殺人者を殺す列
刑務所では、あまりうまくやれていなかった。同じ房の連中には菓子を取られ、掃除を押しつけられた。文句を言うと、冗談だと言われた。本気にする方が悪い。気にするから面白がられる。そう言って笑われると、それ以上怒る方が小さい人間のような気がした。
少し前まで、俺たちは食堂でテレビを見ていた。
胸に名札をつけた宇宙人が、病気も老いも死もなくなると説明していた。話し終えるより先に、食堂の中へ、その場にいた全員分の扉が現れた。
扉を開けば楽園へ行けることも、どれが自分のものなのかも、なぜか全員が分かった。囚人たちは椅子や食器を蹴散らし、我先に殺到した。扉は逃げず、全員分あった。くぐれば刑期も罪状も関係なくなる。順番を守ろうとする者はいなかった。
刑務官たちも、それを脱獄として止めるべきか考える余裕はなかった。押し寄せる囚人に踏みつぶされる前に、それぞれ自分の扉へ避難するように駆け込んだ。
俺もすぐに立ち上がった。しかし、誰かに肩で弾かれ、別の男には足を踏まれた。倒れた椅子に膝をぶつけ、床に手をついているあいだに、食堂にいた人間は次々と消えていった。
最後には、食堂に俺と俺の扉だけが残った。
そのまま、すぐにくぐってもよかった。
しかし、ここまで押しのけられたあとで、慌てて追いかけるのも少し癪だった。それに、久しぶりに感じる孤独が、やけに心地よかった。
俺は詰所の壁から鍵束を外した。
刑務官の椅子は、囚人用のものより少し柔らかかった。背もたれに体を預け、机の引き出しを開けた。書類、ボールペン、胃薬、個包装の飴。囚人の私物を勝手に触れば懲罰になるが、刑務官の机を漁った場合にどうなるのかは分からない。もっとも、咎める人間はもういなかった。
飴を舐めながら、放送用のマイクを手にした。
「午後の作業は中止です」
自分の声が、誰もいない廊下に響いた。
「本日の入浴は、時間無制限とします」
返事はなかった。
もう少し面白いことを言おうとしたが、何も思いつかなかった。俺はマイクを戻し、詰所を出た。
職員しか入れない部屋を覗いた。食堂の裏では、まだ封の切られていないパンを見つけ、業務用のジャムを多めに塗った。最初は誰かに見咎められる気がして立ったまま食べていたが、半分ほど食べたところで、もう隠れる必要もないことに気づいた。
残りを食べながら、建物のさらに奥へ進んだ。
歩くたびに、鍵束が鳴った。
普段なら、こちらへ来るなと言われる廊下にも入った。閉まった扉があれば、鍵を順番に試した。開いた部屋に何もなくても、開けられるというだけで楽しかった。
やがて、普段は囚人が立ち入れない単独室の区画へ着いた。入口の鉄扉も、鍵束の中の一本で開いた。
その廊下の途中に、楽園の扉があった。
俺のものではなかった。
扉の脇には、一室だけ閉じたままの単独室があった。中にいるのが誰なのかは、すぐに見当がついた。数日前に入ってきたばかりの殺人犯が別の囚人と揉め、刑務官たちに取り押さえられた。この区画へ連れていかれるのを、俺も見ていた。
一人暮らしの老人をナイフで刺し、金を奪った男だった。逮捕後、報道陣に向かって中指を立て、裁判では泣いている遺族を見て笑ったと報じられた。事件はテレビで繰り返し流され、刑務所でもたいていの者が男の顔を知っていた。報道どおりかどうかは、俺たちには関係なかったが、ここではちょっとした有名人だった。
俺は鉄扉の監視窓を開けた。
房の中は薄暗かった。男は奥の寝台に座っていた。窓が小さいので、顔の半分と、膝の上で組んだ手くらいしか見えない。
「よう」
声をかけると、男が顔を上げた。
「誰だ」
「誰でもいいだろ。他の連中は、もうみんな行ったぞ」
「そうか」
「お前の扉も出てる。この房の前だ」
男の目だけが、監視窓の向こうへ向いた。
「鍵、開けてやろうか」
俺は見せびらかすように、窓の前で鍵束を回した。
「いらない」
「扉は外だぞ」
「あとでいい」
膝の上で組んだ指も動かなかった。
食堂でもみくちゃにされた俺には、男の落ち着きぶりが気に入らなかった。どうせ外へ出してやるなら、その口で頼ませ、礼を言わせてからにしたかった。
「テレビの説明、聞いてないのか。楽園だぞ」
「テレビの音が、ここまで聞こえると思うか」
「そうだよな」
俺は親切のつもりで説明した。向こうじゃ、誰でも幸せになれるらしい。金にも困らない。好きなだけ女も抱ける。病気もしない。老けない。死なない。前科があっても関係ない。
死んだ人間にも会えるらしい。
「……そうか」
返事の前に、わずかな間があった。それは、楽園を歓迎する返事には聞こえなかった。
俺は、男が扉を後回しにする理由に心当たりがあった。
「死んだ人間は、元気だったころの姿に戻るらしいぞ」
男の組んでいた手がほどけた。
「お前が殺した爺さん、七十過ぎだったんだろ」
「ああ」
「向こうじゃ若返ってるな」
「若返る?」
「一番元気だったころじゃないか。三十くらいかもな」
宇宙人は、そこまで説明していなかった。俺が勝手に足した。
男は、ほどけた手を組み直そうとした。だが、指は途中で止まった。
俺は少し楽しくなった。
「若いころは、体が大きかったかもしれないぞ。柔道でもやってたら、お前より強いだろうな」
今度は返事がなかった。
「柔道じゃなくて、空手やボクシングかもな」
俺は笑った。
男の目つきが変わった。普段なら、それだけで窓を閉めたと思う。しかし今は、間に厚い鉄扉があり、鍵も俺が持っていた。
「関係ない」
男は、ほどけた手を膝の間へ押し込んだ。
「関係ないってことはないだろ」
「向こうでは死なない」
「死なないだけで、殴られても痛くないとは言ってなかったぞ」
「言わなかっただけだ」
「どうだろうな」
「知ったふりをするな」
「説明を聞いてないお前よりは知ってる」
男の顎が、わずかに上がった。
「爺さんだけじゃない。遺族も向こうにいるだろうな。裁判で笑った理由を、向こうでゆっくり説明できるぞ」
「あれは事件を笑ったんじゃない」
その返事だけは早かった。
「それを本人たちに言えばいい」
「会うとは限らない」
「お前は顔が売れてるからな。誰かが見つければ、遺族にも伝わる。向こうには時間がいくらでもあるんだ」
「簡単には見つからない」
「探す方も死なない。急ぐ必要はないだろ」
楽園がどれほど広いのかも、人を探す方法があるのかも、俺は知らなかった。
「俺はもう罰を受けている」
「まだ入って数日だろ」
男の手が、寝台の縁をつかんだ。
殺人犯がうろたえているように思えて、俺はなんとなく良いことをしている気になった。
そもそも、こいつが楽園へ行けることも面白くはない。
俺は空き巣で捕まった。留守の家から現金と腕時計と、箱に入ったままのゲーム機を盗んだ。悪いことをしたとは思う。それでも、人は殺していない。なのに、扉をくぐれば行き先は同じで、同じものを受け取る。それはおかしいような気がした。
そう考えると、男をもっと怖がらせたくなった。
「そういえば、説明の最後に言ってたな。向こうでは、お前みたいなやつを懲らしめてもいいらしい。最初は被害者と遺族。そのあとに希望者が並ぶ」
「並んで、どうする」
「ひとり一回、お前がやったのと同じことをする」
「同じこと?」
「お前、爺さんを刺したろ」
「関係のない人間も、俺を刺すのか」
「人殺しが嫌いなやつは多いからな」
「人殺しが嫌いなのに、俺を殺すのか」
「お前は死なない。だから殺したことにはならないんだろ」
男は二度、短く首を振った。そして自身に聞かせるように言った。
「……刺されても傷は治る」
「ああ。だから困るよな」
「困る?」
声が少し掠れていた。
「治ったら、また刺せる」
監視窓の向こうで、男の喉が動いた。
「俺は何回刺されるんだ」
「さあな。希望者だけでも相当いるんじゃないか」
「そんなことはありえない」
「お前も、こっちでありえないことをしたろ」
俺は声を出して笑った。
自分で作った嘘なのに、話すほど本当らしく思えてきた。
笑い声が廊下の奥へ消えたあと、男が言った。
「……宇宙人は、人を殺したやつなら刺していいと言ったのか」
「言ったよ」
「ひとり一回とも?」
俺はすぐに答えられなかった。
「言い方は違ったかもしれない」
「嘘だな」
寝台が軋んだ。
足音が近づき、監視窓いっぱいに、テレビで何度も見た顔が現れた。額が鉄板に触れそうな近さだった。
「俺が怖がってると思って、面白かったのか」
笑いが止まった。
「冗談だよ。本気にする方が悪いだろ」
同じ房の連中も、俺にそう言った。
今度は俺が言う側だった。
男は何も言わなかった。
俺は鍵束を回そうとしたが、うまく輪に指が入らず、鍵同士が細かく鳴った。
そのとき、単独室の中で、かちりと音がした。
房の鉄扉の鍵ではなかった。
鍵穴は俺の目の前にあり、俺は触っていない。
振り返ると、廊下にあった楽園の扉が消えていた。
「おい、お前の扉が消えたぞ」
「ああ。こっちにある」
監視窓からは、房の奥が見えなかった。
怯えたと思われるのが癪だったから、俺は口の端を歪めて言った。
「よかったな。爺さんが向こうで待ってるぞ」
言ってすぐ、やめておけばよかったと思った。
男は顔を横へ向けたまま、しばらく動かなかった。
やがて、視線だけを俺へ戻した。
顔が窓から消え、足音が遠ざかっていった。
「行くのか」
「ああ。お前より先にな」
房の奥で、扉の取っ手が動いた。
男は、ささやくような声で言った。
「お前も来るんだろ?」
「当たり前だ。行かない理由がない」
声が上ずらないように答えた。
「先に行く」
「勝手にしろ」
「お前を待つ」
「俺を?」
「ああ、お前を待つ」
なぜ、とは聞かなかった。
暗闇の中で、男が笑っているような気がした。
「ひとり一回っていうのは嘘なんだろ。なら、何回やってもいいわけだ」
房の奥で扉が開いた。
しばらくして、閉まる音がした。
監視窓を覗く気にはならなかった。かといって、食堂に戻る気にもならなかった。俺は鍵束を握り直し、詰所へ引き返した。
刑務官の椅子に座り、パソコンを引き寄せると、検索欄に文字を打ち込んだ。
宇宙人 楽園 暴行 痛み
検索候補の一番上には、すでに「楽園 犯罪者 復讐」とあった。
楽園の扉が開いた世界を、もっとヘンテコな角度から
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