留守家評定‼
永禄9年、高森城において、留守家後継者を巡る、議論は白熱していた。
「お館様も、すでに50をこえ嫡男孫五郎病弱。このままでは御家はなりたちませんぞ」
伊達派の筆頭ともいえる辺見遠江が、口を開く。
「だからといって伊達家から養子を迎えるというのでは御家が乗っ取られてしまうぞ」
それに対し、今度は孫五郎派の筆頭である村岡右兵衛が激しく言い返す。
「なにを言う!!先代様も郡宗公も伊達家から養子に入られたのじゃ、問題あるまい」
「だから乗っ取られると言っておるのじゃ」
それに対応するようにほかの家臣たちも、それぞれ各々の意見を言い始めていた。
そんな中で、孫五郎派であり、留守家の重臣余目伊勢守は何もしゃべらず、じっとその様子を眺めていた。
(確かにここで伊達家から養子を迎え入れれば、御家は安泰じゃが、留守家は伊達に乗っ取られてしまうわ。しかし、孫五郎様では家中が抑えきれまい。下手をすれば今度は遠江あたりが反乱を起こしかねんわ。そんなことになれば伊達家が出てきて、お館様は家中不届きで隠居で孫五郎様は廃嫡。我等譜代衆は全員追放になりかねんな)
本来、留守家中において最大の一族であり、孫五郎派であるはずの余目伊勢はすでに孫五郎後継をあきらめてきていた。
余目氏は、この当時の留守氏において最有力の一族であった。
それと同時に留守一族においては長年親伊達派の一族であり、永和3年、つまり1377年から200年近くにわたり、伊達氏とは密接な関係にあった。
特に、14代郡宗及び16代景宗の入嗣の際には余目氏が大きな役割を果たしていた。
この時はどちらも、当主に男子がなかったことと、宿敵国分氏との争いにおいて伊達氏の庇護を求めるということから一族伊達氏から養子を迎えることになったのである。
13代持家に男子がいなかったため、伊達家から郡宗を迎え入れることになったが、ここで鎌倉時代、伊沢家景以来続いた名門留守氏の血統は途切れてしまっている。
戦国時代という世において血統を守るということが重要なことと思われがちだが、実際は血統より名跡を残すことが重要視されたのである。
例えば、安積郡を巡り、田村氏と蘆名氏が争った際、両氏共に安積郡の領主である安積氏に養子を送り込もうとした。結果は、蘆名氏が安積郡を抑えたが、蘆名・田村の和睦の条件として安積氏の名跡は田村氏にわたり、田村の男子が継ぐこととなったのである。
鎌倉以前のように居住地を苗字として名乗るわけではないのに、兄弟で苗字が違う戦国武将が多いのはこれが関係している。
大名にしてみれば、自分の弟や次男三男を養子として他大名や国衆、重臣に送り込むことで、影響力を持つこともできるし、受け入れる側にすれば名跡を残し、他家とも関係を深めることができる。
まあ、これは江戸時代においても当てはまる。
江戸時代の諸藩においても、藩祖以来の血統より、血の繋がりのない他藩からでも養子を迎えることにより、藩と御家を守った。
そのため江戸時代約260年間の間で、戦国の世を生き抜いた藩祖から血統を守り続ることができた藩は意外と少ない。
閑話休題、このように名跡を残すことが重要視されたこの時代ではあるものの、やはり筋目として血統も大切な要素ではあった。
家景以来の血統はすでに途絶えたが、孫五郎の母は、留守一族の村岡氏の娘であるため、女系とはいえ留守家の血を引く人物ともいえる。そのため譜代衆にしてみれば一度伊達氏に奪われた名跡を留守一族に取り戻すという思いもあった。
また、留守家の譜代衆にしてみればここで伊達家から再び養子を迎えれば完全な伊達氏の支配下に置かれかねないという危機感もあった。
しかし、余目伊勢も心の中では、筋目を守り、孫五郎に跡を継いでもらいたいという気持ちはあったものの、現在の伊達家の威風にはかなわないことは分かっていたし、ここで御家騒動となっても、せっかく先代顕宗のもとで大きくなった留守家の勢力が弱くなるだけのことと思っていた。
(留守家一族のものとして孫五郎様を盛り立てていかんのだろうがな。どうあがいたところで伊達にかなうとは思えん。それに儂の嫡男の三郎太郎も、伊達家から養子を迎えるしかないと言っておったからのう)
伊勢は評定の場で一言も発しずに、静かに佇む息子を見ながらため息を吐く。
(とりあえずこの場は治めんとのう)
「各々方、いつまでも話し合っても拉致があかん。ここはいったん切り上げて、この問題はまた後日としてはいかがかな」
一族最大の有力者の言に、双方ともに矛を収める。
「お館様、本日の評定はここまでとしとうございます」
「うむ、大儀であった」
伊勢に対して留守顕宗は力なく答えるだけであった。
諸将が引きあげていくなかで、伊勢は留守家の将来を考え気が重くなるばかりであった。
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