蒼炎守
「そっ、蒼炎守」
「うん、蒼炎守」
その名は、蒼炎の都に生まれ住む者なら誰でも知っている。
聖域に住まう、この街で最も貴い御方。街の実質的な統治者である大君よりも尊ばれる姫君。
美しい蒼の御髪、白磁の滑らかな肌、尊顔は常に薄絹で隠された、神秘を纏う蒼の一族。
その性は水。生命を癒し、全てを優しく包み込み、ときには荒れて押し流す。
蒼炎守はある意味では、“エの一族”とは対極の存在であろう。
祭礼に関わり、人と精霊の間に立つ。しかし、片や雲の上。片や泥の底。
マーティンは、現在の蒼炎守──八十六代目──しか知らない。いや、知っているとも言い難い。なぜなら、街の儀式を執り行う姫君を、遠くからこっそり見たことしかないからだ。
一目で理解した。あの御方は、根本的に何かが違う存在なのだと。それでいて、どこか自分に近しいものを感じ、困惑もした。
忘れもしない、あの日。垣間見た、この世のものとは思えぬ、美しきものを。
艶やかな正絹の装束が、舞の動きにふわりと揺れ、陽の光を受けて金銀の刺繍がきらめく。シャンシャンと軽やかな響きは、手足に付けた鈴の音。麗しい舞に楽を合わせるは、主人と同じく顔を隠した、五人の臣下。
五人の臣下。蒼炎守に直接仕える、謎多き人々。素性も容貌も、そもそも正確な人数すら不明。
ただひとり、朽ち葉の紅の髪の女性のみ、蒼炎守の御言葉を伝える者として知られている。紅葉と名乗る彼女は老人達の祖父母の頃からずっと変わらないらしいが、蒼炎守に仕えているのだからと誰も気にしない。
チリ、と頭の片隅に何かが引っかかった。それが何か深く考える前に、思考は中断される。
「えーっと……揺玉姫が、これほど美しい物を作る手が穢れているわけがない! って宣言したんだったかなぁ」
「……聞いたことねぇよ、そんな話」
「えっ」
二人は無言で見つめ合う。
蒼炎守は直接的な権力こそ振るわないが、大君より上の身分である。当然、その口より告げられた言葉を軽んじてはならない。
だというのに、数代前の蒼炎守の御言葉が知られていない。これは由々しき事態だと、六歳の子どもですら理解できてしまう。
「……紅葉の姐さんに知られたら、燃やされっぞ」
「燃やされる?」
「それか薙刀でズザーッと」
こんな風に、と見えない長柄武器を一閃してみせるレイン。マーティンの脳内で紅の美女──遠目ながら何度か見たことがある──が薙刀を軽々と振り回す様がはっきりと浮かんだ。
音に聞く御仁は、とてつもなく恐ろしい。街の統治者である大君にすら、平然と苦言を呈すると聞く。また、蒼炎守に不敬を働く不埒者をバッサバッサと断罪している。これは噂ではない。断罪された者の処理はマーティンの一族、すなわち“エの一族”の仕事だからだ。
「……怖いなぁ」
「俺でも怖い」
「大人でも怖いのか」
「そりゃあねぇ、紅葉の姐さんを止められるのは蒼炎守と直臣のごく一部だけだからなぁ」
「…………失礼かもしんねぇけどさ、そんな大変な人、なんで使ってんの……?」
「いやー……何でだろうなぁ……」
「知らねーのかよ」
「聖域関連の中では歴が浅いだからなー」
「れきがあさい?」
「まだまだってことー」
ガリガリと頭を掻くレイン。綺麗に整えられた髪が乱れる。それがマーティンには、少しもったいなく感じられた。
「うん、姐さんのことはいい。蒼炎守の御言葉についても……まぁ、今はいい。それよりも今はお前さんのことを考えねぇと」
「……俺の?」
「そりゃあそうだよ。そうだなぁ……街が嫌なら俺が面倒見るし、勉強も教えられる。あっ、何なら聖域の管理人見習いになるか?」
「それは……」
とても魅力的だ。女だとか“エの一族”だとか、目の前にいるこの青年は決して言わないと、この短い交流で確信できている。それだけでもかなり心が安らぐ。
しかし。
「……でも俺は、やっぱり鍛冶師になりたいし、狩人になりたいし……それに、俺が蒼炎守の近くにいるのは、ちょっと……」
「うん、そうか」
さらさらと、小川の流れる音。
ざわざわと、木々が揺れる音。
そんな沈黙を、ずっと聞いていたいような。耐えられないような。
「……家には、あんまり、帰りたくない。でも……でも、どうすれば、いいんだろう……分かんねぇ……ここにいるのは……」
「許してくださるさ」
口にしなかった不安を、レインは読み取り解きほぐす。
「“エの一族”は穢れてなんていない。数代前の蒼炎守はそう告げられたんだ。今の姫様がそれを違えることはない。絶対に」
「でも、俺は子どもで、変なやつで」
「帰りたくねぇんだろ? 困ってんだろ? 心優しい姫様が、そんなお前を見捨てるわけがない。もしも仮に──あり得ないけど──あの姫様が見捨てようとも、俺だけは……ああ。俺だけは、お前の味方だ」
マーティンは、ぎゅっと口を結んで、眉を寄せて、必死に、真剣に考えた。
そうして決めた内容は──