会津のご隠居
永禄7年の南奥において、伊達氏と肩を並べるといってもいいほどの勢力を有していたのは、会津守護として遇された蘆名氏のみともいえる。
本来、守護は陸奥や出羽、尾張などの律令制に定められて令制国のみであるが、会津は一国として扱われ、その会津守護に蘆名氏が任じられていたのである。
当時の蘆名氏の当主は、蘆名盛興であったが、彼はまだ17歳と年若く、実権は隠居した止々斎こと蘆名盛氏が握り、外交・軍事共に積極的に動いていた。
蘆名氏は天文20年には田村氏との間に有利な条件で和睦を結び、永禄2年には伊東安積氏の安積郡を抑え、伊東安積氏を傘下に収め、盛興に家督を譲った永禄6年からは岩瀬郡への進出を目指し、二階堂氏さらには伊達氏との間で争いが起こっていた。
蘆名氏の勢力は会津諸郡を中心に、安積郡、小川庄を支配し、大谷郡の金山谷の山内・横田の両氏、会津郡の長沼氏が従属していた。
「ご隠居様、石川大和守様から使者が来ております」
「ほう、石川からのう、通せ」
蘆名氏の本拠地黒川城にて蘆名盛氏は石川郡の領主である石川晴光から届けられた書状を読んでいた。
(石川めは二階堂との和睦の仲介を申し出てきたか。白河からも、和睦の申し出がきておるしのう。ここは一度飲むべきかのう)
「ご隠居様、お館様が御越しにございます」
「うむ、通せ」
盛氏のもとに、蘆名家当主の蘆名盛興がやってくる。
「父上、石川から使者が参ったようですがどのような内容で」
「うむ、石川大和は二階堂と和議を結べと言ってまいったわ」
「なんと、この二階堂攻めは我らが優勢、受けるわけはございませんな」
現状では、蘆名氏が二階堂を圧倒しており、二階堂救援のために攻めてきた伊達氏相手にも優位に戦を進めていた。
そのため、盛興はこのまま一気に岩瀬郡を支配下に治めようとしていた。
しかし、盛氏の中では、この和睦は結ぶべきと考えていた。
(うーむ、確かに二階堂のみを見ればここでの和議はこちらにとって利がないように見えるが、もっと大局を見ればここは一度和議を結んでも問題ない。それが分からんとはまだまだじゃのう)
「平太郎(盛興)よ、儂はこの和議を受け入れるつもりじゃ」
「なっ、そのような弱腰でよいのですか」
「平太郎、石川や白河が儂に和睦するように言ってきた理由はわかるか」
「理由ですか。それは石川、白河とも二階堂との間に誼を通じているからでは」
この当時の、戦においては、第三者は仲介し和睦することによって戦が終了していたが、東北においては、婚姻関係や養子縁組が重なることによって複雑な血縁関係が構成されていたことや、他国のように守護という上位権力が存在しなかったことから、他国のように大名家が滅ぼされるということがほぼなく、戦が始まっても少し経つと付近の大名が仲介を申し出てきた。
そして、その和睦の成立の証として、新たな婚姻や養子縁組、人質交換が行われることによって、またさらに複雑な血縁関係が構築されていくのであった。
そのため、盛興は、今回の仲介の申し出も、石川と白河が、奥州の戦の慣例として、二階堂を助けるために言ってきたものと考えていた。
しかし、この仲介は失敗することもある。また、過去にも少ないが他家に敗れ吸収されたり、家臣の下剋上により大名家がなくなるということもあった。
盛興としては、すでに大きい勢力である蘆名家がこの和睦を受け入れる必要はなく、二階堂傘下に治めたいと考えていた。
「平太郎よ、そんな簡単な理由ではないぞ。石川も白河も我らに頼ってきておるのよ」
「どういうことにございますか」
「石川と白河にとっての目下最大の敵はどこじゃ」
「敵にございますか。あっ。常陸の佐竹にございますか」
「そういうことよ」
当時、常陸の佐竹義重の南奥進出により、白河・石川両氏は佐竹からの侵攻を受けており、厳しい戦いを強いられていた。
特に白河氏は、激しい攻撃にさらされ、高野郡の南郷を佐竹氏に奪われていた。
また石川氏も、佐竹氏からの侵攻を防ぐために、伊達氏の庇護を求め、石川晴光は実子がいるにも関わらず、晴宗四男小二郎を養嗣子として、迎え入れていた。しかし、伊達領と石川領は離れているため満足な援助を受けることが難しかった。
そこで両氏は、現在勢力を伸ばしている蘆名氏の支援を受けることにしたのであった。
「ということは、こ奴らは、二階堂とは和睦を結び自分たちを助けてほしいといっているわけですか」
「まあ、そういうことじゃなあ」
「父上っ!これでは蘆名は虚仮にされておりますぞ」
怒りからか盛興の顔は真っ赤になっている。
「若いのう平太郎、これも小領主の生きるための戦略よ。強者の余裕として受け流さんか」
「しかし…」
「それにのう、晴宗めが、佐竹と連絡をとろうとしておるようじゃ。さらに相変わらず田村めもうるさい」
「田村は長年佐竹と関係を持っておりますな」
「田村も厄介じゃからのう。なにより猪苗代もいろいろと策動しておるようじゃからな」
猪苗代氏は蘆名氏の一族で有力な家臣であったが、独立心が強く盛氏にしてみても厄介な存在であった。
また蘆名氏も、盛氏のもとで領地支配や財政制度も整備し戦国大名化されてきていたが、永禄3年に、盛氏の庶兄が謀反を起こすなど、万全の状態とはいえなかった。
「ここは、彼奴らの顔を立ててやるとしよう。その上で佐竹への対応を考えねばのう」
天文の乱により畿内や他の地域に比べて遅い幕開けとなった奥羽の戦国時代だが、常陸の佐竹氏の南奥進出という奥羽という「閉ざされた世界」への他国からの侵攻により、新たな段階に突入しようとしていた。
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