07:テストその②
暗闇の中、ユニスのすぐ後ろで晶斗の気配がする。遅れず、ぴったり付いて来ている。いきなり暗闇になった驚きと不安も、ユニスのテストから逃げ出すという選択の後押しにはならなかったようだ。
ユニスは、T字路の突き当たりで止まった。発光する壁のわずかな光に目が慣れてきた。次の曲がり角の辺りまでがぼんやりと見える。
ユニスは光球が砕けた壁を指さした。
「この壁の中に、特別な空間があるの。人間が入れる迷図って、知ってる?」
「聞いたことはある。遺跡の中のどこかに『迷宮の中の迷宮』があるっていう、伝説だったかな。実際に見た者はいないという話だ」
晶斗の声からは感情が読み取れない。徹底したポーカーフェイスだ。
「記録はあるのよ。でも透視の得意なシェイナーでも、めったに見つけられない、次元と空間が遺跡よりもなおずれた領域なの。たぶん、この遺跡地帯に居る遺跡探索者の中には見つけた人はいないわ。表立っては噂にならないし、そこで発見される品物も、稀少すぎて、一般には流通していないそうよ」
「迷図の記録は軍の管轄下だぜ。君はその情報をどこから仕入れた?」
晶斗が探りを入れてきた。
ユニスはほくそ笑んだ。晶斗も一般に流通していない情報を持っているようだ。東邦郡で一番の護衛戦闘士という話もはったりではなさそうだ。
「遺跡の情報誌に、レア・アイテムの噂話が載っていたの。わたしは透視が得意だから、この迷図のことだとわかったわ。どうやって探せば良いかもね」
半分は本当で半分は嘘。雑誌には、シェイナーが遺跡に潜る方法まで書かれていない。迷宮の壁の中に特別な空間があると知っているのは、実際に遺跡の探索・研究に従事している者だけだ。
ユニスは、冷たい壁面に両手を当てた。シェインによる索敵だ。向こう側の様子を探る。指の透き間がほんのり白く光る。
「どうかしたか?」
晶斗にじっと見られている。
ユニスは、指先をピクリと動かした。反射的な動きだった。予想外の異質な何かを探知した反応。物? いや、これは生命体特有の気配。たぶん、この向こうに人間がいる。それも複数だ。
「でも、この入口からは入っていないってこと?」
ユニスは低く呟いた。左手を壁につけたまま、晶斗の方へ体ごと向き直る。人の気配を探知したことを告げるのは、迷図に入ってからでも遅くない。入ってすぐなら、晶斗を遺跡の外へ空間移送するのはたやすい。
「この壁の奥に迷図があるの。そこには珍しい宝物が隠されているのよ。でもそれを取れば、迷図は崩壊する。遺跡の核となる内部が崩壊すれば、当然、外郭である遺跡も崩壊するわ。だから、宝物を取ると同時に、外へ脱出しなきゃならないの」
ユニスの説明に、晶斗はあからさまに顔をしかめた。
「遺跡の通路を踏破するだけじゃないのか。俺はどうすりゃいいんだよ?」
「わたしに付いて来られるかどうかと言ったでしょ。ここまで来たら一緒に走るのよ!」
ユニスが差し出した右手を晶斗が掴む。するとユニスの左手が触れている壁の色が、絵の具が水に滲むように空気中に溶け出した。
ユニスと晶斗の周囲に、緑がかった灰色の煙みたいなものが漂い始める。
晶斗が後ろを向いた。すでに元の通路ではない。見たことの無い風景だろう。
「おい、もう迷図に入ったのか」
そこは天も地もわからない空間だった。世界の色は、遺跡の通路の壁よりは緑が強いモスグリーン色。空中にはそこかしこに明るい水色の光があわあわと漂い、どこからともなく吹いてくる微風が頬をかすめる。頭の上で、ふわふわと漂ってきた淡い紅のきらめきが、ふいに虹色の粒子に変じてから散って消えた。
ユニスが掴んでいる晶斗の手から、かすかな震えが伝わってきた。ユニスと晶斗は空中に立って浮かんでいる。立っているとはいえ、足の下は透明だ。しかし、足の下には踏んで硬い足場がちゃんと在って、ユニスも晶斗もその上に立っている。ただ、足場は完全に透明なので、二人とも空中に浮いているように見えるだけだ。
ユニスはピンと背筋を伸ばした。見渡す限りふわふわした虹色の光が行き交うモスグリーンの天空には、目印になるような物も、何一つ無かった。
肝心の目的物がどこにあるのかさえも。
でも、ユニスには、視える。
ユニスはクイと顎をそらせた。
「あっちよ。でも、じつは、人の気配がするのよね。急がなきゃ!」
「おい、まさか、先客がいるのか?」
晶斗の震えが止まった。人の気配があるのは、行くべき正面に向いたときの左方向だ。前を向いたときに視界に入るぎりぎりの端の方で、ゴマ粒のような影が点滅して、消えた。
「とばすわよ。はぐれないでね!」
ユニスは走り出した。重力は外界より少ないから体は軽い。ユニスが軽く引っ張るだけで、晶斗も同じ速度で移動できる。
「ここで右よ!」
ユニスが指示する方向に晶斗が眼を凝らす。が、シェイナーではない者の目に迷図の路が見えるはずもない。
はるかな空間には、きらめく微風だけが吹き抜ける。
二人が走り抜けた後は水色の光が点点と落ちている。まるで足跡のようだ。通過してきた風景は、いつの間にやら、銀色の光をはじく淡緑色の世界に変わっていた。
「急に様子が変わったぞ。これも迷図の固定化の一種なのか」
「知らないわ。こんな風に迷図を走ったのは、これが初めてだもの」
「そうか、初めて……えッ」
まぎれもない恐怖に彩られた晶斗の悲鳴は無視して、ユニスは晶斗の手を強く引いた。
「つぎ、左にまっすぐ!」
晶斗が軽いのを幸い、ユニスは左手一本で晶斗を振り回した。急カーブなどで、ときどき「おわっ!」とか「うぐっ」とかいう小さな悲鳴が聞こえるが、気にしないことにしておく。
右、ひだり、ちょいナナメ上。曲がって落ちて、三歩戻り、見えない地を蹴り上がる。まつわりつくわずかな重力をも振りきって、垂直に上昇する。
浮上の途中で、ユニスは、はっきりとした異常を感知した。
進行方向のずっと遠くに、人間の気配がする。
「いたわ。たぶん、三人」
ユニスはその場に急停止した。後ろで晶斗が慌てて止まる。
晶斗の胸に、ユニスの肩が軽くぶつかった。
「うわっと、すまん。ここが、その、終点か?」
「あ、いえ、ごめんなさい、違うわ。信じられないけど、わたし、誰かとぶつかったの。あるはずのない路でよ。ほら、そこ!」
ユニスが指差した近くの空中から、
「やいやいやい、てめーら」
聞き覚えのないダミ声が、吼えた。