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エリンの大地に  作者: 倉崎りん
第一章 白い花
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琥珀の封印(番外編④)

「琥珀の封印」シリーズは、13年前、ウルフがベルファストを去ることになったきっかけ、及び彼の出生に関する内容です。

「准教授はいらっしゃいますか?」


玄関ドアを開けたウルフは彼女を見て、全てが止まって見えた。


「あの、息子さんですよね。ベルナデッド・デ・ロウリインと申します。レポートに必要な書籍を借りに来たんですけど…。」


栗色で腰まで届くサラサラの髪、グラデーションのグレーの瞳は印象深くて不思議な光彩を放ち、陶器のように滑らかな頬をしていた。


「え、あ はい。どうぞ。父は会合に出てて居ませんけど、書斎はどなたでもお通しするよう言われてますから…。」


案内しようとして、招き入れると、セカンダリースクールで既に長身なウルフよりも小さく、小柄な感があった。


「父の学校の生徒さんですか?」


「ええ。今、3年です。今年度からマクギネス先生にお世話になってて…。」


それがベルと交わした初めての会話だった。


その日からベルは時々マクギネス家の書斎を訪れるようになった。言葉を交わすのは挨拶程度で、彼女は真剣に蔵書を確認しては中身をパラパラと(めく)り、ここにしかない貴重な書物を借りて行った。


ベルが書斎に出入りするようになって1~2か月経ったある日、何冊か書籍を積み上げた前で彼女が腕を組んで考えこんでいた。


「…それ…全部持って行く気?」


書斎の奥に片膝を立て、椅子で本を読んでいたウルフが右手を口に当てながらベルに話しかけた。


「…そうなんです…。でも、今週中にレポートを出さなければならないので…。もう一回 来ようかな…。」


ウルフは椅子から立ち上がると、デスクに積まれた本の3分の2を抱えた。


「どこ?家…」


ベルは嬉しそうに笑顔を見せた。


「ありがとう!助かる。お願いします。」


そう言うと、残りの本を抱えた。


マクギネス家を出て暫く歩いて、ベルは混住地区のフラットに入っていった。道すがら、自分はベルファスト出身ではなく、父がフランス人の弁護士で、母がアイルランド系、両親はアーマーに住んでいて、4人兄弟の三番目。大学入学で一人暮らしを始めたと語った。父の出身のブルターニュに小さいころからバカンスに行くと、カルナック巨石群を見るのが好きで、このアイルランドの地からケルトの文化が大陸に繋がっているのを知り、民俗学に興味を持ったと語った。


「マクギネス先生の本を読んで、あの大学に入りたいと思ったの。」


嬉しそうに父の話をひたすらしていた。


フラットに着き、鍵を開けて二人はダイニングテーブルに書物を置いた。ベルの部屋はさっぱりとしていて、白を基調にした、女性らしい部屋だった。


「座って。お茶ぐらいはお礼に出さないとね。」


そう言うと、コーヒーを淹れ始めた。一人暮らしとしては少し広めのキッチンいっぱいにコーヒーの香りがした。


「はい。どうぞ。」


出てきたのは、ミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレだった。ベルは自分の前にはブラックをコトリと置いて、満足そうに薫りを嗅いだ。


「あの…ごめん、なんで俺はカフェオレ…」


「え?だって、ミルク入ってないと、夜ねれなくなっちゃうでしょ?」


「はぁ?子供扱いかよ!俺は、ブラックしか飲まないし。」


「え、うそ、ごめんね。大人への訓練中かぁ。」


「ちがう!甘いものが苦手なんだよ!」


「そんなにムキになって怒らなくても…。」


ベルは少し口を尖らせて、シュンとうつむいた。ウルフはその姿を見て、心の奥が何かの糸でキュッと締められたような感覚を覚え、じっと見てしまった。


「もう、いい。帰る。」


顔を見られるのが嫌で、振り向いて真っ直ぐ玄関を出て行った。


「ありがとう。ごめんね。」


背中からベルの声が聞こえてきた。


それから暫く、ベルはマクギネス家に姿を現さなかった。レポートの提出がある、と言っていたのを覚えていたが、ウルフは家に帰ると毎日書斎を覗いた。


ある日学校から帰ると、母がダイニングテーブルで頭を抱えて唸っていた。


「どうしたの?母さん。」


鞄を下ろすと、ウルフは母に尋ねた。


「大学にすぐ書類を持って行かなければならないのだけど…今、アメリカのホイップル博士の研究所からここに折り返しお電話を頂くことになっていて、動けないの…。」


「…俺、行ってきてもいいよ。研究室までは分からないから、事務室に届ければいいい?」


「ありがとう。助かるわ。今、大騒ぎで誰も手が離せなくて、取りに来れないみたいなの。事務室には連絡を入れておくから…。」


両親が務める大学には何度も行っていた。自宅からも近いし、届け物も度々あったので、迷うことなく事務室に書類を出し、ウルフはキャンパスに出た。門に向かおうとした時、少し遠くに見慣れた二人が並んで歩いているのが見えた。その二人の姿がハッキリわかり、自分でもよく分からない感情がもやもやと立ち昇るのを感じた。


「あれっ?息子さんじゃないですか?」


ベルがショーン・マクギネスに言った。同時にウルフに向かって手を振ったが、ウルフはこっちを向いていたはずなのに(きびす)を返して行ってしまった。


「ウルフだったかい?」


「だと思うんですけど…。先日、本を運んでくれたんです。その時、ちょっと怒らせちゃいまして…。」


「気にすることはない。彼はそういう年頃なんだよ。じゃ、私は会議があるので…。」


「はい。ごきげんよう…。」


マクギネス先生にはああ言われたものの、あんな態度を取られると、非常に気になった。自分では年上としての気遣いをしたつもりだったが、怒らせてしまった。あの日から少し気にはなっていた。


「まずかったのかなぁ…」


ベルは本を抱えてため息をついた。


********************


母に頼まれて大学に書類を届けた日以来、何故か父を見ることができなかった。父はなにも悪いことはしていない。今でもウルフにとっては優しい、理解のある、一番尊敬している存在であるのは確かだった。原因は、最近自分でも何となく分かっていた。書斎を開けた先には、ベルの姿があった。


ウルフは何も言わず、少し離れた書棚から一冊の本を取り出し、床の絨毯(じゅうたん)に腰を下ろして読み始めた。


「ケルトの花刺繍…?」


気づくとベルがしゃがんでウルフの背後から読んでいる本を覗き込んでいた。


「うわっ!」


ウルフは一瞬で真っ赤になった。当然、中身など読むつもりがなかったからだ。ただ、ここにいる理由が欲しかったのだ。ウルフが閉じた本に手を伸ばしてそれをめくり、ベルはその隣に座った。


「綺麗ね。こんな図案が昔からあるのね。」


ウルフは何も話せなかった。彼女の隣にいるだけで鼓動が早くなり、なにも考えられなくなった。


「この間、大学に来てたわよね。見かけたから声をかけようと思ったんだけど、行っちゃったから…。」


ベルが話しかけてもウルフは反対を向いたままだった。


「あっ、もしかして、ヤキモチ焼きましたか?教授と歩いていたから。かわいいな〜セカンダリーは。」


ニッコリ笑いながらベルはウルフをからかった。


「そうだよ。」


ウルフはそっぽを向きながら答えた。予想してなかったその返事に、ベルは驚いて真っ赤になった。


「しょうがないなぁ。憧れのお姉さんか。」


ベルが言った言葉は照れ隠しだったが、ウルフには自分を子供扱いしているように感じられた。


「違う、そんなんじゃ…」


振り向いて反論しようとした時、顔を赤くしたベルの瞳を見てしまった。言葉が出てこないまま、無意識に彼女の頰に手を伸ばしそうになって、それを引っ込めた。


「情けないけど、怖いんだ…。触れるのが…。」


ベルは細く小さい両手で大きなウルフの右手をそっと持って、自分の頬に当てた。二人はどちらからとなく近づき、唇を合わせた。まるで、堰を切ったように、息をするのを忘れるほどに、長いキスをした。ベルの唇は触れている感触が薄いほどに柔らかかった。頭の中は真っ白で、ここがどこか、誰か入ってこないか、そんなことも考えられなかった。しばらくすると、ベルがウルフの口を両手で塞いだ。


「はい、ここまで。」


ベルは立ち上がってクールに言った。


「わたしも怖いから…。」


ウルフは頭を掻きながら、不満げに口を尖らせた。


「じゃあ、ハグだけ。いい?」


ベルは満面の笑顔で首を縦に振った。ウルフも立ち上がり、ベルをそっと抱きしめた。それはウルフが今まで触ったことがない柔らかさだった。髪からは林檎の花の香りがした。


その日以来、二人はただひたすらお互いが吸い寄せられるように会い続けた。もちろん、人前では距離を保とうとしていたが、(はた)から見てもその空気感は他者を排除していた。


ある日、いつものように書斎でキスをしていると、扉が開いてキアランが入ってきた。キアランは無言で書棚を見始めた。ベルは書類を持つと、静かに書斎を出て行った。後にはぼうっと切なげに遠くを見たままのウルフがいた。


「のめり込みすぎだぞ。」


キアランが(いさ)めるように言った。ウルフも心の何処かで分かってはいた。好きだとか、愛しているとか、そんな言葉に当てはまるかは全く考えられなかった。ただ、心の中がなにも見えなくなるくらいベルのことで占められ、ひたすら抱き合っていたいだけだった。


「どうしたらいい?どうすれば気持ちを止められる?」


ウルフはキアランに訴えた。


「…お前は、そんな状態を望んでいたのか?」


キアランは一冊の本を書棚から取り出して、ウルフが腰をかけた大きなデスクに置いた。ウルフはそう言われて黙り込んでしまった。自分の行動が愚かで、滑稽に見えるのは分かっていた。しかし、それ以上にこのまま周りも見えず、走った先にあるものに大きな不安があった。何が、というより、漠然とした不安だった。


「それと、自分を抑えられないことで不利益を(こうむ)るのはお前よりも、年上の彼女だ。」


そう言われてキアランを振り返った。狭いこのコミュニティーでは、口さがない噂もすぐに広まる。7つもの年の違いは、世間的にセカンダリースクールのウルフより、学生とはいえ成人しているベルにより風当たりが強くなるだろうことは、冷静に考えれば容易に想像がつく。ましてや、町の人の多くが知り合いの、このカトリック居住区の中では…。


「冷静になって考えられるなら、お前の好きにすればいい。」


キアランは相変わらずの無表情で言ったが、彼がここまで言及するのは稀だった。キツイ言い方や、遠慮のない言葉だが、ウルフにはキアランが自分を心配してくれているのが充分伝わった。


ある日、キアランの言っていたことは、あっと言う間に現実になった。


「少し 、距離を置きたい。」


しばらく経った頃、 ベルが書類を胸に抱えてうつむきながら言った。


ウルフは少し離れた窓際にいたが、ベルの方に顔を向けた。


「それで、ここにももう来ない…」


ウルフの体の中に、不安が走った。


「…何か、言われた?誰かから…」


ベルは俯いたまま首を何度も横に振ったが、なんとなくウルフにはそれがウソだと分かった。


「目をちゃんと見て言えよ。」


ベルに近づき、腕を掴んで自分の方に向かせようと手を伸ばすと、ベルはその手を振り払った。


「ベル!」


ベルはウルフに一瞥(いちべつ)もせず、書斎から出て行った。



それから本当に1ヶ月近く、彼女はマクギネス家を訪ねて来なかった。来る日も来る日も書斎を覗いたが、ベルの姿はそこには無かった。2〜3日会わないだけでも言いようのない寂しさで苦しかったのに、一週間、二週間が過ぎていった。ある日ウルフは平静を装い、夜 書斎に居た父に尋ねてみた。


「…そういえばさ、あの 髪の長い学生、最近来ないね。どうしたんだろう…。」


勤めて自然に言ったつもりだったが、なんだか声が上ずってしまった気がした。父は書類に目を落としたまま、それに答えた。


「ああ、ベルナデッドかい。先月、僕とは別の教員に怒られていたよ。論文に身が入っていないって…。」


父は眼鏡を外し、それを丁寧に布で拭き始めた。


「街で恐らく恋人といるところをその教員に見られたらしくて、学業とプライベートはしっかり分けろ、って。彼女はとても優秀だからね…期待されてるんだよ。」


ウルフはそれを聞いて、何も言わずに書斎を後にした。父は心配そうにその息子の後ろ姿を見ていた。


翌朝、考えすぎて夜も寝れず、食欲もないまま母が用意した物も食べられずにコーヒーのみを流し込んで学校に向かった。いつものように途中からキアランが合流したが、一言も喋らず二人は歩いた。学校の門に入る手前でウルフが立ち止まった。


「…俺、やっぱり無理だ…。」


そう言うと、振り向いて走って行ってしまった。ウルフが走り去る後ろ姿を見て、キアランは大きくため息をついた。始業の鐘の音が朝の校内に響き渡り、気だるい1日が始まった。


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