濃藍の密約
アイリスとの対決から数日後になります。
「侵入経路の確認だ。地下のこのルートはマイケル、ルロイ、オーガスタ、ムーア、事前にスパイとして侵入している連中は3人、このメンツは南からの援軍だ。スタッツ、ピート、アルバート、顔をこの写真で覚えておけ。Dゲートからの侵入はアクセル、キース、俺とグレッグ、運び屋は兵舎の南南東のこの位置に午前3時15分にホロの付いたピックアップ・トラックで到着する。運転者はジェイク、この写真の男だ。午前3時ちょうど、警備の交代が終わった直後に事前に仕掛けておいた爆弾でボイラーを爆破する。奴らが一旦退却体制に入ったところで一気に襲撃を仕掛ける。10分で撤退し、出来るだけ多くの武器を運び出せ。その後は各々逃げおおせろ。」
キアランは地下のテーブルいっぱいに広げられた図面や写真、書類を指しながら集まった男たちに指示した。
「それから…分かっていると思うが、失敗は許されない。まして、英軍の捕虜になることは絶対あってはならない。そのためには当然相手を容赦なく射殺し、自らの処遇は心得ろ。」
キアランは無表情で言い放ったが、それは自決を促す言葉だった。地下の男たちの顔には緊張が走った。
「我々は活動の都合上、奴らに顔を知られることは死を意味する。それは組織全体の死だ。捕虜にとられ、我々の崇高な革命に亀裂を生じさせるなら、仲間といえど殺せ。」
ムーアはキアランの冷たい目を見て息をのんだ。グレッグは腕を組み、この状況を冷静に見ていた。
地下での会合があるときは必ず帰りにそれぞれ酒を飲んで帰っていく。アルスター警察の目を誤魔化すためだ。ここはパブであり、男たちの社交場だ。昔からそれが隠れ蓑になっていた。
キアランが他のものに遅れて地下から上がってくると、会合には参加していなかったウルフが男たちと話していた。この地域で組織に参加するものは大抵顔見知りだった。年齢こそバラつきがあるものの、お互いが父親の代から知っている者が多かった。
「ウルフ、アメリカに帰化したって本当か?」
何人かがウルフを囲んでグラスやギネスの瓶を片手に立ち話をしていた。
「ああ。でも、向こうでもアイリッシュのコミュニティーにはよく顔を出してるよ。」
「まぁ、俺たちにしてみれば、アメリカのアイリッシュ・コミュニティーの支援は無くてはならないものだからな…。」
19世紀の大飢饉の折、移民としてアメリカに渡ったアイリッシュは4300万人以上。彼らはアメリカでアイリッシュのコミュニティーを作り、政財界などで活躍する者を中心に裏でIRAの活動を支援していた。イギリスから独立し、国家として国際社会への対面を保たねばならない南は、大っぴらに北のIRAのテロ活動を支援するわけにはいかなかった。だからむしろ暫定派の指導者たちは海を渡り、遥かアメリカのコミュニティーに金銭や武器の面などを頼っていた。
「しかし、キアランがここまで切れ者になるとはな…。」
「ああ、冷静沈着なのは昔から変わらないが、あそこまで冷徹に任務を遂行するようになるとは、誰も思わなかったよ。」
「普通、テロルといえば、誰もが筋骨隆々の鋼のような男を想像する。しかし、あんな女のような綺麗な顔で、何人の重要人物を消してきたか…。」
「…ついたあだ名が"黒きナイフ" …。」
ウルフは自分がここを去った後、キアランの成長を見てきた彼らの話を黙って聞いていた。その時、キアランが彼らの裏を通り、カウンター席に腰かけた。
「グレッグ、ギネスをくれ。」
男たちはバラバラと散って行き、ウルフはキアランの隣にグラスを持って座った。長い沈黙のあと、ウルフが口を開いた。
「静かに暮らしてるらしい。今は…」
ウルフがグラスをジッと見ながらつぶやいた。キアランは訝しんだ表情でウルフを見た。
「何のことだ?」
「…エドナだよ…。」
キアランは目を見開いた。
「南の情報筋から聞いた…。こっちでのことを周りの住人は知らないから…。精神的にも落ち着いて、大分 外にも出れるようになったみたいだ。」
キアランの脳裏にあの日見た、最後のエドナの笑顔が浮かんだ。喉の奥をギュッと締め付けられたような、込み上げてくるものを感じ、ギネスの瓶を強く握った。
「薄れていくんだ。生きていくなら…。忘れられなければ、赦すしかない。」
キアランはウルフの言葉を聞き、立ち上がった。
「俺は、赦す方なのか?赦される方なのか?」
そう言い残し、"エリン"を出て行った。ウルフはやるせなく頭を掻いて、グラスに残っていたものを飲み干した。
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今日の会合はいつにも増して厳しい空気感だった。ここのところ武器弾薬の入手ルートが絶たれていて、活動をするにもまずそれらを確保しなければ動きようがないのは明白だった。キアランの言葉もぞくりとするほど厳しく、ムーアは一瞬耳が遠くなり、まるで一枚壁を隔てたかのように周りの声がくぐもって聞こえた。血の気は引き、薄暗い地下室の中が更に暗く見えて、眩暈をおぼえた。
あの日、父が奴らの掌中にあることを知った。アイリスは会合の後、連絡をよこすと言い残し、エリンを出て行った。そのことを思い出すととても酒など飲んでいる心境ではなく、会合後すぐに帰路に就いた。
ムーアは自宅に着くと鍵を取り出し、フラットの扉を開けた。ドアを開けると、いつもついている電気が全て消されていた。
「かあさん?寝たの?」
ムーアの母はいつも必ずムーアが帰ってくるまで寝ずに待っている人だった。リビングをサッと見たが姿がない。母の寝室を開けてみたが、朝 メイキングをしたであろうまま、ベッドはシワもなかった。
「かあさん?」
浴室も、トイレも、キッチンも、物音一つしなかった。ムーアは徐々に不穏な空気を感じ取り、クローゼットやカーテンの裏まで母を探し始めた。鼓動が早まり、ガクガクと身体中が震えてきた。ふと見ると、キッチンテーブルに手のひらの半分くらいの紙片がポツリと置いてあった。ムーアはその紙片を慌てて掴んだ。
「紡績工場」
ただ一言だけ鉛筆で書かれた文字は、ムーアが見慣れた母の書いた文字とは全く違った。彼は血の気が引き、冷や汗が体から吹き出てくるのがわかった。と、同時に自宅を飛び出て紡績工場へと走った。
父の笑顔、母の怒った顔、三人で囲んだ食卓、母が編んでくれたセーター、父がくれた万年筆、遅くなった日にウルフの家に迎えに来た母の姿、父と遊んだ公園、あの事故の後、目覚めた自分をのぞき込んでいた、両親の涙でぐちゃぐちゃになった顔…。紡績工場へ走りながら、次から次から頭に浮かんでくるのは、幸せな自分の環境だった。
自宅から20分ほどのところに紡績工場はあった。正確には廃工場で、既に5年ほど前から稼働はしていなかった。それは商店が立ち並ぶ通りを抜けて、更に住宅街を抜け、夜になると人通りはほとんどない場所に位置していた。ムーアはハアハアと息を切らして両ひざに手を置きうつ向いて呼吸を整えると、震える心を鼓舞して真っ直ぐ向き直り、工場に入っていった。
工場の中はうすぼんやりとものの姿がわかる程度に街頭の明かりがところどころ差し込んでいた。すでに機械類は運び出され、がらんとした広いスペースがあり、四方に机や椅子やごみごみしたものが寄せられていた。
「偉いわね。約束通り、ちゃんと逃げ出さずに来たのね。」
暗闇からアイリスの姿が浮かんできた。その後ろには一人の男の影があった。いや、ムーアは見えない四方に人の気配を感じ、自分が取り囲まれていることに気づいた。
これは、現実なのだろうか?キアランについて様々な任務に就いてきたムーアは、一人袋小路に陥った自分自身の足元をじっと見ていた。
あともう少しで一幕終了…。