~8人の青年の一人を指さした。その青年の面影は、どこかウルフに似ていた。彼を挟んで左に父、右に母が写っていた。キアランの父やグレッグの父、ムーアの父も写っていた。
「彼はね、頭が良くて、スポーツ万能で…誰にでも気遣いのできる、僕たちのリーダーだった。年代はバラバラだったけど、ぼくらはよく集まっては酒を酌み交わし、政治のことから恋のことまで、たくさんの話をしたものさ。クレアと彼が愛し合っていることは、仲間内では誰もが知っていた。クレアはちょっと変わっていたけど、話をするとたちまちに相手を魅了してしまう、不思議な女性だったんだよ。僕は学科や年こそ違え、彼女と同じ大学だったし、彼、レオンとも気が合ったから、いつも一緒にいた。」
ショーンはデスクの椅子に座ると眼鏡を外し、懐かしそうに微笑んだ。
「だけどね、僕らが生まれたのは正に1920年のアイルランド統治法前後で、青年期にはIRAとRUC(アルスター警察)の対立が度々あった。レオンはIRAの若き指導者の一人だったけど、本音では暴力的な闘争に反対だった。」
「ところがある日、血の気の多い連中が小競り合いからRUCのパトカーを襲い、激しい銃撃戦の末、相手方の一人が死亡した。その時、運悪くレオンは彼らと一緒にいた。僕は今でも、彼はそこに居た連中をなだめようとしていたに違いないと思っている。」
「だが、結果的にレオンも含め6人が捕まり、全員に死刑が言い渡された。しかし、南の嘆願や、イギリス、アメリカ、プロテスタントの僧侶までそれに抗議したことによって、5人は減刑された。唯一、レオンを除いてね…。」
ショーンは大きくため息をついた。
「北アイルランド政府は、レオンをスケープゴートにした。いや、見せしめ…かな。若く、人気のある指導者をね。彼は、わずか5ヶ月後に死刑を執行された。」
ウルフは自分の実の父親の運命に愕然となった。
「その頃には…クレアのお腹に、君がいた…。二人は、結婚するつもりだったんだ。」
父は涙を流しながら遠くを見ていた。
「カトリックの世界では、中絶はできない。勇み足は否めないけど、彼らは深く愛し合っていたから、クレアは一人で産むと言った。僕は彼女を説得した。僕と結婚して、僕の子として育てれば、子供も冷たい目で見られることはない、とね。彼女は悩んで、悩んで、僕の申し出を受け入れることにした。君のために…。」
流れ落ちる涙をせき止めるように、ショーンは右手で目頭を覆った。
「…僕は、君たちを利用したんだ。僕は本当はクレアをずっと密かに想っていて…ただ、クレアに側にいて欲しかった。例え、愛がない結婚だと、分かっていても…」
ウルフはずっと黙って聞いていたが、デスクに歩み寄り、父の正面に立った。
「父さん、違うよ…母さんは父さんのこと、愛していた。俺に言ったんだ。"時間が育む愛は、何よりも換え難いものだ"って…。」
抑えていた感情を一気に放流するように、父は嗚咽を隠さなかった。ウルフは父に近づき、しゃがんでその膝に手を置いた。
「父さん、ごめん…。俺、どうすればいい?どうすれば償える?」
そう言うと、ハラハラと涙を流した。父は息子の顔を見て、その頭にそっと手を置き、微笑んだ。
「私たちは、君に会えて幸せだった…。小さな君を膝に乗せて話をする時、3人で食卓を囲む時、夜 クレアが君に天体の話をする姿をそっとドアの隙間から見る時、僕は毎日レオンに感謝した。僕たちに大きな恵みをくれた君からの償いなんか、いらないんだ。」
父はウルフを抱き寄せた。
「大丈夫だ、ウルフ。君はレオンの血を引いているんだ。強くて、逞しくて、優しい…。よく聞いておくれ、クレアが死んだのは、君のせいじゃない。運命なんだ。ただ、覚えておいてほしい。彼女の望みは、君が信念を持った人間に育つことだった…。生きていくんだ。どんなことがあっても…」
父の肩の向こうに窓の外をぼうっと眺めた。外は珍しく雪がちらついていて、隣の建物の煙突から昇る煙が、高くたかく空に伸びていった。
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ベルはずっと部屋から出れないでいた。
教会でウルフの姿を見て以来、彼に会いに行ってはいけないと感じていた。
部屋の中はまだウルフが居た痕跡があって、毛布にも、タオルにも、ソファにも彼の香りが残っていた。
自分がウルフの家に連絡を入れなかったこと、本当は彼を手放したくなくて、あのまま閉じこもってしまいたいと思ってしまったこと、それが大人のルールから外れていること、全部わかっていた。
距離を置いていた分、二人で過ごした何日間かの後遺症は酷かった。
毛布を掻き抱き、ずっと、ずっと一人で泣いていた。
そんなある日、トントン、と玄関の扉を叩く音がした。
「ベル…俺…。」
ウルフの声を聞いて、玄関に走った
「開けないで!」
玄関を開けようとして、鍵をガチャリと解除したとき、ウルフがそう言った。
「ごめん…身勝手なのは分かってる…。でも、君の目を見たら・・・君に触れたら、俺達はここから先に進めなくなる・・・。」
ベルはドアに頬を寄せてウルフの声を聞いた。
「俺が悪いんだ。全部。いつも子ども扱いするなって言ってたけど、おかしいよな、本当に子どもなんだから…。」
ウルフは扉の向こうで、ベルが扉に頬を寄せているのを知っているかのように右手をそっと置いた。そして、扉にキスをした。ベルは一言も発することができないで、声を殺して泣いていた。
「”愛してる”って、なんだろうな。時間が経ったらわかるのかな…。」
そして、涙で詰まった声を絞り出すように最後に言った。
「…ありがとう…。」
扉の内側でベルはウルフの気配が去っていくのを感じ、泣き崩れた。
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長い長い冬が終わる頃、ウルフはキアランと公園のベンチでムーアとグレッグが遠くで笑いながらふざけ合っている姿を眺めていた。
「アメリカの親戚のところに行くんだ…。親父が向こうの大学を紹介されて…。」
キアランは一瞬、何を言われているか分からない、といった顔をした。
その日は、春霞のような霧の立ち込める午後だった…。
次回以降、本編二幕に入ります。