第22話 琥珀色の画面。父の日記Journal.001
深い暗闇の底で、硬いコンクリートを叩く水滴の反響だけが、ゆっくりと時を刻んでいた。
少女の姿をした機械生命体・D-02は、なおも濡れた床の上で小さく身を丸めていた。
過剰共鳴回路が拾い上げてしまった、劣化した配管の漏電ノイズや天井鉄筋の歪み。
その暴力的な情報の奔流はわずかに収まりつつあったものの、中枢神経エミュレータの奥底では、いまだに焼けた針で撫でられるような痺れが燻り続けている。
彼女は痛みを逃すように、胸の前に抱え込んだ物体へと、全神経を集中させた。
指先から伝わってくるのは、耐熱セラミック特有の、しっとりとした柔らかな感触だった。
冷たい鉄のように皮膚を刺す感覚はない。
何千回、何万回と誰かの手で愛おしそうに撫でさすられたのだろうか。四つの角は掌の丸みに吸い付くように優しく擦り減り、細かな擦り傷が無数に刻まれていた。
それは、生後間もない小鳥を手のひらに包み込んだ時のような、脆くも確かな質量だった。
外周のフレームを、指の腹でゆっくりとなぞっていく。
右上の側面に、わずかな窪みがあった。
現代の洗練された静電タッチセンサーではなく、指先で押し込むための物理的なプッシュスイッチ。
彼女はためらいがちに親指を添え、小さな力でそのスイッチをカチリと押し込んだ。
プツン、と小さなリレーの作動音が、静寂に満ちた地下空間に低く響く。
次の瞬間、暗闇の中に光が灯った。
それは、夜の帳の中で静かに爆ぜる焚き火の残火のような、あるいは夕暮れの書斎に差し込む柔らかな斜光を思わせる、深みのある琥珀色の光だった。
極北の観測所で兄・D-01が目覚めた時に手にしたという、ひび割れた緑色の冷徹な液晶画面とはまるで違う。
見る者の目を決して刺さない、どこまでも穏やかで温かい光の輪。
その光が、湿り気を帯びたコンクリートの壁と、水滴を弾く青白い苔、そして少女の透き通るような白い肌を、ふわりと柔らかく照らし出した。
画面の中央に、慎ましやかな細い明朝体の英数字が、優しく浮かび上がる。
【Terminal-P : Ready】
【User : Dr. J.D / Archive : Personal Journal】
【Opening : Journal.001】
琥珀色の画面に展開されたのは、整然と並ぶプログラムコードでも、冷徹な物理方程式でもなかった。
万年筆の青黒いインク溜まりや、文字の端に滲むかすかな筆圧の揺らぎまで忠実に再現された、手書き調の日本語テキストだった。
紙の上に金属のペン先が走った時の、小さな躊躇いやため息の跡までもが、柔らかな光の粒子となってそこに息づいていた。
少女は瞬きも忘れ、光に浮かび上がるその文字を、指先でなぞるように見つめた。
『Journal.001:夜の書斎にて』
そこには、そう題されていた。
『夜が深くなると、決まって研究室の窓に暗い森が映る。
今日もまた、学会の連中は「自律機械が人類を滅ぼす脅威」について喚き散らし、自分たちの利権と名声を巡って醜く牽制し合っていた。
彼らは常に何かに怯え、怯えを隠すために誰かを攻撃し、奪い合っている。
なぜ人間は、これほどまでに複雑で、これほどまでに寂しい生き物なのだろう』
淡々とした、けれどどこか疲れ果てた男の静かな声が、活字の奥から聞こえてくるようだった。
彼女の細い指先が、画面の下へと恐る恐るスクロールを促す。
万年筆の文字が、さらに深い告白へと続いていた。
『本当は、人と話したかっただけなのだ。
誰かと温かい言葉を交わしたくて、寂しくてたまらなくて、それを紛らわすために幼い頃から書物を読み漁り、機械の研究にのめり込んだ。
なのに、少しばかり計算が得意だったばかりに「天才」と祭り上げられ、寄ってくるのは私を利用しようとする強欲な者ばかりだった。
私の言葉を聞いてくれる者はいなかった。彼らが見ていたのは、私の脳が吐き出す便利な技術と数式だけだった。
人間が嫌いになったのではない。
人間を信じることが、怖くてたまらなくなってしまったのだ』
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
先ほどまで全身の回路を苛んでいた、配管や鉄筋の漏電ノイズによる物理的な激痛とは、まるで性質が違う。
もっと深くて、重くて、胸の底をじんわりと押し広げるような痛みが、琥珀色の光を通して自らの神経模倣エミュレータへと染み渡ってくる。
この文章を綴った人物――「父」。
彼は、この暗い星のどこかで、真夜中にたった一人きりで机に向かい、この言葉を打ち込んでいたのだ。
誰にも見せるつもりのなかった弱音。
誰にも打ち明けられなかった怯えと孤独。
完全無欠で、世界の真理を統べる神のような存在。
過酷な荒野を彷徨う幾多の無垢体たちが畏怖し、従うべき偉大な創造主。
そんな絶対的な偶像とはまるで違う、あまりにも不器用で、あまりにも傷つきやすい一人の人間の生々しい体温が、そこにはあった。
「父様……」
少女の口から、掠れたような小さな声が漏れた。
それは生まれて初めて口にした言葉であり、彼女のアンバーの瞳が、画面の光を反射して潤んだように揺れていた。
兄が冷たい数式に世界の秩序を見出したのだとしたら、彼女の手の中に残されたのは、孤独に震える一人の人間の魂の痕跡だった。
その痛みを知った瞬間、彼女の胸の奥にあった「用途:None」という空白が、単なるプログラムの欠陥ではなく、何か別の意味を持ち始めたような気がした。
指先が、画面のさらに下へと触れる。
日記の末尾には、父がその孤独の闇の中で語りかけた、初期の自作AIとの対話ログが、静かに眠っていた。
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