黒檀の闇夜
この部にて前半部終了になります。
「今夜はありがとう。とっても楽しかった。」
グレッグはレストランのドアを出て少し歩いたところでイネスに言った。
「私の方こそ。すごく楽しかった。こんなに笑ったの、初めて!」
「ムーアの話だろ?ホント、あいつ、こんな顔してたんだ、こんな!」
グレッグはムーアが面喰らった時の顔真似をした。
「やだ、もう 笑いすぎて腹筋が痛くなっちゃうから、やめて…。」
「君に、みんなを紹介したいよ。」
「ムーアさんには、絶対会わなきゃ!グレッグが変な真似してたって、言いつけちゃおっと。」
グレッグは笑顔でイネスを見ていたが、急に少し悲しそうな顔をした。
「送っていくよ…。」
時計を見ると、9時を過ぎているところだった。
「まだ、早いわ。お願い!あとコーヒー一杯だけ。」
イネスが可愛らしくて両手を組んで頼んだ。
「ご両親が厳しいって、言ってたろ。」
「でも、もう門限破っちゃったし。」
「じゃあ、よけいに早く帰らなくちゃ。心配させる…。」
グレッグはそう言うと何かを思い出したように立ち止まってうつむいた。そして、祈るように呟いた。
「今夜…君に会えて、良かった…。」
「いやね。まるで戦場に行く兵士みたい。」
コロコロと笑いながらイネスが言った。今までもそうだったが、今夜の任務は緊迫感が違った。ミスをすれば本当に仲間からでも殺されかねない。だからこそ、こうやってイネスに会えた奇跡をグレッグは感謝した。
イネスはグレッグが黙り込んでしまったので、心配になりうつむいたその顔を覗き込んだ。
「ねっ、約束よ。今度会うときはグレッグが美味しいカクテルを作ってくれるんでしょ?」
次はあるのだろうか…グレッグは堪らずイネスを抱き寄せた。イネスはびっくりして顔を赤くしたが、グレッグの様子がおかしいのに気付いた。
「…グレッグ…?」
彼らの集合時間は午前零時。刻々とその時間が近づいていた。
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「あっ…」
ウルフは"エリン"の入口にかけられた「CLOSED」の札を見て頭を掻いた。
最近はミアが寝てしまってから一人で夜遅くに"エリン"に行くことが多かった。"エリン"の営業時間、特に閉店時間は決まっていなかった。大抵遅くまで ここにいる連中は地元のヤツらで、時に明け方まで騒いでいることもあった。だから、今日のように11時前から閉まっているのは珍しかった。
「帰るか…。」
ウルフが振り返って歩き出そうとした時、黒い影にぶつかりそうになった。よく見ると、キアランだった
「何してんだ。やってないぞ、今日は。」
キアランはポケットから鍵を取り出し、ウルフに見せた。
「あ〜、そうだよな…。」
二人は鍵を開け、中に入り、最低限の明かりをつけた。
店の中は椅子が寄せてあり、テーブル席には椅子の座面を乗せてあった。
「今日は昼、やってたよな?夜休んだんだ…。」
キアランは特に答えるでもなく、冷蔵庫からギネスを2本取り出し、カウンターに置いた。
「おう、ありがとう。」
ウルフはキアランの隣に座り、薄暗い店内をぐるりと見回した。
「一人で飲む気だったのか?辛気臭いな。」
「…騒がしい飲み方を好まないだけだ。」
「そういえば、俺がアメリカに発つ前の晩、グレッグの親父に頼んで、浴びるほど飲ませてもらったのを覚えているか?」
キアランはフッと笑ってウルフを見た。
「お前が、調子っ外れな"ハートブレイク・ホテル"を大声で歌っていた日だな。」
「えぇっ、そおなの?」
「覚えてないのか?」
「全然…。」
キアランがフッと笑ってビールを飲んだ。ウルフは頭を掻きながら赤くなった。
「俺が覚えているのは、まだ14そこらのお前が、顔色一つ変えずに飲んでいたことだ。」
「…体質なんだ。」
「そういえばさ、この間エリックに会ったぞ。グレースと結婚したんだってな。子供が3人もいるって。」
「あいつのことだ。グレースに頭が上がらないんだろう。」
「正解!早く帰らないと、ってすごいスピードで帰っていったぞ。」
二人は大きな声を上げて笑った。キアランはビールを飲み、それをコトリと置いて、大きくため息をついた。それはまるで、自分が笑って話したことを後悔しているようだったが、ウルフはそれに気が付かず、思い出話を続けようとした。
「それからさ、子供のころ、日曜学校で・・・」
「ジョン・マクニールが死んだ。」
キアランがウルフの言葉を遮って言った。
「・・・自由平等と独立をイギリスに訴えるデモで拘留され、監獄でハンストをしていた男だ。刑務所では様々な拷問に耐え続けたらしい…。」
ウルフはキアランの言葉に衝撃を受けた。それがどういうことか、察しがついたからだ。キアランから目を反らし、額に手を当てた。ウルフはぽつりと言った。
「…IRAは…また復讐に向かうんだろうな…。」
キアランは真っ直ぐ前を見据えていた。
「・・・それが現実だ。小競り合いが起き、殺人に発展して、復讐、その復讐・・・。それが繰り返されている。憎しみは消えない・・・。」
ウルフはキアランの方に向き直った。
「だけど、そのジョン・マクニールは・・・そんなことを望んだだろうか?本当は、お前自身もそうなんじゃないか?」
その時、ムーアがエリンに入ってきた。
「キアラン、メンバーがそれぞれの配置についた。」
キアランは無言で上着を着ると、出口に向かった。ウルフはカウンター席に向かったまま、堪らず叫んだ。
「行くなキア・・・!また、繰り返しだぞ!」
キアランは一瞬立ち止まった。しかし、そのまま”エリン”を出て行った。後にはカウンター席にうなだれるウルフが一人残されていた。
その夜は、彼らにとって特別な夜だった。イネスは自宅の自室でジッとグレッグに返してもらったハンカチを見ていた。ゼルダは窓の外の星空を不安げに眺めていた。アイリスは電話を片手にタバコを吸っていた。
「…そう。旨くいったわ。これでベルファストのテロリストは一網打尽よ。…後は私の仕事じゃない。」
彼らの上に平等に夜は更け、無情なほどに追い立てた。殺気漂うイギリス軍の兵舎周辺は、若きテロリストたちが息を殺して攻撃の時を待っていた。
午前3時ちょうど、「ズゥン!」というとてつもない爆発音と共に、黒いマスクをしたキアランたち数人が警備兵を射殺し、Dゲートに突入した。下調べではDゲートから武器庫までは、先ほどの警備兵以外、武器庫周辺まで防衛人員はいないはずだった。ところが、Dゲートに侵入してすぐ、そこには多くの兵士が武器を構えて侵入経路を塞いでいた。
「だめだ!進むな!!」
グレッグが叫んだが、ドアの影からキアランが数人を撃ち殺した。イギリス兵は完全武装をしていたが、キアランの攻防により、劣勢に追い込まれた。激しい銃撃戦の中、IRA側の仲間が一人撃ち抜かれた。形勢は一気に逆転し、長時間の銃撃を想定していなかったキアランたちは苦境に転じた。
「これ以上は無理だ、一旦退却しよう!」
グレッグはキアランを無理やりDゲートの外に連れ出した。
しかし、兵舎の外にはサーチライトが張り巡らされ、サイレンの音が鳴り響いていた。かなりの数の兵士が完全武装し、至る所に銃を構えていた。
「…なんだこれは…こんなはずは…。深夜にこれほど増強した部隊がそろっているはずがない!」
キアランは建物の影に隠れてこの光景を信じられないように見た。グレッグが別のゲートから出てきた仲間と共にキアランのもとに走ってきた。
「キアラン!潜入していた奴らが全員射殺された!地下から侵入しようとした連中も、何人か撃ち殺され、何人かは逃走したそうだ!」
「・・・読まれていた?!時間も、人数も、侵入方法も・・・全てが!」
キアランがそう呟いたとき、また強くサーチライトが照らされ、サイレンがけたたましく響いた。
その頃、ウルフは”エリン”でずっと一人考え事をしていた。もう明け方になろうとしているのに、考え始めたらあっという間に時間が過ぎてしまった。しかし、そろそろ帰ろうか…と思って立ち上がった時、入り口からムーアが血相を変えて飛び込んできた。
「ウルフ・・・お願いだ、助けてくれ!キアが…キアがイギリス兵に包囲されている!」
ウルフはムーアに駆け寄ると、その腕を掴んだ。
「場所はどこだ!」
ムーアがウルフを促すと、二人は”エリン”から飛び出し、明け方の誰もいないベルファストの街を駆け抜けていった。
この後、しばらくウルフの過去を扱った番外編になります。