破・???のターン
これは、シリアスの気配…!
キラキラと音がしそうなほど眩い彼はにこにこと手を伸ばしている。早く握り返せという父の目線を感じながら私はおずおずと手を出した。その手のひらはしびれるような熱さだった。
困惑と混乱に私は頭が回らない。私は彼と婚約して、好かれていないことを知って、うっかり誤って死んでしまったのに、その彼は初めましてと手を差し伸べてきていて。……それはつまり。
──時間が巻き戻ってる?
そうとしか思えない。そして彼はまだ私が権力に任せて婚約者にしたことも知らない。知っていたらこんなに笑顔なわけないもの。
思い出してきた。あの時、広場にいた女性は彼の幼馴染みで子爵家の娘。婚約間近だったという二人の関係を壊したのは、私。
それをまた壊してしまったのかと後悔してももう遅い。こちらの意向で進めた話をなんの謂れもなく解消はできない。どうしよう。今回はちゃんと彼に幸せになってほしい。その相手は私なんかではないのだともう知っている。
私は奪って傷つけて壊すことしかできないのだから。
彼を幸せにするにはどうしたらいいのだろう。前は考えもしなかったことが頭の中をぐるぐると巡っていた。
「今日はどちらに向かいますか?」
結婚前に二人の仲を深めなさいと父が言うので出掛けた。前回のときもこういうことがあった気がするけどあまり覚えていない。夜会で他の女に嫉妬してばかりだった記憶しかない。欲しかったものが手に入って、それだけで満足していたのもある。婚約はただの始まりでしかないのに。
優しげに笑う彼はどこか違和感があった。なんだろう、前回見たものと違うからだろうか。それとも私にとって馴染みのある嫌そうな表情ではないからなのか。
そういえば彼はいつからあんな顔をするようになったのだっけ。最初の方はもう少し愛想があった気がする。
「エリザベート嬢? どこか具合でも悪いのですか?」
「あ、いいえ。平気よ……今日は、」
あの広場に、と言おうとしてあのシーンを思い出す。楽しそうに笑う絵画みたいにお似合いの二人。……しばらくはあの場所に行きたくない。大好きな場所だったから、またいつかは行きたいけれど今はまだ気持ちが追いつかない。
「そうね、新しい帽子が欲しいわ」
高慢ちきで我儘なお嬢様らしく、居丈高に言う。それなのに彼は何故か嬉しそうで、差し出された手を握りながら私はこっそり首を傾げるのだった。
「では、そのように。お嬢様?」
彼は、こんな人だっただろうか、と。
婚約して半年が経った。前のヘンドリックはこの頃にはもうよそよそしい態度だったはずだ。
しかし、どうだろう。彼はどこかもの言いたげな目線を寄越すものの、よそよそしいのとは、ちょっと違うような気がする。距離を図りかねている、という方が近いだろうか。
まあ、そもそも私が距離を取って接しているせいかもしれない。
私が横槍を入れなければ彼は無事に幼馴染みと結ばれていたはすだ。それは今回も私が台無しにしてしまったけれど、目障りな私はさえいなければ逢瀬くらいなら出来るはず。そう思いどうしても必要なパーティのエスコート以外は彼に近づかないようにしていた。
本音を言えばずっとそばにいたいし、誰にも譲りたくない。他の誰かが彼を見るのも嫌だし、彼が他の誰かを見ているのだって嫌だ。
だがそれは彼の幸せではないとをもう知っているから、今更同じことはできない。今回こそ彼に幸せになって欲しい。これはただの強がりに聞こえてしまうから、誰にも言わないけど。
そうやって距離を置いているせいだろうか。父は私たちの関係を心配しているようで度々口添えしてくる。もう少し彼に会ってはどうかと。そうしてしまえば意味がないのだと思いながらも父の言い分に逆らう理由もなくて。
「エリザ」
今回の彼はやっぱりどこか変だ。私のことを愛称で呼んだことなど一度もなかったのに。
「何かしら」
「……君は、」
一度口を噤んで、戸惑うヘンドリック。
「なあに?」
「いいや、なんでもないよ」
最近こういうことが多い。言いたいことがあるなら言ってほしい。言えないような関係だと言われてしまえばそこまでの話なのだけど。言ってくれたら、何かを変えられるかもしれないのに。
「……言いたいことがあるなら言いなさいよ」
思ったよりも冷たい声が出た。でももう止まらない。ずっと言おうと思って言えなくて、躊躇っていた言葉たちが悪い方向から顔を出す。
「あなた、ずっと変だわ。そんなに私が嫌なら嫌だと言いなさいよ。そうしたら考えてあげてもいいわ。私は自分のことを嫌いな人間をいつまでもそばに置いておくほど、変態じゃないの。婚約、解消しましょうか、」
前回の自分を棚上げにした暴言を吐きながら、言い終えるかどうかというところで私は息を飲んだ。急に彼が私の手首を掴んだからだ。あまりにも熱くて、痛くて、苦しいほどに握られる。
「い、痛いわ! なにするの!」
必死な私に見向きもせず俯いたままのヘンドリックがぼそぼそと何かを呟く。
「ヘンドリック? 何を言っているのか、わからないわ」
「……僕を、捨てるの? ねえ、エリザベート」
顔を上げた彼は、いやに昏い瞳で私を見る。深い闇が私を見ているようで、思わず背筋がゾッとした。あの塔から見た真下の光景を思い出す。死、だ。彼の瞳の中には死がある。怖い。
「あなたが、そう望むなら」
思わず熱に浮かされたように返事をした。するとさらに昏い炎を宿した瞳に、私は答えを間違ったような気がした。
「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない僕を捨てるなんて絶対に許さない!!」
私はカヒュッと、喉を鳴らして喘ぐ。私の首に回る白い手は焼け付くように熱かった。ふと二度目の出会いを思い出す。あの時も、この人の手はこんな熱さだった気がする。
酸欠で意識も朦朧としてきた私の耳朶に響く彼の声。
「君が僕を捨てるくらいなら僕が殺してあげる。そうしたらずっと一緒だよ、今までも、これからも、ずーっと、ずっとね」
どうしてこうなったのだろう。
私には何もわからなかった。
「目が覚めた君が部屋からいなくなったと聞いて慌てて探し回って、ようやく見つけたと思ったら、君はふらりと塔から身体を離していた。一生懸命手を伸ばしたのに届かなくて、落ちていく君を見ている事しかできなかった。夕日に照らされて落ちていく君は今まで見たなによりも綺麗で、……なによりも残酷だった。血塗れの、血の気の失せた君の顔。少しずつ無くなっていく体温。止まった鼓動。僕を写さない瞳。怖かった。君を失うことがこんなにも怖いとは思わなかった」
「だから僕は決めたんだ」
「もう二度と、離さないって」
或る男の回想
彼女のことは好きではなかった。噂で聞いていた通り傲慢で我儘で人の事情なんて構わない。束縛したがりで面倒で口うるさい。好きになる要素なんてひとつもなかった。
僕はささやかながら平凡な日常を小さい頃から一緒に育ったあの子と作っていくつもりだったんだ。それを壊した元凶に好意を抱くなんてとんでもないと思っていた。
自分の見た目がいいと知ったのは社交界に出てからのことだった。ちらちらと向けられる視線の多さに辟易として、友人に理由を聞けば皆僕に好意があるのだという。
でも僕はまったく興味が湧かなかった。女の子自身にも、それに付随する権力にも。野心は母親の腹の中に置いてきたんだなと笑う友人にも苦笑を返すしかなかった。
そんな当たり障りのない日常はある日、一変する。
王族の傍系であるマークス公爵家との縁談がきたのだ。一伯爵家の次男坊がそれに逆らえるはずもなく。僕はその人、エリザベート・マークスと婚約することになった。
彼女のことはよく聞いて知っていた。立場もさることながら彼女は奔放な性格と容姿故に悪目立ちしていたから噂話は山ほどあった。美しい花ではあるがあまりにも毒々しく、しかし反面中身は無邪気で世間知らず。けれど、持っている力は恐ろしい。危ういバランスに惹かれてしまう輩は少なからずいた。ただ彼女にとって他人は下僕かそれ以外というような存在だったようで、普通ならいてもおかしくない婚約者なんてものはこれまでいなかったそうだ。
そんな彼女に選ばれたというのはある意味驚きだった。
この容姿が疎ましく思ったのはその時のことだ。こんな見た目でなければきっと彼女に目をつけられることもなかったのに。
向き合う菫色の瞳は、いつも気味が悪いほど澄んでいる。彼女はきっと真綿に包まれるように育てられたのだろう。そこにどろりとした感情が浮かんでは消える。妙に不似合いでいて、相応しいようなその目は、何故か僕の背をぞくりとさせた。
「ヘンドリック」
「カレン! どうして君がここに?」
友人に呼び出されてある広場に向かうとそこには久しぶりに会う幼馴染みがいた。彼女とはもうずっと会っていなかったが久しぶりに会うとなんだか不思議な気がした。僕はこの子との未来を真剣に考えていたのに、今隣にいるのは全然違う人だなんて人生何が起こるかわからない。
「アルフレッドに頼んだの。私、どうしても貴方に会いたくて」
「こんな回りくどいことをしなくても君なら言ってくれれば普通に会いに行ったのに」
「それができなかったからこうしたのよ」
「え? どういうこと?」
「貴方の婚約者の彼女……貴方の手紙に検閲をかけているみたいね。私の手紙、届いた?」
「いいや、一枚も受け取ってないよ」
「そういうことよ」
「……そうだったのか」
エリザベートは確かに嫉妬深く、道を聞かれただけの他人にも嫉妬するほどだ。カレンの手紙など僕に届かないようにするなんて彼女には簡単にできただろうし容易に想像できた。
「それで、僕に何のよう?」
「何のよう、なんてひどい言い方ね。元婚約者なのに」
「……そうだね、ごめん」
「いいの、私、私ね……」
苦笑いした僕にカレンが何か言いかけたその時、東屋を取り巻いていた垣根がガサガサと音を立てた。何事かとそちらに向かうとそこには色をなくして倒れるエリザベートの姿があった。
何故ここに、と思いつつも慌てて彼女を抱き起こして、彼女が乗ってきただろう馬車を探す。
貧血を起こしたらしい彼女はそれから三日も眠り続けた。仕事もあって忙しくしていた僕は一日目に目覚めない彼女を見舞ってから会いに行っていなかった。
そして今日、暇ができたので顔を見に行ったのだがそこには蒼白な顔で辺りを走り回る侍女しかいなかった。
「どうかしたの」
なんとなく嫌な予感はしていた。
「お嬢様が、いなくなってしまわれたのです……!」
エリザベートがどうしてあの場にいたのかは知らない。けど、あの光景を見て何を思ったのかは想像がつく。秘密の恋人たちの逢瀬。恐らくそんなところだ。きっと相当なショックだっただろう。彼女は裏切りを知らない。
まさかとは思いながらも、屋敷中を走り回って不自然に空いた扉を見つける。そこから先は外に繋がっているようで、なにかに導かれるようにくぐり抜けた。
中庭のようになっている場所を過ぎると急に存在感のある塔が現れた。やはり、その入り口も人が通った跡があり迷わずそこに入る。延々と続く螺旋階段を駆け登り、ようやくたどり着いた最上階で、僕はあの紫が揺れるのを見た。
ああ、と。咄嗟に伸ばした手は、彼女に触れることはなく。ドサリ。数秒後、地面が嫌な音を立てた。
「僕のせいで、彼女が死んだ」
それはとてつもなく耐え難い事実だった。彼女からの息苦しいほどの嫉妬も執着も、もう二度と手に入らないのだと思うと、胸が潰れてしまいそうなくらい苦しかった。
いつの間にか僕は、エリザベートの重苦しい愛情に溺れていたのだ。
力の抜けた血塗れの死体を抱え、白いままだった手を握る。僕の手が届いていれば、これは暖かいはずだったのに。
もう一度。叶うならば、もう一度。
彼女の、手を…………────
明日更新して完結します。




