宦官の帝国 -宦官たちのしていたこと-
-1-
朝に淹れた湯呑のお茶がすっかり冷え切っていることに気づいて、ノヴァは小さくため息をついた。
正午を告げる鐘を聞いてから、どれぐらい経っただろう。
朝から何度も主上に呼び出されて、仕事がまったく進んでいない。しかも主上の指示は呼び出される度に大きく変わって、無駄に時間ばかりが過ぎていた。
『これだけは、今日中に片付けておかなければ』
気を取り直し、机に乗せた書類に目を落とす。どこまで読んでいたかと思い出しているところへ、声をかける者があった。
「ノヴァ様」
扉のない戸口に、いつ現れたのか、下官がひとり跪いて顔を伏せていた。
「主上がお呼びでございます」
ノヴァはあやうく、眉をひそめ、舌を鳴らしそうになった。
もし舌打ちなどしようものなら、この下官はすぐに主上の元へと走るだろう。
いや、むしろ逆か。
世辞のひとつも口にして、何事もなかったかのように下がり、しずしずと主上の前に進んで、残念そうに報告するのだ、この下官は。
ノヴァ様に謀反の疑いあり--と。
心のうちでゾッとしながらも慌てることなく、ノヴァは朗らかな笑顔で苛立ちを覆い隠した。短くはない宮廷生活である。皮膚のすぐ下で蠢く不快の念は微塵も面に表さなかった。
「すぐに参ります」
穏やかな声でそう応えて、ノヴァは立ち上がった。
ノヴァの執務室にシュ・ガイが姿を現したのは、その夜のことである。
「ノヴァ様、ノヴァ様がショナに参られるというのは、本当でございますか!?」
挨拶の言葉を口にすることなくズカズカとノヴァの執務室に踏み込んで、シュ・ガイはいきなり訊いた。元々白い顔が、怒りのあまりいっそう白く青ざめていた。
ノヴァは苦笑を浮かべた。
当面処理しなければならない書類をちょうど片付け終わったところだった。
ノヴァとシュ・ガイは、かつて上司と部下の関係だったことがある。
ただしそれは50年近く前、たった3ヶ月間のことだ。まだ宮廷に仕え始めたばかりのシュ・ガイに、ノヴァは教育係として、宮廷の様々な決まりごとを一から教えてやったのである。
普通ならそこで関係が終わるのだが、教育期間が終わった後も、シュ・ガイはノヴァの執務室に顔を出し続けた。二人は親族でもなければ、出身地も、属する派閥も異なる。ある時、「別の派閥の者をあまり頻繁に訪れるのは、あなたのためによくありませんよ」と、ノヴァはシュ・ガイに忠告したことがある。しかしシュ・ガイは「あたくしはノヴァ様の永遠の部下を持って任じております。お気遣いくださいますな」と、冗談ともつかない口調で答えた。以来、ノヴァはシュ・ガイが執務室を訪れることについて、止めることも、理由を聞くこともしていない。
シュ・ガイは性格的に気難しく、他人に対する評価もきつい。
『その彼がいったい、わたくしのどこを良しと思ってくれているのでしょうか』
と、ノヴァにはそれが不思議だった。
「耳が早いですねぇ。シュ・ガイさん」
「なにゆえ、なにゆえでございます!なにゆえノヴァ様がショナなんぞに!」
怒りに声を震わせながらシュ・ガイが問う。
「主上に、頼りになるのはお前だけだと言われました。そこまで言われれば、お断りすることはできませんよ」
シュ・ガイが、ノヴァの政敵の名を憎しみを込めて口にする。
「きっとヤツらが仕組んだことです!ノヴァ様を追い落とすために!能力の欠片もない、ただ主上に媚びる事しか能のないヤツらめが!」
「シュ・ガイさん。めったなことを口にするものではありません。どこで誰が聞いているか判りませんからね。それに……。
いや、やめておきましょう」
主上とは百数十年以上の付き合いだ。頼りになるのはお前だけだ、と言った主上の言葉に嘘はないだろうとノヴァは思っていた。
しかし、落ち着きなくノヴァの顔を見る主上の瞳に、ノヴァは微かな狂気の色を読み取っていた。
かつては人の意見を良く聞いた主上が、今はほとんど他人を信じなくなっている。そのことが、ノヴァの心を重くしていた。
「もし、ショナへ赴く理由を人に喋れば、」と、主上は言った。
「お前は死ぬ」と。
主上の言葉に、ノヴァは衝撃を受けた。
死の呪いをかけられたからではない。死の呪いをかけるということは、それはつまり、主上がノヴァを信じていないことの証しであったからだ。
何を言っても無駄--。
ノヴァは「かしこまりました」とのみ告げて退出した。
主上の意に沿わぬ諫言をしたが故に死を賜った者はここ数か月のうちに一人や二人ではなく、ノヴァ以上に長く主上に仕えてきた者も例外ではなかった。
「仕方がありません。主上のご下命には全力を持ってお応えするのがわたくしたちの務めですから。宮仕えというのは辛いものですよ」
「あたくしも参ります」
決然と言い放ったシュ・ガイの言葉に、ノヴァは「えっ」と声を上げた。驚きのあまり声を上げたことなど、久しくないことだった。
「見届け役が必要と聞いております。その見届け役として、あたくしがお供致します。どうかお連れ下さいませ。ノヴァ様」
ノヴァはまじまじとシュ・ガイの顔を見返した。
「いいのですか?」
生きては帰れないかも知れませんよ、とはノヴァは問わなかった。
「はい」
と、シュ・ガイは頷いた。
-2-
「繁栄しておりますねえ」
市街地を走る馬車から外の様子を窺いながら、ノヴァは呟いた。建物も道路も手入れが行き届き、行き交う人々の顔も明るい。ちらりと見えた市場には物があふれ、人声で騒がしすぎるほどだった。
ラカン帝国の首都であるニムシェも昔は賑やかだったが、最近は暗く沈んでいることが多い。
「そうかも知れませんが、ニムシェには浮浪者などおりませぬ」
ノヴァと向かい合って座ったシュ・ガイが嫌悪感を隠すことなく言う。
「そうですね」
と、ノヴァは微笑んだ。
確かにニムシェに浮浪者などいない。
いればたちまち捕まり、貧民保護施設という名の強制収容所に送られるからだ。
黒い髪の"残され人"を連れ帰れと命じられたものの、ノヴァはすぐに対象を探し出せるとは思っていなかった。ショナの人口は多く、手がかりはまったくないのである。ところがノヴァの予想に反して、ショナ国内に構築したラカンの諜報組織に照会すると、驚いたことにその日のうちに回答があった。
お探しの黒い髪の"残され人"は、デア南方のアテス市という小都市で借金取りをしております、と。
「借金取り!?」
素っ頓狂な声を上げたのはシュ・ガイである。
二人の正面には、ひとりの小太りの男が座っていた。諜報組織の取り纏め役を務めるショナの商人である。
彼らがいるのはショナの首都、デアにある一軒の商家だった。
「そ、そんな男を連れ帰るために、こんなところまで……!」
シュ・ガイが怒りのあまりパクパクと口を動かす。
「いやいや」と、商人は福々しい笑みを浮かべた。
「名を口にするのも憚られる御方たちが借金取りをしていると、少し前から噂になっておりましてね、ちょうどこちらでも調べ始めたところでございました。
対象の名は--」
と、商人が名を告げる。あまり聞いたことのない変わった名で、"残され人"ならばと、ノヴァは胸のうちで頷いた。
「--という次第で、現在は師匠とともに旅の途上にあるようです。貸付金の回収は旅のついでにと、魔術師協会から請け負ったようでございますな。旅の目的地がどこかは、まだ判っておりませぬ」
ノヴァは頷き、商人に白い顔を向けた。
「では、引き続き調査をお願いできますか?わたくしたちはさっそくその小都市に向かうことにいたしましょう。詳しいことが判り次第、連絡をお願いいたします」
「承知いたしました。ただ……」
商人が言い淀む。
「どうかしましたか?」
「少々、問題がございます。彼らは護衛を一人、このデアで雇っております。それがあの、英雄殺しなのです」
ぎょっとシュ・ガイが目を剥く。
ノヴァも体を固くして、
「あの狂戦士ですか……」
と、呟いた。
英雄殺しとして知られる以前から、ヴラドの名はラカン帝国ではよく知られていた。ラカン帝国から見れば東、ショナから見れば西の山岳地帯の領有権を争う戦乱で、最も厄介な敵として。ヴラドはあくまでも一介の傭兵に過ぎなかったが、前線で戦うラカンの兵士で、ヴラドの名を知らない者は皆無と言っても良かった。
ノヴァは、東の戦乱の視察に赴いた際にヴラドを実際に見たことがあった。
ヴラドに向かって放たれた矢は不思議なぐらい易々と躱され、槍は小枝のようにへし折られた。10人余りのラカンの兵士が、ヴラドの大剣の一振りで--誇張ではなく--宙に飛んだ。
ラカンの兵士にとって狼男はまさに、悪夢そのものだった。
しかし、ノヴァが一番驚嘆させられたのは、ヴラドの武力ではなかった。
ヴラドはよく戦っていたが、小競り合いとも言えるその戦闘では、全体としてはラカン帝国の方が優勢だった。戦端が開かれてからしばらくすると、別の戦場から、ショナの軍を打ち破ったラカンの部隊が丘を越えて姿を現した。
新手の出現に誰よりも早く気づいたのはヴラドだった。
戦場を遠望していたノヴァでさえ、狼男の視線を追って、ようやく味方の来援に気づいたほどである。
新手に気づいたヴラドは戦うのをやめ、戦場を縦横に駆け回り始めた。実際に狼男が何をしていたのかノヴァにはよく判らなかったが、ヴラドが大きな仕草であちらこちらでショナの兵に指示を飛ばしていることだけは見て取れた。
ショナの兵が少しずつ下がり始め、追撃しようとしたラカン兵の前には、必ずヴラドの巨体が立ち塞がった。
『まるで戦場の全てが見えているようだ』
と、ヴラドの動きを追いながらノヴァは思った。
おそらく本当にそうだったのだろう。ヴラドは忙しなく耳を動かし、臭いを嗅いで常に周囲を見回していた。戦場全体を知覚する五感の鋭さ、知覚した情報を的確に処理して兵を動かす判断力の高さ、それこそを、ノヴァは畏怖したのである。
ショナの兵士の撤退がほとんど完了した後、ヴラドは一人戦場に残った。
一人残って、まるでそれまでの鬱憤を晴らすかのように、暴風雨の如き荒々しさで何十人ものラカンの兵士を殺した。
背中を向け、悠然と立ち去るヴラドを、ラカンの兵士は誰も追わなかった。
むしろ狼男が自分たちの前から姿を消してくれることに安堵している気配が、ラカンの軍全体から感じられた。
ノヴァもまた、そのヴラドの姿を見ながら安堵していた。
『彼奴めにも、つけ込む隙はある……』
と、思って。
デア南方の小都市に密かに設けられたラカン帝国の諜報組織の拠点に入ったノヴァはひとりの男に出迎えられた。
拠点の責任者である男は、慇懃に頭を下げながら、
「ロウ」
と、名乗った。
歳は40代半ばだろう。身なりはよく、細身で、目の端に宦官に対する侮蔑を漂わせていた。本人は隠しているつもりだろうが、ノヴァからすれば、男の腹の内は文字で書いてあるよりも明瞭だった。
「お出迎えごくろうさまです」
ノヴァは親しみに溢れた笑みを浮かべてロウに声をかけた。
「では、ご報告をお願いできますか?」
客間に落ち着いたところで、ロウが調査内容の説明を始めた。対象の住む借家の場所。周囲の地形。一緒にいる人数。
「4人ですか」
「はい。対象以外に、対象の師匠である魔術師、英雄殺し、それと、女」
「女?どんな女です?」
シュ・ガイが横から訊く。
「取るに足らぬ女ですよ。名は、何と言ったか--」
「フラン。ニムシェのフランと名乗っております」
戸口近くに控えたロウの部下が答える。
「ニムシェの、ですか。つまり、ラカンの者なのですか?」
意外そうにノヴァが訊く。
「そう思われます」
「ショナに住みながらニムシェのと名乗るとは、変わった女ですね」
「英雄殺しの情婦でしょう。物見遊山ついでに旅をしているだけで、お気になさるほどの者ではありませんよ」
根拠もなく決めつけるロウを不快に思いながら、
「そうですか」
と、親しげな外見を崩すことなく、ノヴァはその話を終わらせた。
「旅の目的地は、判りましたか?」
「対象が取得したビザの情報を入手しております。ザッハディアとアレクシのビザを取得しており、アレクシまで行くことは確かなようです」
すでにノヴァも知っていることを、ロウが答える。デアの諜報組織からの情報である。
「アレクシまで行く目的は判りますか?」
「それはまだ判っておりません」
ノヴァは瞳の奥からロウと、ロウの部下の表情を窺った後、「いいでしょう」と、報告の続きを聞いた。報告を聞き終えた時には、ロウと部下の関係性や、各人の能力や性格など、拠点内の人間関係を、ノヴァはかなり正確に把握していた。
「これからどうされます?ノヴァ様」
ノヴァに割り当てられた部屋で、戸口近くに立ってひとしきりショナの悪口を言った後、シュ・ガイは椅子に座ったノヴァに尋ねた。
ノヴァは読んでいた調査報告書から目を上げた。
「しばらくは彼らの動向を調べることに専念いたしましょう。どうするかと決めるにはまだ早すぎるかと思いますから。
しかし、方策としては2案、といったところでしょうか」
「もしよろしければ、お聞かせ願えますか?」
「まずは、彼らに直接会って、ラカンに来て頂けないかお願いしてみることですね。彼ら自身の足で我が国に来てもらうのが一番手間はかかりませんから。
そのためには彼らの旅の目的地を知る必要があります。アレクシまで行くことは確か、ということでしたが、もしかすると彼らの目的地はラクドかも知れません」
「なぜそうお思いに?」
「対象の師匠である女魔術師、すでに死んではいますが、彼女の師匠は”始まりの魔術師”に関する研究では結構名の知られた人物でしてね。彼の書いた書物をわたくしも読んだことがあります。それらを読むと、彼が、ラクドにこそ真実あり、と考えていたことが判ります。
それと、我が国の諜報機関は優秀ですね、女魔術師がデアの図書館で借りた書物まで調べてくれています。このリストを見ると、女魔術師が大災厄に興味を持っていることは明らかです」
「”始まりの魔術師”と大災厄について調べているとなると、ノヴァ様の仰る通り、ラクドが最終目的地ということは充分ありそうですね。ラクド王宮の蔵書は、あたくしも一度は見てみたいと思っておりますよ」
ノヴァが頷く。
「まずはこの線で話してみて、大災厄の資料を餌に、ラカンへ来て頂けないかと話してみるのが第一案です。
それが叶わなければ、強硬手段に訴えるしかないでしょうねぇ」
「しかし、英雄殺しがおりますよ」
英雄殺しという呼び名を口にすることすら恐れるように、シュ・ガイが声を潜める。
「問題はそこです。英雄殺しを騙して標的にラカンまで来て頂けるか、となると、かなり可能性は低いでしょうねえ」
かつて見たヴラドの姿を思い出しながら、ノヴァは嘆息した。
「しかし、方策がない訳ではありません。ただその前に、ここの組織を少し整理して、使い易くした方が良さそうです。
シュ・ガイさん」
「なんでしょうか」
「死体を幾つか--そうですね、20体ほど集めるよう、ロウというあの男に言いつけてはいただけないでしょうか?」
-3-
ロウが部下を怒鳴りつける声がノヴァの部屋まで響いて来て、ノヴァは部屋を出て声がする土間へと足を運んだ。土間にはロウと彼の部下だけではなくシュ・ガイの姿もあり、シュ・ガイは、怒鳴り続けるロウに冷ややかな目を向けていた。
「何事ですか、シュ・ガイさん」
答えようとしたシュ・ガイを遮るように、ロウがノヴァの前に走り寄って膝をついた。
「申し訳ありません、ノヴァ様。言いつけられていた死体を……!」
「準備できなかったのですか?」
「申し訳ありません!」
芝居がかった仕草で深々と頭を下げてロウが叫ぶ。
「用意できたのは、14体だそうですよ。ノヴァ様」
「それは」
と、ノヴァは言った。
「ちょっと少な過ぎますねぇ」
ノヴァは、ロウの後ろに黙って控える彼の部下を見た。ロウに殴られるか蹴られたかしたのだろう、土に塗れた顔は唇が切れ、着衣も酷く乱れていた。
ノヴァの予想通りの展開である。
跪いたロウの前に、ノヴァはしゃがみ込んだ。
「ロウさん」
「はい」
「上の者の一番の務めは、責任を取ることですよ」
親しげな笑みを浮かべたままノヴァが言う。そしてその時には、ロウの胸に短剣が突き刺さっていた。魔法のような手際の良さで短剣を懐から取り出し、ノヴァがロウの心臓を正確に貫いたのである。
「……な」
「己の立場を守るために部下を殴るなんて、見え透いていますよ、ロウさん。あなたがここの組織の、一番の障害です」
握っていた短剣を離し、ノヴァが軽くロウの肩を押す。ロウの体が仰向けに倒れ、白目を剥いてひくひくと痙攣する。
「これで、15体の死体を揃えることができましたね」
何事もなかったかのように立ち上がると、ノヴァは部下の男を見て、「20体とは言いませんので、もう少し死体を集めていただけますか?」と、微笑んだ。
「私を処罰されないのですか」
男が、低く乾いた声で問う。
「あなたが良くお務め下さっていたことは知っております。なぜ処罰などいたしましょう。むしろ礼を言わせてください」
驚きに見開いた目を、男がノヴァの白い顔に向ける。
「くっ」と、短い嗚咽が男の唇から洩れた。そして男はノヴァの前に額づき、そのまましばらく顔を上げることはなかった。
「見ていただきたいものがございます。ノヴァ様」
部下の男がそうノヴァに告げたのは、五日ほど後のことである。今では彼が、ロウ、と名乗っていた。
連れて行かれた拠点の一角にある納屋で、
「これは……!」
と、ノヴァは声を上げた。
「新しい神の英雄の死体です」
淡々と男が告げる。
「おお、なんと素晴らしい」
ノヴァは死体に歩み寄ると、男の存在を忘れたように瞳を輝かせて新しい神の英雄の死体を点検した。
「どこでこれを手に入れたのですか」
男は、南方の事件の中心地のひとつだった小さな街の名を口にした。
「私はそこの生まれで、多少、ツテもあります。……新しい神の元信者とも」
「そうですか」
満足したようにノヴァが頷く。「シュ・ガイさん」と、傍らに控えたシュ・ガイに声をかける。
「なんでしょうか、ノヴァ様」
「もはやニムシェに生きて戻ることはないだろうと思っていましたが、もしかすると、また貴方と一緒にニムシェで杯を傾けることもできるやも知れませんね」
そう言ったノヴァの口元には、ショナに来てから、いや、ニムシェの後宮にいた頃からずっと、ここ数ヶ月の間見せたことのない、楽しそうな笑みが浮かんでいた。
-4-
ノヴァが死人の術を施した死体が、丁寧に馬車に積み込まれていく。ノヴァとシュ・ガイが、対象と話している間に--英雄殺しの気を引いている間に--、死体を所定の場所に配置するためである。
五感の鋭いヴラドに悟られないよう、ノヴァとシュ・ガイは手分けして、臭いを消す呪を馬車と死体の両方に入念にかけていった。
「ノヴァ様。なぜこのような手間をかけるのですか?ノヴァ様なら最初から死人の臭いを消すこともできるでしょうに」
文句を言うシュ・ガイに、ノヴァは大きく首を振って見せた。
「何も判っておりませんね、シュ・ガイさん」
「何がでしょう?」
「土と腐った肉の臭いがしてこその死人です。無臭の死人など、死人とは呼べませんよ、シュ・ガイさん」
と、同好の士以外には判り難い理由を、ノヴァは歌う様に口にした。
新たにロウとなった男を先頭に、拠点に属する者が全員、ノヴァとシュ・ガイの前に並んでいた。
「ノヴァ様」
と、ロウが言う。
「御武運を、お祈りしております」
ロウの背後に立った男や女が同じ言葉を唱和する。
ノヴァは微笑んで頷いた。
「あなたがたも、気をつけて」
「はい」と彼らが出発してから2時間ほど後に、ノヴァとシュ・ガイもまた、彼らの馬車に乗り込んだ。
御者を除けば拠点にいるのは彼らだけだ。拠点を廃棄するのである。死人による襲撃を行うのだ。これまでは足がつかないよう慎重に準備を進めてきたが、事を起こせば大量の証拠を残さざるを得ず、結果の成否に関わらず、いずれこの拠点を突き止められるだろうことは疑いようがなかった。
「短い間でしたが、いざ離れるとなると寂しい気がいたしますねえ」
「これで国に帰れるかと思うと、あたくしはむしろせいせいいたしますよ」
シュ・ガイの言葉に、ノヴァが笑う。
本当に国に帰れるかどうかは判らない。シュ・ガイとて、そのことは充分判っているのである。
「では、参るとしましょうか」
僅かに声を弾ませて、ノヴァが御者に合図する。静まり返った拠点に鞭の音が響き、二人の宦官を乗せた馬車はゆっくりと動き始めた。