034:世界の迷図(ワールドメイズ)
ホールの奥の祭壇はずいぶん遠くに見えたが、意外にすぐ到着した。
祭壇付近は、世界の迷図が放つ光で真昼のように明るい。その光は燃え盛る巨大な炎にも似た光炎だ。祭壇の手前に立つプリンスの身長と比較すれば、その倍くらいはあるだろう。
プリンスの両手の間に、小さな光炎が出現した。壇上にある光炎のミニチュアのようだ。
「世界の迷図に近づく前に、この迷図を踏破してください」
プリンスの手の上で、光炎は瞬時に変化した。
それは、硬質の光沢を放つ薄紫の正八面体と成った。正四角錐を上下に二個合わせた形は大人の拳大の水晶柱にも似て、内側には金の粒がきらめいている。
ユニスは壇上にある世界の迷図と見比べた。目を凝らせば世界の迷図も、正八面体らしき輪郭が光炎に透けている。
ユニスは、プリンスが捧げ持つミニチュアの正八面体に視線を移した。
「まだ、話が見えないわ。世界の迷図は、仕事を引き受けた場合の成功報酬じゃなかったの?」
そこでユニスの肩に晶斗が手を置いた。ビクリと体を震わせたユニスの前へ晶斗が進み出る。
「説明が先だ。ユニスに何をさせたいのか、はっきり言えよ」
「ユニスに依頼するのは、世界の迷図の踏破です」
「危険はないだろうな?」
「もちろん、これは安全です」
すると、プリンスの手の上にあった薄紫の正八面体は、光炎に包まれて大きく燃え上がり、小さな部屋ほどに成長した。そしてそれは、宙に飛んで、晶斗を弾きのけ、ユニスの頭上から落ちかかって来た。
ユニスは光炎の内側にスッポリと呑み込まれた。
「なんで?!」
ユニスは、一辺が三メートルはあるだろう正八面体の真ん中から外を眺めた。足下は床からたっぷり二メートルは浮いている。
薄紫の水晶みたいな外郭は、ガラスのような実体がある。熱くも無く、寒くも無く、呼吸も普通にできる。星粒みたいな金色のきらめきが全身を取り巻いていた。
「何だ、これは。おい、ここから出せ」
晶斗の声がくぐもって聞こえる。足下の方で、晶斗が外から外郭を叩いていた。非常に硬くて頑丈らしく、振動すら伝わってこない。
「それは、これからの彼女に必要となるテキストです。そこから動かずに、遺跡の構造を『踏破』してください」
プリンスの声は、奇妙なくらい、はっきり聞こえた。今のユニスとプリンスは、何らかのシェインの作用で『繋がって』いるようだ。
「踏破というのは遺跡の空間の全容を解析すること、理解して知識とすることです。あなたほどの能力者なら、走り回る必要はない作業です」
プリンスは、正八面体の正面に回った。
薄紫のガラス質の内側で、ユニスは、下に居るプリンスを睨んだ。
「この迷図を踏破すれば、出してくれる…………いえ、出られるのね?」
「そうです」
プリンスの冷たい微笑は、もはや大衆向けではなかった。より美しく、氷の華を思わせた。綺麗だからと不用意に触れば皮膚が凍てつき剥がれてしまう、危険な誘惑者。
「おい……?」
晶斗の方が不安そうだ。
「いいから、晶斗は離れていて」
ユニスの声は晶斗には普通に聞こえているようだ。晶斗は渋渋といった様子で油断無くプリンスを見張りつつ、正八面体から少し離れた。
ユニスはゴクリと唾を呑み込んでから、背筋を伸ばして目を閉じた。両手を胸の高さに挙げ、手のひらを外側に向ける。シェインを研ぎ澄ますための、自分だけの儀式めいた動作。
水晶壁に向けた掌が、ほんのりと温かくなってくる。ピリピリとした痺れのような刺激も感じられた。
瞼を閉じた暗闇の中で、自分に言い聞かせる。
ここは遺跡。
未踏破の迷宮の中。
いつものようにシェインで透視すれば良いのよ。
さあ、通路は、どうなっているの?…………――――
と、突然、透視のために集中していたシェインの目が、全方位へと飛翔した!
表層意識とは違う、無意識の領域で、ユニスのシェインが解析を始めると、ユニスを中心とした三百六十度の空間が、『動いた』。
空間に満ちたユニスのシェインに呼応するかのように、正八面体のすべてが『情報』に変換されてゆく。密室と化した正八面体の、隅隅までを網羅した詳細にして膨大な情報が圧縮された塊となって、一気にユニスに流れ込んできた!
ユニスはハッと目を開けた。
相変わらず正八面体の中だ。だが、正八面体を構成する情報はすでにユニスの知識として取り込まれていた。
薄紫色の正八面体は、通路や迷図こそ無かったが、シェインの高度な技術を集約して造られていた。中に入ったシェイナーが構造を透視しようとすれば、空間の構成情報を開示するシェインのプログラムが、シェイナーへ知識としてフィードバックされる。初めからそんなふうに設計されたものだった。取り込んだ今、ユニスにもそれがわかった。
なるほど、プリンスが言った通り、これはテキストだ。シェイナーが『遺跡』の基本構造を学ぶ教科書――――おそらくは国家に仕える神官などの、ハイレベルなシェイナーのために用意された『特別な』マニュアルなのだ。――――というのは理解できたが、ユニスがこの『技術』を習得すれば、プリンスにどんなメリットがあるというのだろう?
ふと下を見たら、晶斗が見上げている。張り詰めた目だった。ユニスを心配しているのだろう。
「平気よ、もう済んだから」
ユニスは晶斗へ笑いかけた。
と、正八面体の薄紫色が、すうっ、と薄れ始めた。形をも失い、空間を染める薄紫の残滓がすっかり消え失せると。
ユニスは、とん、と床に降り立った。
「で、なんだったんだ?」
晶斗は険しい表情をやわらげた。
ユニスは埃を払うみたいに、パッパッと手を打ち合わせた。
「あの中で、同化していた感じね。あれから出るためには、正確に分解するしかない構造なのよ。そのためにはすべてを把握する必要があるの。今はわたしの知識の一部となっているから、同じ物を作り出すこともできるわ。さて、次はわたしに何をさせたいの?」
ユニスが改めてプリンスに問いかけると、挑戦的な笑みで返された。
「その調子で世界の迷図のラディウスを取って来てください。それが指輪を外すキィワードです」
ユニスが言い返すより先に、晶斗がユニスの前に出た。
「いい加減にしろ。本当の目的は何だ? 俺たちに何をさせたい?」
「できなければ、指輪は一生、そのままです」
「けっきょくは脅迫か。今すぐ指輪をはずせ。俺たちはそれで引き上げる」
だが、プリンスは護衛戦闘士の存在など気にも留めていない。この状況を楽しんでいるのではないかと疑惑に駆られるほどに落ち着き払っている。
何かが奇妙だ。……ユニスは「ちょっと待って!」と晶斗をなだめ、プリンスに顔を向けた。
「確認しておきたいんだけど、世界の迷図は一点物よね。壊れたらだめなのよね。それなのに、わたしがさっきと同じ事をしても、壊れないの?」
「ええ」
プリンスの返事は明確だ。
「プリンスはどうしても、わたしにそうして欲しいのね。わたしが、それをしたら――――いいのね?」
ユニスは、そこできゅっと唇を噛んだ。言われた通りにするから晶斗を無事にここから出して、と続けて言いたくなった分は呑み込んだ。
まだ、そこまで危険だと決まったわけじゃない。プリンスへの懇願は、逆に弱味を見せることになりかねない。
「お願いします。貴女にしか頼めないのです」
プリンスの美しい顔から笑みは失せた。意図がまったく読み取れないポーカーフェイスだ。
晶斗が不安げな眼差しを注いでくる。なんといっても、プリンスは駆け引きに長けた政治家だ。ここまで来て、何もせずに黙って帰してもらえるわけがないくらい、ユニスにもわかっている。
「心配しないで。すぐに戻るわ」
ユニスは、できるだけ明るい口調で晶斗に告げる。晶斗が伸ばした手に捕まる前に身を翻し、薄紫に輝く世界の迷図へと駆け出した。
壇のかなり手前で床を蹴った。
軽軽と、十メートル以上ある高い天井近くまで飛翔する。これができるのは、この場所が、世界の迷図の影響が波及している空間だから。遺跡と同じ歪みのある空間だからこそ。
ユニスは両手を頭上にそろえ、薄紫の光炎に指の先から飛び込んだ。




