始まりの朝
この作品は はるか昔、アマチュア劇団にて上演された作品の小説版です。
この作品を生み出すきっかけになった、キアラン・オ・ニール役の緒形あきらに 敬意を表します。
紅い光
振り返った なつかしく精悍な目が、すっと笑ったような気がした。それは、"黒きナイフ"と呼ばれていたテロリストの目では無かった。逆光を背に立つその姿は、14歳で別れた頃の面影を取り戻したようだった。
「撃て」
キアラン・オニールは救いを求めるように 言った。
「お前しかいない…俺を止められるのは」
朝日に照らされて、光の中に消えていくのではないかと錯覚した。
ウルフ・マクギネスは顎をワナワナと震わせて首を左右に振った。崩折れていた長身の膝が ガクガク震えた。
「止められないんだ…衝動も、憎しみも…!」
黒い影は 悲痛に声を絞り出した。
「撃てーーーー!!」
1 白い花
「うわぁ〜!」
黒い大きな目をさらに見開いてミアは感嘆の声を上げた。
飛行機がベルファストシティ空港上空を旋回する間、ベルファストの街が見え、ミアは口をぽっかり開けて下を見た。
浅黒い肌にやわらかくウエーブした黒髪が 顔にかかり、少年なのか、少女なのか 一目ではわからない。ただ、その大きな瞳は 、まるで周囲の光を全て取り込んでしまうのではないか、と思うくらい輝いていた。
「見えるか、ミア。あの、ひときわ高くそびえ立つ二つの尖塔の教会。あの辺りが、俺たちが育った街なんだ。」
ウルフ・マクギネスは落ち着いたグリーンの瞳を懐かしさで細めるようにして言った。
どんよりとした空の雲に突き刺さるような双立の尖塔は、まるでこのウェスト・ベルファストという街の墓標のようだった。飛行機が旋回し、街に近づくたびに見えるその教会の近くの建物の何件かには、よくは見えなかったが、絵や文字が大きく描かれているようだった。まるで何かを訴えかけるように、ある絵は暗く、ある絵は鮮やかに、それぞれが人目を引いていた。それらの近くを、上空からでもハッキリ見ることができる堅牢な壁が何百メートルもそびえ立ち、その高さは壁というより要塞の城壁のようで、上部には飛来物や侵入を拒む鉄槍が連なっていた。
「やっと着いた〜長かったね。」
ミアがウルフを見上げると、ウルフは大きな手をミアの黒髪にポンと乗せた。
「よく いい子にしてたな。」
「ぼく、赤ちゃんじゃないよ!」
ミアは少し膨れてウルフを見たが、まだおよそ5歳ほどのその子は、見た目の幼さと相反する、大人びた目を見せることもある。ウルフはくすりと微笑んだ。
「ぼく、先に行って 荷物をさがしてくる!」
ミアがウルフを振り返りながら飛行機の出口に向かうと、一つの影にぶつかりそうになった。
とっさに乗務員の女性がさっとミアを制止した。
「ごめんなさいね、ファーストクラスのお客様からなのよ。」
乗務員は膝をつき、ミアの肩に優しく手を置いた。
「ミア、慌てないんだよ。」
後ろからウルフが声をかけた時、ミアとぶつかりそうになった影がすっと動いた。
黒いタイトなワンピースに黒い帽子、長いカールした黒髪が揺れた。サングラスをかけた顔は、これ以上ないだろうという程に美しい輪郭を描き、シミひとつない白い頬、鉛筆で書いたような真っ直ぐな鼻、厚くもなく薄くもない真っ赤な唇が印象的な女だった。
「あれ、女優のキャスリーン・フラーじゃない?」
その美しい後ろ姿に見惚れていたミアの後ろから、乗客の声がざわざわと聞こえてきた。ウルフはそんな空気を一切
意に介さず、ミアの肩をポンと叩いた。
「さあ、行くぞ。」
飛行機の外を見ると、どこからともなく白い花びらのようなものが舞い散っているのが見えた。林檎の花だろうか。
『ああ…あの日のようだな…。』
ウルフは歩を進めながら、この国を出た14歳の頃を思い出していた。
2 黒きナイフ
ウェスト・ベルファストのカトリック居住区の中にひっそりとそのパブはあった。
大通りを一つ路地に入り、更にその奥を入った、ぽっかりと中庭のようになっている小さな広場に面した、常連でなければ決してそこに店があるなどと考えもしない場所であった。
黒く小さい入り口の扉の左側面には、中が見えないように大きなステンドグラスがはめ込まれており、パブというよりは、小さな祠にできた教会のようであった。
扉を開けるとすぐに中は見えない造りになっている。しかし、ステンドグラスから差し込む光は店内を色づくくらいに照らしていた。入り口の衝立を過ぎると、意外や中は広く、全体的にダークウッドのカウンターや10ほどのテーブル、椅子とクラシカルなピアノが置かれていた。
キアラン・オニールはいつものカウンターに座り、グラスを傾けていた。
「いつも言っているだろ。俺にはお前のくだらない話し相手になる義務はない。」
「えーっ。この街で僕が見えるのは、君だけなのに〜。」
カウンターの奥からひよっこり茶色の帽子を被った7歳の子供のようなものがキアランを覗き込んだ。しかし、かれは人間の姿ではない。茶色い服に角笛を腰に下げ、髪はシルバー、緑色の尖った帽子を被っている。さらによく見ると、耳が尖っている。
「僕らは君たち人間が街を造るずっと前からここに居るんだ。敬意を払うくらい、当然じゃないか。」
シルバーの髪が悪戯っぽくにんまりとした後に、少し冷たい目でキアランを見た。
「俺は、レプラコーンなんか 信じてないんだ。」
キアランは眉ひとつ動かさず、無表情で呟いた。その横顔は冷たいナイフのように美しいが、誰にも近づけないオーラを放っていた。女性のような細い輪郭黒髪は少し伸びて顔にかかっている。黒いパーカー、タイトな黒いジーンズ、黒い軍隊仕様の長靴、この店に溶け込むように全身が黒に包み込まれていた。しかし、その菫色の目だけは見るものに強い印象を残すほど、大きく、そして鋭く、輝いていた。
…カランカラン…小さな鐘の音がして、衝立の裏から背の高い男が荷物を抱えて入ってきた。
「あ、キアラン 来てたのか。」
グレッグ・オーエンはいわゆる女性に好かれる、細面の色男だった。自分でもそれを知っていて、自惚れている気がある。元々のブラウンの髪をやや明るい色に染めて、流行りのジーンズに水色のシャツを粋に着こなし、遠目にもスタイルの良さが分かった。
「おい、グレッグ!どこ置けばいいんだよ?これ!」
背の高いグレッグの後ろから 荷物を両手いっぱいに抱え、顔が見えない男が続いた。
「取り敢えず、カウンターに置いてくれよ。」
「ふー!」
グレッグの言う通り荷物を置くと、そこにはカールした赤毛にソバカス、小鼻が小さく、ヤンチャそうな少年の面影を残しているムーア・リッカートンが立っていた。背の高いグレッグとは対照的に小柄で茶目っ気のある、瞳が大きい誰からも親しまれそうな男だった。
二人の姿を確認すると、キアランは用心深く入り口の方を伺い、二人に静かに聞いた
「ロンドン・デリー周辺の下調べは順調か?」
グレッグは今までの賑やかな雰囲気をガラリと変え、キアランの方に目を向け、慎重に話し始めた。
「恐らく、ブラーニーの演説は教会前広場に設置される壇上になるだろう。SASの警備上、周囲の建物は全て閉鎖され、階上は立ち入り禁止になるだろう。」
「そうか、引き続き 周辺の状況を探ってくれ。ムーア、南の援軍に関する情報は?」
「ああ、それなんだが…」
ムーアが話し始めた時、キアランがそれをサッと目で制した。無言でグレッグに指でサインを送ると、グレッグは少し張る声を出した。
「お客さん、まだ準備中なんですよ。夜の営業は5時からです。」
すると 入り口前の衝立からフワリと黒い影が現れた。今までその存在をよく打ち消せたな、という程華やかな姿であった。
「キ、キャスリーン・フラー!!」
ムーアは丸い目を更に丸くして、信じられないといったように両手で頬を覆った。
「なつかしいわ…昔、この辺りに住んでいたのよ。母に連れられて、お客の前でタップを踏んだこともある…。」
女は煙草をクラッチバッグから取り出して火をつけ、フーッと一息 煙を吹き出した。
「オレ、大ファンなんです!ベルファスト出身の女優がハリウッドで成功するなんて…ミス・フラーはアイルランドの宝石です!!」
ムーアは興奮して顔が紅潮していた。キャスリーンに駆け寄り、右手を差し出した。女優は何かを吟じるように少し唇を動かしたかと思うと、ゆっくりとムーアを頭からつま先まで見て、美しい営業スマイルを作った。そして、近くのテーブルに置いてあった灰皿に煙草をひねると、ムーアの右手を取り、今度は悪魔的な美しい瞳で彼の目を覗き込んだ。
「お会いできて、光栄だわ。」
ムーアは一瞬、ゾクリと身を震わせた。それは彼の直感であったかもしれない。しかし、女優の美しさへの衝撃と彼は思いこんだ。
「また、来るわ。」
女は踵を返すと、扉を開け出て行った。"カランカラン…"
と扉についているベルの音を響かせて…。この店の扉には来客が出入りする時に扉上部に付けられたベルが鳴る。しかし、慎重に開閉したとき、ベルは鳴らない・・・。
「…女優は 忍び込むのが得意なようだな。」
キャスリーンがいる間、一切彼女に顔を向けなかったキアランが、顎から口にかけ手を置いて考え事をしながら呟いた。それから、ふっと現実に戻るようにグレッグを見た。
「グレッグ、ボグサイトのケリーからの連絡は?」
グレッグはハッと顔を見上げて静かに応えた。
「南の援軍は期待できない。IRA正統派は全く及び腰だし、暫定派はマクスチョフェインがアメリカに飛んでいる。奴が帰ってくるまでは、オーブラディも動かないだろう。シン・フェインも内部で意見が割れてるからな。」
ムーアが割り込むように二人の間に顔をひよこりと出した。
「ケリーの奴が調子に乗ってニューリィ運河を爆破したりして以来、南の連中は俺たちの動きに慎重になってるからなぁ。」
ムーアが肩をすくめた時、入口のベルが"カランカラン"
と 勢いよく音をたてた。
「変わってないなぁ、この店も!」
衝立から現れたのは、背の高い細身の男だった。柔らかいグリーンの瞳に、明るいブラウンでカールがかかった少し伸びっぱなしのような髪をかきあげた。鼻の綺麗なラインから、口角の上がった優しげな口元が印象的な男だった。
「ねぇ、ここ、食べ物やさん?いい匂いがするよ。」
ひよこりとその男の影から 浅黒い子どもが出てきて 見上げながら尋ねた。
「ああ、昼はな。こういう店は夜には酒を出す"パブ"になる。アイルランド人の男の、一番好きな所さ。」
そう言いながら、その子の柔らかな黒髪に優しくポンポン、と手を置いた。
その光景を見ていたグレッグが二人に近づいた。
「すまないね、もうランチは終わったんだ。夜の営業は5時からだよ。」
「グレッグ!グレッグ・オーエン‼︎」
近づいてきたグレッグの顔を見て、男は驚きと懐かしさが溢れ出した声で叫んだ。グレッグは不審そうな表情で一歩彼から身を離したが、男はお構いなしにずいと顔を寄せた。
「オレだよ、この先のフラットに住んでいた、
ウルフ・マクギネスだ!」
グレッグは眼を大きく見開き、顔を紅潮させた。
「ーーーああ、マクギネス先生のところの!」
その声と同時にカウンターの近くにいたキアランとムーアはウルフの方を見た。キアランは一瞬息を飲むような表情を見せたが、すぐに自分を取り戻したように無表情になり、ジッと彼らを観察していた。
ウルフはグレッグに抱きつき、それに応えるように彼が右手を出すと手を握り返して、懐かしそうに話し出した。
「13年ぶりだな!昔はこんなに小さかったのに。」
と、自分の胸元くらいに手をかざした。
「小さい頃の2つの年齢差は大きいからな。まだ俺がプライマリースクール(小学校)を出るか出ないかの頃だろ。今じゃ、大して変わらない。」
グレッグがニヤリと笑うと、ウルフは声をたてて笑った。
「親父さんはどうした?中に居るのか?」
ウルフが奥へと続く扉の方を見てそう言うと、グレッグは頭を掻きながらうつむいた。
「…親父は3年前に心臓で…今は俺がこの店を切り盛りしてる。」
「そうか…。」
二人がしんみりとした空気をまとった瞬間、ウルフの背後からポンっと背中を叩く手があった。
「ウ〜ルフ!」
ウルフが振り向くと、そこには赤毛で背の低いソバカスだらけの青年がニヤニヤと立っていた。
「ムーア!」
ウルフはムーアとも抱き合うと、右手を叩きあった。
「ああ、元気そうだな!相変わらず すばしっこそうだ。」
「イギリス兵やプロテスタント野郎から逃げるのはな!」
ムーアがそう言って親指を立てると、3人はゲラゲラとまるで十代の少年のように笑いあった。
「お袋さんが亡くなった時、親父さんとアメリカの親戚のところへ行くと言っていたよな。」
ムーアが思い出したように聞くと、ウルフは一瞬 暗い表情になり、すぐにそれを誤魔化すように大袈裟な身振り手振りで話し始めた。
「ああ!アメリカはやっぱり凄かったぞ。それに俺は1年前から世界中を貧乏しながら旅をしていたんだ。世の中は広いな!!」
ウルフがそこまで話すと、それまでウルフから少し離れた位置にいたミアがウルフに近づき、そでをツイツイと引っ張った。
「ーーーこの小僧は何だ?!お前の子どもか?」
グレッグが覗き込むように長身のウルフの背に隠れたミアを眺めた。
「ばかいえ!おれはまだ独身だ。こいつはミア。訳あって、1年前から一緒に旅をしてるんだ。」
ウルフは優しくミアの肩をとり、自分の前に出した。
ミアの目をみて、「なぁ?」とばかりに微笑むと、ミアは嬉しそうにニカっと笑顔を見せてウルフを見上げた後、グレッグやムーアにペコリと頭を下げた。
「こんにちは。」
二人がミアに目を移した時、ミアのずっと向こう側で黒い影がこちらをじっと静かに見つめているのにウルフは気づいた。その視線は蒼い炎のように人を寄せ付けないオーラを放っていた。まさにウルフとは正反対のオーラだった。
ウルフは大きく息を呑み、ゆっくりとその黒い影に近づいていった。鼓動が高鳴っていくのを感じつつ、嬉しさとともに隠し持った絶望感を悟られまいと、わざと低い声で尋ねた。
「……キアラン、キアランだろ?」
問いかけられたほうは、何かを見極めようとするようにその瞳の奥をじっと見つめている。
ウルフは右手を握り、力強く自分の心臓の上を2回叩き、絞り出すように言った。
「…戻ってきたぞ、約束通り。」
黒い影は鋭い目でウルフを見つめていたが、フッと一息吐き出して 口角を少し上げた。
「ーーーウルフ…デカくなったな。」
ウルフの胸に懐かしさが去来して、幼い日のキアランの姿がカウンターにいる男に重なった。しかし、彼の心の中にいたキアランは、目の前にいる男と姿形こそ似ていたが、表情が全く違った。ウルフは複雑な気持ちを言葉に重ねた。
「……お前もな。噂は聞いてる。北のIRAの中でも精鋭中の精鋭らしいな。」
ウルフは真っ直ぐにキアランの瞳の奥を見て、真偽を確かめようとした。キアランはウルフの眼差しを跳ね返すでもなく、無表情で彼から視線を反らした。ウルフはその一瞬で、キアラン自身が身を置いている状況を察してしまった。それがゆえに、急にトーンを上げその距離を縮めようとした。
「しっかし、相変わらずなまっちょろい顔してんなぁ。ちゃんと食ってるのか?」
そういいながら近寄り、キアランの腕をバンバンと叩いた。
その親し気であけっぴろげな声の大きさに、キアランは驚いたように少し目を大きくしてウルフを見ると、声を上げてわらった。
「お前こそ、あいかわらずだな。」
キアランがフッと見せた幼いころのような笑顔を見て、遠くから恐々見守っていたグレッグとムーアがわっと近寄ってきた。4人は13年前の幼馴染のころのように笑いあった。
「懐かしいな・・・そういえば、この街を出ていくとき、俺に船の模型をくれただろ?まだうちの居間に飾ってあるんだ。」
グレッグがウルフに言った
「お前はうちに来るたびにあいつを眺めていたからな。捨ててしまうのが忍びなかったんだ。」
ウルフの両親は当時学校の教員をしていた。父親は大学講師、母は研究員だった。そのため 彼の自宅には狭いながらも立派な書斎があり、丁寧に分類された書棚の周りに模型の船や美術品が飾られていた。あめ色になった古い書籍、マホガニーのデスクの上にはアンティークの地球儀、全体がクラシカルで暖かい空気のあるそのマクギネス家の書斎が、彼らの隠れ家だった。キアランとウルフは親同士も親しく、キアランは毎日ウルフとマクギネス家の書斎で二人で腹ばいになりながら本を読んだり、ゲームをしたり、音楽を聴いていた。しゃべらなくてもお互いの言いたいこと、思ってることが分かるくらい、二人でいるのが小さいころから当然だった。二人と2つばかり年少のグレッグとムーアは、キアランとウルフの後をついてくる弟のようだった。
なつかしさに目を細めて、ムーアがつぶやいた。
「俺はさ、おふくろに怒られると、マクギネス先生のところによく逃げ込んだな。それで、ほとぼりが冷めたころにウルフと、ウルフの家に遊びに来ていたキアランについてきてもらって、一緒に怒られてもらった。」
「お前んとこのおふくろさんは怖かったからな~!」
グレッグがおどけて言うと、4人は大声をあげて笑った。それは彼らにとって、胸を締め付けられるような幸せな時間だった。笑い声がやんだころ、ふとキアランが確認するようにウルフに言った。
「……あの頃の誓いを、覚えてるか?」
それまで大きな口をあけて笑い、紅潮していたウルフの顔はすっと真顔に戻った。そしてグレッグ、ムーア、最後にキアランの顔を見わたして、静かに答えた。
「忘れるわけがない。このエリンの大地のために、戦うことだ。」
キアランはウルフの力強い眼差しを見て安心したように頷いた。
「俺たちはその約束を守るために、ここで戦ってきた。お前もそのつもりで戻ってきたんだろ?」
キアランの言葉は、静かでいながらも否定を許さない力強さがあった。しかし、ウルフはひるむことなくその目を見据えて口を開こうとした。
「俺は・・・・・。」
そう言いかけた時、入り口の方から”カランカラン”と音が鳴り、すっと黒髪の少女が衝立から顔をのぞかせた。
「グレッグ、お兄ちゃん、来てる?」
少女は恐らく17~8歳であろうが、その顔立ちは一見14~5歳に見えた。消え入りそうなほど白い肌、触ったら壊れてしまうのではないかというほど細い手足、まっすぐ伸びた長い黒髪は、まるで人を寄せ付けない空気をまとっていた。しかし、その瞳は…ウルフは彼女の眼を見て、その少女が誰であるか、はっと思い出した。大きく、深い菫色の、吸い込まれそうなその瞳、人を寄せ付けぬ空気感…。キアランにそっくりだ。
「ゼルダ?ゼルダなのかい?懐かしいなぁ!」
ゼルダは何がそこで起こっているのか、全く理解できていない様子でウルフを見た。ウルフはあふれ出す感情を抑えられない様子で突然ゼルダに駆け寄り、彼女に抱きついた。キアランは息をのみ、とっさの予期せぬ事態に、その場にいたグレッグ、ムーアと共にウルフを制止しようとしたが、あまりに一瞬の出来事で彼を止めることができなかった。ウルフが彼女を抱擁すると、すぐにゼルダは気を失った。
「ゼルダ?」
腕の中で頽れていくゼルダを見て、ウルフの方が何が起こっているか、分からなかった。と、同時に一番奥にいたキアランが走ってきて、ウルフをドン、と突き飛ばし、叫んだ。
「どけ!」
キアランに続いて、グレッグも走り寄り、ムーアはその後方で心配そうに様子を窺っていた。ミアはカウンターの近くでその光景を見て、驚いてカウンターの下に潜り込んだ。
「キア、地下の部屋を使っていいから…。」
グレッグが静かにそういうと、キアランは妹のゼルダを抱きかかえて地下へと通じる扉をグレッグと共に下りて行った。
「びっくりした~!あのお姉ちゃん、病気なのかな?」
ミアがカウンターの下から顔を出して、ウルフに言った。ウルフは頭を掻きながら、自分の非紳士的な行動に反省してる様子だった。
「・・・・・久しぶりで、驚かせちゃったかな・・・。俺が知ってるゼルダは、ミアよりも小さかったから、覚えてないだろうし・・・・。」
ムーアは遅れてキアランたちに続き、地下への扉に差し掛かっていた。しかし、彼らの会話を聞いて、その扉の向こうからひょこりと顔だけ出して言った。
「ゼルダは・・・『あの日』以来、キアラン以外の人に触られると発作を起こすんだ。俺たちですら、ね。」
ムーアはそう言い残すと、地下室へと消えていった。
「・・・え?・・・・」
ウルフとミアは4人が消えていった扉の方を見たあと、お互いを見合った。『あの日』というフレーズが彼らには何のことだか、見当もつかなかった。
『あの日』____ウルフは彼らと共有していない日を、自らが何もできなかったその日を、ずっと後悔することになるとは、この時 思いもよらなかった。