後継者争い!?
大変長らくお待たせして申し訳ありませんでした。
いろいろ忙しく、まったく執筆活動できていませんでした。
こっからはしばらく(10月頃かな)は多少時間の余裕ができたので執筆していきたいと思います。
二階堂救援のため、加耶郡に侵攻した伊達家だが、蘆名家の猛将穴沢信徳により退けられている。
これにより、伊達家側は二階堂の救援をできなくなってしまった。
そんな中で、長兄の岩城親隆が仲介に入ってくれたことにより、伊達家と蘆名家の間で和睦が成立した。
二階堂氏は見捨てられてしまったといってもいいな。
その後も二階堂は必死に防戦していたが、及ばずに、永禄9年に入り、横田・松山両城を落とされてしまったことにより、遂に須賀川城の二階堂は嫡男を人質として出すことで和睦した。
和睦と言っているが実質的な降伏だ。これで伊達氏に近かった二階堂氏は完全に蘆名氏の麾下に入ってしまったといえるだろう。
ここら辺が面倒なんだよなあ。なんで降伏してるのに和睦っていうんだか。それにこの後の二階堂氏の立ち位置というか立場もよくわからん。
嫡男を人質にして、従っているが完全な家臣というわけではないし、かといって独立大名でもないからこんがらがってしまう。
さて、こうして岩瀬郡を巡る伊達・二階堂と蘆名の争いは、蘆名の勝利となり岩瀬郡が蘆名氏の支配下に落ちたこととなったのだが、兄上はそもそも蘆名と手を結ぶことを考えていただけに、そこまでのシコリはない。
そもそも、戦国時代裏切り裏切られは当たり前の時代である。その中でも血縁関係が複雑に絡み合い、大名や国衆、さらにはそれぞれの一族重臣まで、すべてがどこかで血縁に繋がりがあると言っても過言ではないぐらいなのだ。
遂この前まで同盟関係にあった家が敵になったり、同盟を結びなおしたりということが頻繁にあったため、そこまで問題とはならないのである。
どちらかというと伊達・蘆名の関係より、兄上と親父の関係の方がマズい。
親父は娘婿である二階堂が蘆名麾下に入ったことや蘆名と関係を深めていこうとする兄上の動きが気に入らないらしい。
ただ、そんな中でも親父は、いよいよ留守家への工作に精を出しているらしい。
これには兄上も反対していないので、これには協力している。
俺も、これは自分にかかわることだし、なにより、一応大名として独立できるので結構楽しみだったりする。
まあ、兄上の為にもなるだろうしね。
永禄9年、留守家中は、留守氏17代当主留守顕宗の跡を巡って問題が起きていた。
時に顕宗は齢50。しかし彼は病弱であり、さらに家中をまとめられないことから後継者問題が起こってしまった。
かつての村岡氏の反乱ののち、顕宗は余目氏の力を借りて高森城を村岡氏から取り返したものの、奪い返されてしまった。
最終的に、一族重臣の余目氏や佐藤氏、高橋氏の仲介や、講和の際に顕宗に嫁いだ村岡右兵衛の娘が男子を産んだこともあり、高森城に戻っていた。
本来であれば、この男子が留守氏の当主を継げば問題はないのだが、この嫡男孫五郎も病弱であったため、戦国の世を生き残ることができないということや、嫡男の外祖父として村岡右兵衛が実権を握ることに危機感をもった一部の重臣が、伊達家から養子を迎えるべきと訴えていた。
ここで孫五郎を押しているのは留守家の一族で孫五郎の外祖父でもある村岡右兵衛・左衛門・大膳親子、同じく留守家一族で家中筆頭の余目伊勢、初代伊沢家景の頃から代々執事を務め留守家当主から「御父」呼ばれた家柄でもある重臣佐藤太郎左衛門・三郎親子などの譜代の一族重臣であった。
彼らは、孫五郎が病弱であっても家中で支え、累代の筋目を守るべきと訴えた。
一方の伊達家から養子を迎え、伊達家の庇護を受けて御家の安泰を図るべきと訴えたのは、花渕紀伊、吉田右近、辺見遠江・孫右衛門兄弟らであった。
花渕、吉田両氏はどちらももとは独立していた小領主で、今は留守氏に従っているがそれぞれ宮城郡花渕浜、吉田浜の領主であった。辺見氏は景宗入嗣の際に伊達家から随行し、家老となった一族であった。
いわば伊達派となったのは、外様の家臣衆であり、孫五郎派の譜代家臣衆との間での実権争いでもあった。
読んでいただきありがとうございました。
しかし、二階堂氏の立場は難しいというか、東北は伊達、蘆名以外が誰が大名で誰が国衆なのかの分かれ目が非常に難しいですね。
真田丸の時代考証でもある黒田さんの意見を東北に当てはめると伊達・蘆名・最上などの少数以外が国衆ということになりますが、そうなると一郡程度の田村や畠山、大内と数郡の岩城や石川、白河さらにこれらについてる領主(関東の国衆程度の規模)も含めて全部国衆になってしまいますからねえ。
黒田さんや丸島さんのいう一国程度の領主が大名でそれ以下が国衆となると東北に大名いませんからね。




