漆黒の足音
この時点ではまだ、ムーアはウルフと仲直りしていません〜。
ムーア・リッカートンは両親に可愛がられて育てられた。
母にはイタズラをしたり、ワルさをした時にはこっぴどく叱られ、よくウルフの家に逃げ込んだりしたが、それも愛情なのは分かっていた。父はいつだって一緒に遊んでくれた。父の帰りが遅いといつまでも寝ずに待ち、帰ってくると寝る前に今日あったことの話をする。貧しいけれど、愛されて育った天真爛漫な空気感がムーアにはあった。
セカンダリースクールに上がる頃、テロの爆破事件に巻き込まれたことがあった。吹き飛ばされ、打ち所が悪く死線を彷徨った。その時は父も母も側を離れず、ムーアが目を覚ますと二人とも泣き崩れていた。貧しい中で病院の費用も大変だっただろうに、父は働き詰めで、母も市場に出て必死で働いた。
「かあさん、今日 とうさんのところに行くの?」
ムーアは小さいけど小ざっぱりしたフラットのキッチンテーブルに置いてあったフライド・ポテトをつまみ食いしながら母に聞いた。
「行くわよ。父さん、毎日待ってるのよ。あなたも一緒に行く?」
「うん…行きたいけど、今日は仕事が遅くまで掛かりそうなんだ。」
ムーアの表向きの仕事は機械工だった。時計などの構造物が好きで、子供の頃からラジオを分解して組み立て直したり、仕掛けものを修理したりしていたことが仕事になり、何年か親方のところにいたが独立して、今では様々な修理を請け負っていた。人当たりもいいので仕事にも困らず、量をセーブしながら裏でIRAの活動をしていた。母には活動に参加していることを伏せていた。
父はここ数年、体調を悪くして病院に入院していた。ムーアは母と共に父の入院生活を支えていたが、高齢な父は日に日に弱っていっているのが分かった。
「行ってくるよ。」
母にキスをし、家を後にした。
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"エリン"に着くと、グレッグが丁度店を出ようとしていたところだった。
「キアランはいるのか?」
「いや、今日はデリーに行ってる。例の件の下調べだ。」
「今日は手伝わなくていいのか?」
ムーアが聞くとグレッグは少しうろたえた。
「え、あ、いや…大丈夫。」
ムーアは小さい頃からグレッグと一緒だったので、彼が何かを隠そうとしているのはすぐわかった。ニヤッと笑って長身のグレッグの胸を肘で叩いた。
「さては、また女だな。いーなぁ、モテる奴は。」
グレッグはそれには何も答えずに出口に向かった。
「そうだ、午後はもしかしたら配達が来るかもしれないから、店番をしていてくれよ。」
「ああ、分かった。」
今日はムーアも夕方から仕事があったが、仕事の前にはいつも"エリン"に寄るのが日課だった。ここは小さい頃は午後お客があまり来ない時間にグレッグと鬼ごっこをしたりした場所で、マクギネス家の書斎とはまた違ったムーアのホームのようなものだった。
夕方からの仕事の依頼は近所の薬屋にある古い箱時計修理だったので、カウンターで図面を広げて構造を頭に入れていた。
「座ってもいいのかしら?」
物音一つしなかったのに、いきなり女の声がして振り返ると、女が立っていた。
「キャスリーン・フラー!」
呼び捨てにしてしまい、両手でモゴモゴと口を塞いだ。
女優は悠然と微笑んだ。
「ああ、どうぞどうぞ。」
慌てて走って行き、テーブル席の椅子を引いて女優を座らせた。
「この間はサイン、ありがとうございました。あ、覚えてませんよね…。僕のことなんか…。」
女優はクスリと笑って帽子を取り、髪を直しながらムーアに言った。
「いいえ、覚えてるわ。ハッキリ。」
「ええっ!光栄です。今、店主がいなくてコーヒーぐらいしかないんですけど、いかがですか?」
「ええ、頂くわ。」
ムーアは慌ててカウンターの中に入ると、コーヒーを入れ始めた。小さい頃からこの店には出入りしていて、学生時代には少しバイトもした。勝手知ったる厨房だった。
コトリとコーヒーを彼女の前に出し、話しかけた、
「ぼく、あなたの映画、何度も観たんですよ。特に"アイリス"良かったなぁ〜。」
「ありがとう。」
「ミス・フラー、子供の頃 ベルファストに住んでいたと先日仰ってましたよね。」
「ええ。この先にあった紡績工場の近くに住んでいたの。」
「へえ〜!うちの親父が昔、あそこの紡績工場で働いていたんですよ!」
女優は俯いてフッと笑った。その表情はまるで獲物を標的に定めた黒豹のようだった。
「表向きはね。…あなたのお父さま、お元気かしら…。」
女はバッグからタバコを取り出し、火をつけた。
「え…?知ってるんですか?うちの親父を…。」
「直接は会ったことないわ。でも、いろいろと知ってはいるけど。」
女はフーッとタバコの煙を吐き出し、ムーアの方を見た。
「確か、あなたのお父さまも昔IRAに関わっていて、その後お体を壊されて、入院しているんですってね。」
ムーアは何を言われているのか理解出来なかった。
「なぜ…それを…。」
「それだけじゃないわ。私が知っているのは。あなたはご両親が年を取ってからの一粒種で…とっても大事に育てられたのよね。」
ムーアは徐々に目の前にいるこの女優が自分の知っている"キャスリーン・フラー"ではないことに気付き始めた。
「それから、あなたのお父さまは今、本当は精神病院にいる。…心を病んでいらっしゃるのね。でも、仕方ないわ。仲間を裏切ったんですもの。年を取って、罪悪感で押しつぶされそうになったのね。」
「裏切った?」
ムーアは目を大きく見開いた。彼女は憐れむようにニヤリと笑った。
「…あなた、知らないのね…。11年前、カトリック地区の虐殺事件があったでしょ。その時、あなたのお父さまは敵に情報を売ったのよ。」
ムーアは女優の話を遮るように慌てて言った。
「いくら大女優でも、言っていいことと悪いことがあります。親父は…」
「売った情報っていうのは、アシュレイ・オ・ニールがテロ行為をしたIRA を匿っているということ。」
女優は立ち上がり、タバコを灰皿にひねった。
「つまり、あなたの大好きなキアラン・オ・ニールの両親を殺したのは、あなたの大事なお父さまだったのよ。」
「うそだ!親父は、そんなこと…。」
「11年前、あなた爆弾テロに巻き込まれて瀕死の重傷を負ったことがあるでしょ?あなたの家は貧乏で…あなたのお父さまはあなたを救いたい一心で、お金を手にするために情報を売ったの…。」
ムーアはわなわなと震え始めた。
「どこにそんな証拠があるんだ!」
「裏切者には、裏切りを…。」
そういうと女優はバッグから何かを取り出し、バラバラとテーブルに置いた。
「これは、その時の密告を吹き込んだテープ。それから…これはその時の写真…。」
ムーアは写真を掴むと、自分の父が写っているのを確認し、愕然となった。女優はムーアを尻目にカツカツとカウンターに歩み寄り、そこに置いてあったムーアのジッポを手に取り、ふたを開けた。
「こんなことがキアラン・オ・ニールに知れたら、どうなるかしら…。」
ムーアは血の気が引いた顔をしていた。それはまるで追い込まれた小動物のようだった。
「なにが…望みだ!」
それを聞き、女優は引っかかった獲物に牙をむくようにムーアに近づいた。
「オ・ニールは近日中に何か動こうとしているわね?何をしようとしているの?どこで、いつ、人数は??」
「…俺に、キアランを裏切れというのか?!」
ムーアの問いかけに女優は持っていたジッポをムーアの胸に押し付け、笑った。
「あなたのお父さま、本当は今、病院なんかにいないわよ…。」
「親父をどうしたんだ!!」
ムーアは女優の腕をつかみ、食いつかんばかりに詰め寄った。女優はその手をはがし、冷たくムーアを見た。
「さあ…。教えるも教えないも、あなた次第だわ…。」
ムーアは膝から頽れ、真っ青な顔で女優に問いかけた。
「お前は…誰だ?誰なんだ!」
女優は髪をスッと整え、怪しい笑顔を作ってムーアに向き直った。
「…あなたの大好きな、女優のキャスリーン・フラー。でも、あなたから情報を引き出す時のコードネームは
…アイリス。」
私が一番好きなアイリスがムーアを追い詰めるシーン。